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『叢林の果て』キューバ革命を下敷にした、ゲリラ軍の男性と少女の生き様のドラマ

発表年/1968年
1968年に、雑誌「文学界」に発表された短編『叢林の果て』。ストーリーは、1955年に革命軍のカストロ兄弟とチェ・ゲバラが、政治犯として亡命していたメキシコから、戦闘開始のためキューバへプレジャーボートで渡ったという歴史的事実が下敷になっています。

キューバは長らくアメリカの支配下にありましたが、クーデターで政権を奪取したフルヘンシオ・バティスタは、その後もアメリカの力を借りて独裁体制を築き上げようとしていました。そんな政府に対し革命の狼煙をあげたのがカストロ兄弟たちです。革命は1958年に成功しますが、その後もアメリカやロシアなど大国の思惑の中で、キューバは長い暗黒の時代を送ることになるのです(ただ革命自体はこの物語とは関係ありません)。


キューバの旧国会議事堂(カストリオ)




1.物語の特徴

①同時進行的に進む2つのストーリー

物語は、革命軍に参加したラウルという男性と、両親をチフスで亡くし、サンチャゴの伯父の家に引き取られたマリアナという少女が、それぞれ独自に語る2つのストーリーという形で進められます。

ラウルはメキシコで革命軍の戦闘員となり、仲間と共に厳しい軍事訓練を経て、祖国キューバで戦闘を開始するためプレジャーボートに乗り込みます。その数80人。ボートは狭く、悪天候と操舵手(パイロット)のいい加減な操縦のせいで、全員船酔いで倒れてしまいます。それでも何とか警備艇の追跡を逃れて陸に上がるのですが、そのとき既に政府軍に発見されていて、唐黍とうきび畑で包囲されたあげく部隊はほぼ殲滅されてしまうのです。それでも残った8人は丘を越え、叢林を抜けて山脈へ逃げ込み、後に増員された現地の50名と合流してゲリラ戦を開始するのですが、敵との銃撃戦でラウルは瀕死の重傷を負ってしまいます。ラウルの語りは、そんな死に瀕した彼のうわごとなのです。

一方、マリアナが引き取られたサンチャゴの伯父は農場主で決して貧乏ではなかったけれど、仕事といえば農夫をこき使ったり農園の執事を叱りつけたりするくらいで、あとは一日中飲んだくれていました。そして、マリアナが成長して女らしい体つきになってきたとき、この伯父に襲われそうになるのです。マリアナは塞ぎがちになり、そんなマリアナを疎ましく思った伯母によって首府の寄宿学校に入れられることになるのですが、首府に出るとマリアナは自由を求めて逃げ出し、そこで出会った失業者のレネという青年と同棲を始めます。二人は職を探しながらもしばらくは幸せに暮らすのですが、マリアナがホテルでのタバコの売り子という仕事にしかつけなかったこと(それはいずれは女として危ない仕事に繋がることを意味していました)、レネの、決まりかけていたまともな職がだめになったことで、レネが自暴自棄になり、やがて二人は別れてしまうのでした。

マリアナがどうして革命軍に加わることになったのか、そこは語られることはありません。ただ、別れたあとレネが大統領暗殺に加わって殺害されるという事件を新聞で見たのみです。
物語は、銃撃を受けて二日ともたない状態になったラウルをマリアナが介抱するという、そのシーンから始まるのです。


②段落もなく区切りもなく流れてゆく、二人のモノローグ

ラウルとマリアナの2つの物語は、それぞれのモノローグという形で語られてゆきます。そしてそれは最初から最後まで、段落もなく、変わったという印もないまま、交互に流れてゆくのです。例えばエンディングに近い、マリアナがラウルの事件を新聞で目にする場面からはこんな具合です。

もちろん名前だけでは、そのレネが果して彼であるかどうかわからなかった。しかしおそらく彼であることに間違いないような気があたしにはした。あたしはむしろそれが彼であってくれたほうがいいように思った。くしゃくしゃの髪をかきあげながら、二匹のモルモットを抱いていたレネが、もし彼らしい仕事を見つけたとしたら、おそらく彼が辿った道以外にないような気がした。そうなのよ、ラウル。あなたが辿り、そして後に、あたしが辿ったように、彼の道もそれ以外にはありえなかったように思えるのよ。おれたちは翌朝、まだ夜が明けきらぬうちに出発した。敵が行動を開始する前に、おれたちは時間を稼いでおかなければならなかった。腹はへっていたが、食糧といっては、ビスケットが少し残っているだけだった。おれたちはそれをかじった。ラミロの水筒の水をみんなでわけた。それから出発した。叢林のなかはまだ白く霧が流れ、それが谷間から斜面を匍いのぼってゆくのが見えた。

