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個人のための精神修養

 本書は、一人で自由に、マイペースに取り組むための精神修養の方法をいくつか簡単に記したものです。宗教や心理学の考え方から、役に立ちそうなものを選んでいます。

 それぞれの項目ごとに、大まかな説明、手順、そして注意点などをセットで記しています。

 この本を通して行う精神修養には、特別な習得順序や到達目標はありません。好きな部分から、好きなだけ、心のおもむくまま実践を進めてください。

※私の運営するwebサイト上で、電子書籍化したものも公開しています。


自然散策 - 言葉の世界から抜け出て、心をリラックスさせる。


◎ 概説

 人は「言葉」を学ぶ中で、いつの間にか言葉に飲み込まれ、その中で溺れてしまうことがあります。言葉こそ知性であり、言葉だけが、正しさを決める根拠なのだと思うようになるのです。

 けれどそれは間違いでしょう。実際には、人間は言葉の世界を通して自分たちを自然というより大きな秩序から切り離し、ほんの小さな自分たちなりの砦を築いて、自然から身を守っているに過ぎません。

 言葉の外の世界と関係を持つことは、私たちの心がこの小さな砦から出ていくための、最初の一歩です。自然の世界に触れることによって、私たちは、自分を取り囲む言葉の世界は実は小さな檻に過ぎないのだということを学びます。そしてその檻の中で、いつもごくごく部分的なことにばかり悩まされ、縛られてきたということに気付くのです。

 同時に、そうした経験は私たちにある種の畏敬の念を抱かせるはずです。人間の知性は神に与えられた特別な権威などではないし、私たちは何か、もっととてつもなく大きな力の流れの中で、存在し息をしているのだという驚きと親しみとを。

◎ 手順

  1. 気が向いた日、気が向いた時間に、動きやすい服装を選んで野原や川や森へ出かける。生き物を見つけ、多様な植物に気付き、世界の豊かさを全身で感じてみる。

◇ 補足

  • ヘビやヒル、蚊やアブなどの”先客”に注意すること。人間以外の生き物の縄張りがあることを知るのも大事な経験になる。

  • ビニール袋を持って行くと良い。なぜならあなたは、行く先々で人間の出したゴミが自然の世界を破壊していることに気付き、それを少しでもどうにかしなければ、と思うから。



丹田呼吸 - 呼吸能力を強化し、しっかりとした身体と心の重心を作る。


◎ 概説

 心を落ち着かせるためには、先ず身体を落ち着かせることです。

 意識を司る人間の神経系には、体性神経と自律神経という2つの大きなグループがあります。体性神経は身体の動きを司り、自律神経は内臓や免疫系などの裏方の機能を担っています。

 身体の動きを止めれば、体性神経は静まった状態になります。しかし自律神経は自分のリズムで動いているため、例えば心拍数に「下がれ!」と念じても、勝手に下げることはできません。

 そこで、呼吸を用います。

 呼吸は自律神経と体性神経の両方が関わる運動です。腹筋や横隔膜と言った随意筋が呼吸をサポートしているからです。また呼吸器系と他の自律神経は繋がっているので、間接的に循環器や消化器などにも働きかけることができます。

 この項目で解説する呼吸法では特に、胸ではなく腹筋、特に下腹部の筋肉を強化して、呼吸能力を増強することを目的とします。

 落ち着いた深い呼吸を筋肉によって身体に癖付けると、身体の重心がずしっと下に下がり、自律神経の動作も安定して、心身共に心地良いテンションを感じていられるでしょう。

◎ 手順

 丹田呼吸という名前で紹介されるものは、実際には世に複数あり、論理も様々です。ここでは3ステップで行う呼吸のトレーニング方法を説明します。

  1. 意識的にお腹を凹ませながら、息を全て吐ききる。

  2. お腹を凹ませたまま、胸を大きく膨らませて、肋骨から上に空気を溜めこむ。

  3. 息を止めながら、胸にため込んだ空気を、下腹部へぐっと押し込み(イメージ)、膨らませる。空気をお尻側まで押し付けるように。あわせて身体の重心全体をかかとから地面に押し付け、そのまま1、2秒筋肉を静止させる。その後1へ戻る。

◇ 補足

  • この運動はあくまで筋肉の操作に慣れるための訓練であって、普段から3ステップの呼吸をする必要はない。普段の呼吸でも無意識に下腹部の筋肉を使えるようになることを目指す。

