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ハイドンが好きな男はいない (連作短編8)

 違いのわからない男・小清水健一は片想いの諦めどきもわからない。
 国民的アイドル女優を射止めた某俳優は、ガードの固い彼女が新幹線に乗る時刻をマネージャーに聞いて駆けつけ口説いたとネットニュースで読んだ。ストーカーとの違いがどこにあるのか、モテない男・小清水健一にはわからなかった。
「勝てば官軍、か……」
 彼は誰に聞こえるでもなく、独りごちた。
 彼の頭の中は来る日も来る日も「オフィーリア」の看板娘で占められていた。会わずにいるのにどうしてこんなに考えてしまうのだろう。好きだから、と言ってしまっては身も蓋もないが、それ以外の答えが見つからない。
 おそらく彼女は俺のことなんかすっかり忘れているだろう。来店している時間しか俺のことを意識することはないだろう。そんな当たり前のことが彼には口惜しくて仕方がなかった。
 ある日、和江に頼まれて片栗粉を買いに行った帰り、19時近くだったが彼はパン屋を訪れた。閉店間際なら看板娘と話すきっかけが作れるかもしれないと思ったのだ。
 最近は道を歩いてると黒いショートヘアの後ろ姿を見かけるたびにドキッとする。看板娘はよくヘアゴムで髪を束ねているが、かわいらしい飾りがついていて、その慎ましい主張がこそばゆく感じる。
「オフィーリア」の路地を曲がると店の前のネオンの看板の電気が落ちていた。やはり閉店の準備をしているようだ。
 ドアから中を覗くと看板娘がトレイを拭いている。レジの上にある時計は18時55分を指していた。
 様子を伺いながら申し訳なさそうに店内に入る。申し訳ないなど露ほども思っていないが、こういう安っぽい芝居心だけは持ち合わせている小清水であった。
 看板娘が彼に気づく。あっ、と言いたげな表情を見て彼の方から
「あの、まだ大丈夫でしょうか」
 と聞く。
 看板娘は一瞬言葉を飲み込んだように見えたが、すぐに商売用の笑顔を取り戻して
「ええ、どうぞごゆっくり」
 と微笑んだ。
「ではお言葉に甘えてあと2時間ほど」
 と、小清水は頭の中で冴えないジョークを発したが、無論そんなことを口にする胆力は持ち合わせていない。
 好きな女を落とすには笑わせるに限る。一緒にいて楽しい相手だとだんだん思わせればよい。小清水がかつて読んだ『どんな女も絶対に落とせる101のテクニック』にそう書いてあった。
 小清水は看板娘と二人きりの時間を慈しむように味わいながら売れ残りのパンをじっくり眺めていたが、ふと看板娘を見るとちらちら壁の時計に目をやっている。
 早く帰ってほしいのだ。招かれざる客か、と彼は心の内で呟いた。
 小清水はいつものくるみパンに加え、クロワッサン生地でチョコレートを挟んだショコラとシンプルな塩パンを買った。久しぶりに意中の相手と会えて高揚していたゆえの散財だった。
 店内にはハイドンの弦楽四重奏曲第67番「ひばり」の第1楽章が流れている。この店では「蛍の光」的な扱いで閉店時に流すようにしているようだった。
 看板娘が慣れた手つきでパンをビニール袋に入れながら
「550円になります」
 と言う。
 チノパンの後ろポケットから二つ折り財布を取り出した小清水は小銭入れを見てうっすら笑みを浮かべたのち、ハッとして看板娘に目をやった。550円ちょうどあったくらいで笑う人間とは思われたくなかった。
「ちょうどありました」
 小清水がトレイに硬貨を乗せると看板娘の色白で細い指がそれをつかみ、レジスターに入れた。
「いつもありがとうございます」
 看板娘の笑顔に満足し、踵を返そうとした瞬間、小清水の頭の中にある衝撃音が鳴り響いた。
 いつも? いつも? もしかして常連と覚えてくれてたのだろうか?
 小清水は完全に舞い上がった。彼の心ははしたないほど下品な音を立てて乱舞していた。
 看板娘が後ろを振り返った瞬間、小清水は意を決して彼女に声をかけた。
「あの、」

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