『叢林の果て』 有学書林/「黄昏の古都物語」より


実はこの手法は、以前にレビューを書いた『献身』でも取られた方法です。

これについて、「黄昏の古都物語」のあとがきで、辻邦生さんご自身が次のように書かれています。

当時、私は短編のなかにパセティックな情念を漲らせたいと考えていた。そのため複数の人称が、とくに明瞭な区切りを持たぬまま、一つの意識の流れのように、語りつづけるという表現形式に執着した。ランボーの生涯を扱った『献身』などがその典型的な例だが、『叢林の果て』も同じ意図のもとに書かれた。
(*パセティック=悲壮なさま、感傷的あるいは感動的なさま。)

「黄昏の古都物語」 有学書林/あとがき より
「黄昏の古都物語」/takizawa蔵書


前の評論『小説への序章』でもみた通り、辻邦生さんは、小説を感動を生むための装置として考えていらっしゃいました。

物語(ナラシオン)はそのための手段であり、それにはまず、事実(この場合はキューバ革命)を全的に自分の中に取り込み、(小説が構想された時点での)出来事を最初から最後まで完全に把握した上で、象徴的に書かれたのだとおもいます。そのために必要だったのがこの、

複数の人称が、とくに明瞭な区切りを持たぬまま、一つの意識の流れのように、語りつづける

という形だったのでしょう。


2.作品の持つテーマ性ということ

こうした、二人の意識が区切りもなく交互に繰り返されるという形式が取られた結果、ある一面では、<ただ流れてゆくだけの物語>となってしまった感があるのは否めません。ラウルのモノローグには、ごくたまに指導者の考え方が出てきます。

革命はただ成功すれば、他の一切が許されるというようなものではない。革命の意味は、人間が人間を取り戻すことにある。もしここで革命を外的に成功させるために、内部で人間を無視するような態度をとり、それが革命の精神に影響を及ぼしているとすれば、そうした革命は、もはや当初の人間尊重の理想を失ったため、自己矛盾に陥って頽廃する。革命がつねに若々しく生命に満たされるためには、革命のプロセスが人間恢復と人間尊重を内包しなければならないのだ。

『叢林の果て』 有学書林/「黄昏の古都物語」より

しかしここにテーマがあるわけではなく、一つ一つのエピソードや個々の思想的なことは、それらが集まってできる物語の要素にすぎないのです。指導者はチェ・ゲバラを模しているとおもわれますが、それはゲバラその人ではなく、辻邦生さんの中で作られた登場人物のひとりです。なので、固有名詞が与えられることはありません。
従って、テーマは辻邦生作品すべてに共通するところの<感動>にあるとおもわれますが、それでも、辻邦生さんはあとがきでこう語っていらっしゃいます。

考えてみれば、いかにソ連共産党が消滅しても、世界の多くの勤労者、農民が豊かな幸せな暮しを送れるような社会を作るのが人間の願いであることに変りはない。日本が豊かな繁栄を享受しているとしても、まだ地球人口の過半数は、暴力と貧困と飢餓と病気に苦しめられている。そうしたものが地上からなくなるまで、人間が正義と平和を実現すべく努めることは、時代の流行如何にかかわりなく、人間の根源の姿勢でなければならないだろう。

「黄昏の古都物語」 有学書林/あとがき より

ここには、二つの大戦に始まる危機の時代を生き抜いてこられた辻邦生さんの、<小説を書く>ことの、また別のテーマが現れているように僕には感じられるのです。




【今回のことば】

だが、いま、おれにはわかる⎯⎯つまりこの重さに彼は耐えているのだ、彼、おれたちの指導者は。長身をかがめるようにして、銃を担い、黙々として前進している彼は、おれたちが、まだ運動選手の合宿訓練さながらに分宿していたメキシコ時代から、この重さをはっきり理解していたのだ。それは実に、いまという時間の刻々の重さなのだ。他の現実と入れかえることのできぬ、このいまの、ほとんど永遠ともいいたいような現存の重さが、それなのだ・・・・。

『叢林の果て』 有学書林/「黄昏の古都物語」より




『叢林の果て』収録作品
・河出書房新社「辻邦生作品全六巻〈3〉」1972年

・新潮文庫「北の岬」1974年

・有学書林「黄昏の古都物語」1992年




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