  • 始めの内は筋肉が疲労してしばらく呼吸が乱れるので、無理にやりすぎない。

  • 姿勢は立ったままが望ましい。下腹部に手を添えて、お腹の膨らみや凹みを確認すると良い。

  • 息を吐くときは口から。吸うときは鼻から。

  • 気持ちがふわふわ、そわそわしているような時、焦っている、緊張している時などに、意識して3回ほど繰り返すのも効果がある。



チェックイン瞑想 - 短時間の瞑想で「今、ここ」に集中する。


◎ 概説

 伝統的な仏教では、人の心には「色・音・感触・匂い・味」の5つの感覚の場所がある、と考えます。

 逆の言い方をすれば、たった5つしかありません。私たちは日々の生活の中で、色々な予定や不安や期待に忙しく取り巻かれて生きているのですが、仏教による解釈では、そうしたものは全て単なる「妄想」に過ぎません。

 このような妄想から離れて、自分の心をリセットする方法を覚えましょう。5つの感覚の場に戻るのです。色・音・感触・匂い・味。たったこれだけ。

 不安や恐怖などの妄想を離れて、あるものとないもの、できることとできないこと、の区別がはっきり付けられるようになったら、物事の判断というのは、思ったほど難しくないのだと気付くはずです。

◎ 手順

 ここで紹介する瞑想は「マインドフルネス」とか「ヴィパッサナー」と呼ばれる種類のものの一種です。より興味のある方は瞑想の専門の本なども読まれると良いでしょう。

 心がざわざわしてまとまらない時、作業に集中したい時などに、数十秒から数分という短い時間で行うのが効果的です。大事な瞬間に意識のチェックインがすぐにできるように、日頃から繰り返し訓練をしておきましょう。

  1. 座ったり、立ち止まったりして、身体を休められる状態にする。

  2. 頭の中で「色・音・感触・匂い・味」と実況しながら、ひとつひとつの感覚に集中する。色を意識するときは「色、色、色…」と頭の中で繰り返す。次に「音、音、音…」「感触、感触、感触…」と実況しながら今ある感覚を確かめる。

◇ 補足

  • 感覚を意識している最中は「物」や「人」を確かめてはいけない。「テーブルがある」とか「壁が青い」とかを意識するのではなく、あくまで「色という世界」がある、ということだけに集中する。

  • 頭の中の連想ゲームに入っていかないこと。「今、ここ」に確かにある感覚だけを意識する。

  • ひとつの感覚をどれだけ時間をかけて意識していくか、という部分に決まりはない。短ければ10秒くらいでも良いし、落ち着いた時間に、もっとずっと長い時間をかけて一つひとつの感覚を丁寧に見ていくのも良い。あまり長すぎる必要はないが、30分や1時間というような深い瞑想には、より深くまで心を研ぎ澄ませてくれる効果がある。



数息観瞑想 - 心を落ち着かせるための「数を数える瞑想」。


◎ 概説

 瞑想には沢山の種類がありますが、この「数息観(すうそくかん)」は初心者の方が最初に覚える基本の瞑想として、ちょうど良いでしょう。

 別の項目で挙げているチェックイン瞑想は「ヴィパッサナー」という意識を研ぎ澄ますための瞑想ですが、数息観は「サマタ」という種類の心を落ち着かせるための瞑想です。

 この瞑想の良い所は、失敗が少なく簡単で、しかも心を落ち着かせる効果が高いということです。気軽なリラクゼーションとして生活の中に取り入れるのも良いですし、眠りにつくときのちょっとした睡眠導入剤の代わりにもなります。

 坂道を転がり落ちていく自分の心に、自分でブレーキを掛けられるというのは、現代の目まぐるしい社会を生きる私たちにとって、とても大切なことではないでしょうか。

◎ 手順

 サマタの瞑想は落ち着いた状態で行います。雑多な刺激のある場所などは避け、心を静められるような環境を用意することも大切です。

  1. 身体を安らかな状態に整えたら、声に出さず頭の中で「呼吸の数」を数える。

  2. 苦しくない程度に呼吸をゆっくりに保ちながら、「吸う、吐く」の一呼吸に対して「いー、ちー」と数える。続けて「にー、いー」「さー、んー」と数えていく。

  3. 十を超えたら「じゅー、いちー」「じゅー、にー」という要領で数え、100まで数えたらまた1に戻って数え始める。

◇ 補足

  • 瞑想をする際の姿勢は、座っていても、横になっていても良い。目を開けていれば眠気を感じにくくはなるが、眠くなったらそのまま寝てしまっても良い。最初の内は特に、姿勢など堅いことは気にしない方が瞑想の良い効果に気付くことができる。

