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『献身』死の床にある詩人ランボオと、それを看取る妹、モノクロームの映画のように

発表年/1966年
下の記事で辻邦生さんの作品の特徴をあげてみましたが、

もうひとつ、次のことがありました。

モチーフの豊かさ

歴史もの、恋愛もの、あるひとりの人生を描くもの、思想的なイメージもの。中には怪談めいたものから「世にも不思議な物語」のような掌編まで。いったい、その着想はどこから得たのだろう・・・というより、なぜそれを書こうとおもわれたのだろうか、ということが気になってしまいます。
この『献身』という短編も、そんな作品のひとつです。




1.あらゆる世界への絶望と怒り。ランボオとは何だったのか?

この作品のモチーフとなった詩人、アルチュール・ランボオ(またはランボー)について、少しご紹介したいとおもいます。

河出文庫から出ている『ランボー全詩集』のあとがきで、訳者、鈴木創士氏はランボーについてこう書かれています。

・性急で、堪え性がなく、激しやすく、手に負えない存在だった詩人アルチュール・ランボー(略)。
・マラルメが言うように、たしかにランボーはただの「通行人」にすぎなかった。アルチュール・ランボーはそこかしこをただ通り過ぎただけである。

『ランボー全詩集〜アルチュール・ランボー』鈴木創士 訳 
河出文庫/訳者あとがき より


また、1969年に出版された白凰社の愛蔵版詩集『ランボー詩集』では、訳者の堀口大学はこう記しています。

大ランボーは冒涜と敬神、純と不純、地獄と天国の各々に片足ずつを踏み込んで立つ。かれにあっては、足は人間の土地を踏み、胸は神秘の天上に接し、頭脳は予言の星に触れていた。これは通った道の両側におびただしい未開墾地を残した開拓者であった。この意味で空前絶後の詩人であろう。

『白凰社愛蔵版詩集 ランボー詩集』堀口大学 訳 白凰社/あとがき より


1854年、フランスのシャルルヴィルに生まれたランボオは、学業優秀ながら何かに反抗するかのように15歳で詩作を始め、16歳でパリへ出奔。その後はフランス社会、国家に絶望や幻滅、怒りを覚えながら、あらゆる規範の外へ脱出したいという激しい渇望を詩に託しつつ、ヨーロッパを放浪しました。
1875年、突然詩作を放棄してからは外国語を学ぶためにあらゆる職や場所を転々とし、最後に武器を扱う貿易商としてアフリカに辿り着きます。しかし、ついには悪性腫瘍を患って右足を切断、1891年に志半ばで死を迎えることになります。37歳でした。

そんなランボーの詩は、彼以降の世界中の詩人に現在に至るまで影響を与えつづけています。しかし辻邦生さんはこの作品の中で、ランボオにこう言わせています。

しかし一人前の人間が、これぞ心の底の真実の声と、少女もどきに黄色い声をあげて、臆面もなく紙に書き散らす滑稽を、あんたのような人でもやったのだ。(略)イザンバル先生よ、詩とは、少なくともそんなものではなかった。そんなものであってはならなかった。

『献身』 新潮文庫『サラマンカの手帖から』 より

詩人ランボオとは、いったい何者だったのでしょうか?


2.小説『献身』を書いた辻邦生さんの思い

『献身』は、死の床にあるランボオが自らの一生を幻のように振り返るといった形が取られています。アフリカで武器の貿易に全精力を傾けた頃の自分とそこに至るまでの社会との軋轢、それを、まだ死ねないという強い思いに苛まれながら独白するランボオ。そして、そんな兄に死期が迫っていることを悟られまいと必死に涙を堪えながら看病する妹イザベル。書かれているのはランボオの生き様ですが、見て取れるのは薄暗い病室の中、ベッドに横たわるランボオと兄を看取るイザベルの、ふたりきりの姿です。その光景が、読む者に静かな感動を与えるのです。


『献身』が収録された初期の短編集『シャルトル幻想』のあとがきで、辻邦生さん自身が『献身』について次のように綴っています。

私は今も小説を<感動の装置>と見なしているが、それは、小説がいわゆる「読むもの」ではなく、「一体化するもの」という思いがあるからなのだ。
いわゆる「読むもの」の場合、読むことによってわれわれの中に入ってくるのは知識だが、しかし小説の場合、それは感動である。

『シャルトル幻想』阿部出版/あとがき より

上記の意味で言うとこの小説は、確かに読者に密やかな感動を与えます。読者はランボオの破天荒な生き様を、その息遣いを目の当たりにしながら、実はごく狭い病室の中のささやかな出来事ーー死にゆく兄のことを思って打ち震える妹の後ろ姿ーーに、気持ちを重ね合わせることになるのです。


3.辻邦生さんの実験ーーまるで上質なフランス映画のように

辻邦生さんは、さまざまなモチーフを自在に操るとともに、小説の中でいろんな実験もされています。それは意図して行われている場合もあれば、期せずしてそういう手法になったと思われるものもあります。そして、『献身』の場合はおそらく後者です。


物語はまず、いわゆる神の視点ーー第三者が語り手として高みから見ている視点ーーで始まります。しかし、ある時点でそれはイザベルの独白に変わり、ランボオ自身の感情の吐露に変わり、また神の視点に戻る、といった具合。例えば次のように。

兄は眠っているのだろうか。しかし彼がもう眠りのなかに入ることなどありえないのを、誰よりも妹はよく知っていた。・・・(略)・・・彼は現実と幻覚の区別すらつかなくなったのではあるまいか。兄は私にむかってそれを話すだけではない。・・・(略)・・・彼女は洗面所に急いで鏡で自分の顔を見た。・・・(略)・・・でも、いまは、もう私と兄妹だなどと言っても、誰も信じてはくれないだろう。私ももう三十をこえて、田舎の太陽と風にさらされて、すっかり年より老けてしまったけれど・・・(略)
*(太字はtakizawaによる)

『献身』 新潮文庫『サラマンカの手帖から』 より

こんな調子でランボオとイザベルの独白が時計の振り子のように行ったり来たりしながら、時に神の視点が挿入される。そして最初から最後まで、これが段落もなく続いてゆくのです。それはまるで、モノクロームのフランス映画をひたすらじっと見ている、そんな感じです。どうやら意識してそのように書いたことは間違いないらしいのだけれど、『献身』という、ランボオの死期をモチーフに選んだ時点で既にこの書き方が予測されていた、そうおもわないではいられません。そこに辻邦生さんのおっしゃる《感動》が、より色濃く現れていると僕はおもうのです。


これはこれでひとつの作品として完成されているのは間違いなく、確かにフィクションなのですが、それにしても、本当にアルチュール・ランボーという人は、あるいはその生き方は一体何だったのでしょう? ただひとつ言えるのは、世界中のあらゆる詩人、作家、芸術家たちと同じように辻邦生さんもまた、ランボオに魅了されたひとりだったということです。
(ランボーとランボオは意識的に変えてみました)




【今回のことば】

やはり文学には、君、社会という基盤がいるのだ。そこから栄養を吸いとらなければならない。それに、君、毀誉褒貶こそが真の文学の動機だからね。文学とは理想の仕事じゃない、現実の仕事なのだよ。現実の。いいかい、現実のね。

『献身』 新潮文庫『サラマンカの手帖から』 より




『献身』収録作品
・新潮文庫「サラマンカの手帖から」1975年

・阿部出版「シャルトル幻想」1990年

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