  • 眠気に関しては特に、我慢するとストレスホルモンが生じて体調を悪くするので、眠気と闘いながらするような瞑想はここではすすめない。

  • 数をたくさん数えることが目的ではなく、呼吸に集中することで、意識を他に奪われないようにすることが重要。精神が落ち着いてくると、呼吸は普通よりもずっとゆっくりになるので、そのまま自然にゆっくりと数えていけば良い。



フォーカシング - 抑圧された本心に出会う、向き合う。


◎ 概説

 周囲の人々や世間の価値観の言いなりになるのではなく、自ら主体性を発揮して、自分の意志で何かを成し遂げていくこと。そのためには「動機」が必要です。動機が無いとしたら、行動もありません。しかしそうは言っても、この「動機」というものは何なのでしょうか。一体どこにいけばそれは見つかるのでしょうか。

 実は、全ての「動機」は身体の感覚から作られています。机の上にお菓子が置いてあるのを見て唾液が出たりすると「食べたい」という動機ですし、そのお菓子についての嫌な記憶を思い出して、胸が痛くなり呼吸が早くなって、「ちょっと休憩したい」などと思うのも動機です。

 小さなものから大きなものまで、心理的な動機というものは全て、肉体の知覚が基礎になって出来上がっているのです。「動機=肉体の知覚パターン」と言うことができます。

 前置きはここまでにするとして、心理療法の世界には「フォーカシング」と呼ばれる技法があります。これはある専門家たちが、「成功するカウンセリングの共通点は何か?」を分析して見つけ出した方法です。その共通点とは、カウンセリング中にクライアントが自分の中の「曖昧な感覚」について述べており、それをカウンセラーに対して、何とか上手く説明しようと試みていることでした。

 フォーカシングは、こうした「曖昧な感覚」の形で無意識の中に押し込められている自分自身の「欲求」を探りだし、それに向き合い、受け入れていく事を可能にします。その体験はきっと、私たちが人生を主体的に生きていく上での、重要な推進力となるでしょう。

◎ 手順

 フォーカシングの技法を詳しく学びたい方は、専門のwebサイトや書籍なども読むと良いでしょう。ここでは一人で行うためのシンプルな方法を説明します。

 フォーカシングの特徴は、自分の中の無意識の「心の一部」を見知らぬ「他人」のように捉えて、それと直面し、対話をしようとすることです。

 特に、無意識下にある根深い怒りや不満、後悔などの心理内容は、身体の中で継続的に不快な身体感覚を発生させ自己主張を続けていることがあり、結果として、その人の生活の質を悪くしているということもあります。

 フォーカシングはより一般的には二人一組で行いクライアントがガイドの質問に答えていく形を取りますが、ここでは自分一人でセッションを行う都合上、自分の中で質問する側と、質問に答える側の一人二役を使い分けることになります。

  1. リラックスした姿勢を取る。背もたれのある椅子に座るか、寝ころんでも良い。

  2. 目を閉じて、身体の感覚に意識を向ける。胸、喉、お腹、眉間などが把握しやすい。

  3. 身体の中で、特に強く主張を発している感覚を探す。痛み、窮屈さなど、不快感を伴う部位があれば、そこに集中してみる。

  4. 強く主張している感覚に対して、具体的な「名前」を付ける。イメージにぴったりの言葉が思い浮かぶまで候補を上げる。 例)鉄のような冷たい強張り、焼けつくようなジリジリした痛み、など

  5. しっくりくる「名前」が思い浮かんだら、その感覚に呼びかける。他人を相手にするときのように、「こんにちは」と挨拶し、「名前」を繰り返して、その感覚が確かに存在していることを確認する。

  6. その感覚に集中しながら、しばらく寄り添うイメージを持つ。頭の中で相手の姿を思い浮かべても良い。お互いの距離が近付き、親密になれたと感じたら「何か要求したいことはあるだろうか?」と尋ねてみる。相手が何かを訴え始めるのであれば、それを遮らず、しっかりと最後まで聞いてやる。

  7. 相手が答えられるようなら、いくつか質問をしてみても良い。

  8. 相手の訴えを十分に聞き終わったら、「教えてくれてありがとう」と声を掛けて、セッションを終える。

◇ 補足

  • 身体の感覚から離れないよう注意すること。時々「名前」を繰り返して、身体感覚を確認しなおすと良い。

  • 対話中に別の身体感覚がより強く主張しているのを感じたら、そちらへ意識を移しても良い。

  • 身体感覚から何の手応えも得られないこともある。その場合は無理に深追いせず、また別の機会にセッションを行う。



歌う - 自分を取り巻く世界に、重なり合う、調和する。


◎ 概説

 歌を歌うことは、シンプルで安全な修養方法です。歌は精神を豊かに、柔軟にし、乱れたバランスを調整します。

 より論理的に言うと、歌うというシンプルな行為の中には、呼吸器系の強化、抑圧した意識との対面、自己肯定感の回復、言語的世界と感覚的世界の連携強化といった、複数の良い要素が含まれています。

 あるアーティストは、折に触れこんなことを言いました。「何もかもに絶望していた思春期の頃、音楽だけが逃げ場だった。音楽は誰も裁かなかったから。」

 裁かない。誰も、何も、裁かないこと。感情を受け入れ、それに居場所と形を与えてやること。これらも歌を通して学べることのひとつではないでしょうか。

 人生もまた、歌のようなものだと思います。歌っている間はひとつひとつの音に集中しており、ただ「今」だけがあります。が振り返れば、いつのまにか音楽、いつのまにか「人生」です。自分の声を使って上手に歌える人は、もしかしたら、上手に生きていくヒントをも掴めているかも知れません。

 歌に出会い感動したら、その歌を覚えて、自分の声を吹き込んでみましょう。きっと新しい道に、知らなかった世界の存在に、心全体を通して触れていくことができるでしょう。

◎ 手順

 歌うこと自体には、何の説明も要らないと思います。いつでも、何の道具も無しにできることです。そこで本項目では、少し俗っぽくなりますが、音響設備の整ったカラオケボックスでの一人カラオケ、いわゆる「ヒトカラ」で、気兼ねなく歌に没頭するための方法と注意点を挙げておきます。

◇ ヒトカラ未経験の場合

  • 一番最初の入店時には、気恥ずかしさを感じるかもしれません。ですが昨今では、ヒトカラ文化は専門店ができるほどメジャーになっています。お酒を頼むのが当たり前の歓楽街のお店などでは少し場違いになると思いますが、郊外の店舗であれば、心配は無用です。

  • 注意するのは、夜間や週末夕方以降などの、混雑時間帯の利用についてです。カラオケ店は時間帯による混雑具合にかなり温度差があり、それに伴って料金も大幅に変動します。 週末/祝日よりも、平日。夜(だいたい18~20時以降)よりも、昼。空いている時間帯の方が料金も安く、ヒトカラには向いています。

  • とは言えもともとカラオケボックスの営業構造は、団体客を想定して構築されたもの。ヒトカラ利用者があまりにも多くの部屋を占有すると、お店が破産して潰れてしまいます。繁忙期や混雑時などには、やんわりと利用を断られたりすることは良くあります。その辺りはお店側の事情を酌んであげ、末永いお付き合いをさせてもらいましょう。

◇ カラオケでの歌い方について

  • 乾燥していると喉を傷めるので、飲み物はあった方が良いでしょう。喉を保護する意味では揚げ物などをつまんでも良いですが、塩気の多いものは多少喉を傷めやすいです。

  • 採点機能は機械的に音程を見るので大してあてにならず、自由な表現を阻害するので、OFFにしておいて良いでしょう。

  • 出来るだけ画面の正面側に座ります。首が横に向いていたり、モニターが見上げる位置にあるような場合は、立って姿勢を落ち着けて歌うなど工夫します。身体を上手く使うように。首や胴のストレッチも有効です。

  • マイク音量は、ミュージック音量より少しだけ大きくすると無理なく気持ちよく歌えます。

  • 音量を上げすぎないこと。自分の声を響かせたくなるものですが、思っているよりも迷惑になります。ミュージックが流れ出したら、周囲の部屋の音が聞こえなくなるくらいで十分です。

  • 長時間歌ったあとなどは、首や胸の筋肉が緊張していて、ふらついたりすることがあります。退室の前には軽くストレッチを。首を柔らかくして、深呼吸し、身体をほぐしておきましょう。



深層意識受容法 - 無意識の中の警戒心をほどく。


◎ 概説

 ここで紹介するテクニックは一般に「セルフ・アイデンティティ・スルー・ホ・オポノポオノ/ Self I-dentity through Hoʻoponopono / SITH」という変わった名前で呼ばれているものとほぼ同じものです。

 SITHはハワイの伝統的な問題解決の風習から発展したもので、心の深い所に刻まれた恐怖などの「潜在的な記憶」、つまり偏見によって、私たちの現実認識は妨げられている、という風に解釈します。その潜在的な記憶に向き合い、解消することで現実認識を正常化していくことが技術の中心です。

 このテクニックはすでに日本国内で十分に認知され活用されてはいるのですが、翻訳の都合や、私たち日本人にあまりなじみのない文化的背景などのせいで、やや誤解されやすい、使いづらいものになってしまっています。

 ここではSITHの「キーワード」をより一般の日本人が使いやすい形に修正したものを「深層意識受容法」として紹介します。

◎ 手順

  1. 自分の障害になっているような苦手な人や、物などを思い浮かべる。

  2. その人や物を思い浮かべながら、過去の傷付いた自分の心を意識し、以下の「キーワード」を唱える。

 「ありがとう。ごめんね。もう大丈夫。」

  1. 思い浮かべた人や物に対して悪い感情が浮かばなくなるまで、何度も繰り返していく。

◇ 補足

  • キーワードは、傷付いて警戒状態のまま放置されている自分自身の心(ウニヒピリ)に対して唱える。「(守ってくれて)ありがとう。(置き去りにして)ごめんね。(後は自分で向き合えるから)もう大丈夫」という意味。苦手な人や物に対して「ありがとう」と念じるわけではない。

  • この小さなアファメーションは、生活の中で何度も繰り返していくことで、少しずつ自分の置かれている状況を改善してくれる。最初はピンと来なくても、おまじない程度に気長にやってみると良い。



逆説思考 - 強迫観念を克服する。


◎ 概説

 逆説思考は、意味療法(ロゴセラピー)で用いられる技法です。意味療法では、その人が物事にどんな意味付けをしているかによって、心の健康は大きく影響を受けるものだと考えます。

 逆説思考は特に「強迫観念」を克服するために用いられます。「絶対に~したくない」「絶対に~しなければいけない」というような気持ちで、自分でも頭ではおかしいとわかっているのに、やめられないような状況のことです。

 強迫観念は、「強迫観念をやめなければ」という焦りによって更に強化されていきます。一度絡まってしまった糸の結び目がどんどん絡まっていってしまうのと同じ理屈です。

 ですからそれ以上、絡まった部分を引っ張るのではなく、緩める力を加えてあげなければなりません。

 嫌なこと、苦手なこと、克服しなければいけないこと、というのは大なり小なり私たちの誰もが持っているものだと思います。早めに解いてしまいましょう。

 あんまり結び目が大きくなってしまうと、終いには、解きほぐす作業が何年やっても飽きのこない、無料のパズルゲームのようになってしまいます。それはそれで、ちょっとお得な感じもしますけれど。

◎ 手順

  1. 自分の中の強迫的な執着や恐れ、苦手な状況などを思い浮かべる。

  2. それに対して「~しなければいけない」ではなく「もっと~してしまえ」という逆の考えを付け加える。なるべくユーモアを交えると良い。

  3. そのイメージが馬鹿馬鹿しく感じられるくらいになるにつれて、脅迫的な感情も薄れてくる。

◇ 補足

  • 参考までに一例を挙げておく。ある人が赤面症(緊張などで顔が赤くなった際に、それがコントロールできないことで余計に緊張し苦しむという症状)を持っていて、人前に出るのが苦しいということでカウンセラーに相談をした。カウンセラーに逆説志向について教わると、程なくして彼は赤面症を克服した。「どんなイメージを作ったのか?」とカウンセラーが質問すると、「自分でも笑っちゃうんですけど」と彼は答えた。「顔があんまり熱くなって、そこから火が出るんです。それで、僕のことを見ている人たちがみんな、僕の顔から出てるビームみたいな火で逃げ惑うんですよ。ごめんなさいって頭を下げるんですけど、それで余計に火が広がっちゃうんです。もうどうしようもないでしょう?」

  • ユーモアはそれ自体、ロゴセラピーではとても重視される。「自己距離化」と言って、自分が置かれている状況を客観視できるようになる効果がある。



両面分析 - 偏見と固執を取り除き、ありのままの世界を見る。


◎ 概説

 あるものの「価値」を決める際には、必ず「主体」が必要です。

 例えばゴルフは良いものか悪いものか、考えてみましょう。

 ある人にとっては、それは紳士的な趣味であり、伝統的な教養として歓迎されます。しかし別のある人にとっては、それは自然破壊の原因であり、貴族趣味の嫌味な娯楽と感じられます。

 またゴルフ用品のメーカーにとっては、ゴルフ文化は生活のために無くてはならないもの。土地を欲しがる宅地開発の業者にとっては、目の上のたんこぶかもしれません。

 このように物の価値や意義は、すべて「誰にとって?」という視点、主体に左右されています。

 重要なのは、私たちが考える「正しさ」というものが常にこうした暗黙の視点(多くの場合は"私にとって"という暗黙の視点)に左右され、公平性を持ち合わせていない、ということです。

 もしこうした偏見、論理の偏りを手放す方法があるとしたら、私たちはとても公平な、とても現実的な見方を通して、ありのままの世界に向き合っていく事ができるでしょう。

◎ 手順

 両面分析という手法では、「良い側面/悪い側面」という観点それぞれに着目します。特に顕著な偏見が生じるのは悪い側面についてなので、通常はそちらから取り組みます。

◇ 悪い側面について

  1. 頭の中に何か「絶対に許せないようなこと」を思い浮かべる。

  2. それに関する「良い側面」を思いつく限り思い浮かべる。

  3. 明るい気持ちで「まあそれが有っても良いや」と思えるほど他愛なく感じられるまでになったら、対象を手放す。

◇ 良い側面について

  1. 頭の中に何か「絶対に正しい/必要と思うようなこと」を思い浮かべる。

  2. それに関する「悪い側面」を思いつく限り思い浮かべる。

  3. 明るい気持ちで「まあそれが無くても良いや」と思えるほど他愛なく感じられるまでになったら、対象を手放す。

◇ 補足

  • このトレーニングは、継続と蓄積によって段々と私たちの認知を柔らかくしなやかなものに変えていく。日常の中で習慣的に試すと良い。

  • あまり大きな悪い対象にいきなり向き合うと、強いストレスになることがある。その場合は、より身近な小さな対象から慣れていくと良い。



小さな死の練習 - 死と共に生きることを学ぶ。


◎ 概説

 ものの「死」には「枯れる」と「腐る」があり、その違いはエネルギーを使い切って美しく死んでいくか、無暗にエネルギーを貯め込んで、最後の瞬間にそれをむごたらしくまき散らして死んでいくかという違いです。

 現代社会は、私たち人間に「人生は永遠である」という幻想を抱かせます。しかし実際には、人は生まれた瞬間から常に、「死までの最期の時間」を過ごしています。

人生が有限であることを忘れると、人はずっとお金を貯める行動だけをしてしまったり、頑丈で安全な家を築くことばかりに一生懸命になって、結局、本当にやりたかったことは何ひとつせずに最後の時を迎えてしまいます。

 そうならないようにするためには、私たちは日々の生活の中で少しずつ「小さな死の練習」をしておく必要があるでしょう。

 だからと言って何も、毎回自分の死の瞬間を具体的にイメージする必要はありません。「死」には階層があり、肉体的な死や、社会的な死、そして日々欠かさぬはずの習慣をやめることなども、小さな形での「死」なのだと言えます。

 この練習において大事なのは、そうした小さな生活の中の死を繰り返して、「自分が」死ぬのではなく、「自分に対して」死ぬ習慣を身に付けるということなのです。死が本当に奪っていくものは私たちの「形」であり、私たちが「形」に執着しないのならば、「形」を超えて、「死」を超えて私たちは生き続けていきます。

 「死」を超えて生きること。それこそ、自然の中で植物が「枯れ」果て、次の世代に自らのエネルギーの全てを託して消えていくことの、本当の意味ではないでしょうか。

◎ 手順

 「小さな死」は色々な形で実現することができます。ここでは習慣化しやすいものを中心に、いくつか例を挙げておきます。

  • 毎晩、眠る前に「もう目が覚めないとしたら、これで良かったのだろうか。もっとやれること、やりたかったことはなかっただろうか。」と考える。

  • 自分が死んだ際に必要な手続きや連絡先を、名刺サイズの紙に書きこんで財布などに入れ携帯しておく。変更があれば随時更新する。

  • 買い物や日常生活の中で、自分にとって習慣化している選択や価値観を敢えて変化させてみる。無理に全てを変える必要はなく、修行のつもりで時々意識してみると良い。

◇ 補足

  • 言うまでもなく、「死」は私たちにとって途方もなく恐ろしいもの。それを無理に受け入れようとしてはいけない。人の死生観は「有る/無い」ではなく、死を学べば学ぶほど「深まっていく」もの。少しずつ積み重ねていけば良い。



真我探究 - ”私”なるものとの関係を確立する。


◎ 概説

 「真我」という言葉は、ヨーガにおける概念です。伝統的なヨーガでは、小さな「私」である個我を脱して、永遠不変の本当の自己である真我に到達することを目的とします。

 宗教ごとに教義は違えども、世の中では、これと同じこと(より大きな自己の本質に気付く、或いは今、私たちが自分だと思っているものは本当の自分ではないと気付くこと)の大切さが多様な理論によって説明されています。

 近代、ヨーガの伝統の中から「ラマナ・マハルシ」という一人の卓越した賢者が生まれました。沈黙の聖者と呼ばれた彼の最も大きな恩寵は文字通り「精神の沈黙」にあったそうですが、理論面ではこの真我探究という方法を重用したそうです。

 それでは私たちも、この聖者の恩寵に預かり、知っているようで知らない”私”の本質を探る旅に出かけてみましょう。

◎ 手順

  1. 「”私”とは何か?」という問題に、ひたすら思考を集中する。これだけ。

◇ 補足

  • 思考が他の場所へさまよい出そうなときは、「それをしているのは誰か?」という質問によって再び”私”へと思考を集中させる。

  • 手がかりが全く消失しそうになったときは、「"私"は在る」という感覚を探し、そこからやり直す。

  • 頭の中で答えがすぐに出て思考が終わってしまうような場合は、問題を多少膨らませて、「"私"の境界線はどこからどこまでか?」「"私"の絶対条件は何か?」について考えてみる。

  • 真我探究の成果は、突然現れて実感されることが多い。それがどんな実感なのかを言葉で伝えることは難しい。この修養方法は、自らの心が納得いくまで続けることになる。



3つの命題による“存在“の解釈 - 意識と世界と言葉についての、理論的な読みもの。


 今この瞬間、この文字を読むあなた。そしてこの宇宙が「存在する」ということ。当たり前のように思えるこうした感覚も、少し掘り下げるとそこは未知と不可思議の世界です。

 全ては単なる物質でしょうか。だとしたらなぜ、この時代、なぜ、その「あなた」なのか? 魂はあるでしょうか? 精神は肉体と不可分でしょうか。宇宙の起源は? そしてそれが起きた理由は?

 この小論では、3つの命題を通して「存在」なるものの本質を追求していきます。

◇ 命題

 1.意識は素粒子に遍在する。

 2.愛とは存在を肯定する力である。

 3.「私」とは実在しない概念である。

 以下ではこの3つの命題をひとつひとつ取り上げ、解説していきます。

 一見無関係なこれらのテーマが、最後には私達の中でひとつの重なり合った真実を組み上げることを、ここでの目標とします。

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1.意識は素粒子に遍在する。

 物質の最小単位は、現代の自然科学では素粒子という名前で呼ばれます。その最小単位の一粒一粒に、意識が宿っていると言ったら? それはくだらない妄言でしょうか。しかし結論を焦らずに聞いてください。

 素粒子の一つ一つに、意識が宿っています。 つまりそれは、水にも、石にも、空気にも、この世のありとあらゆるものに意識が宿っていることを意味します。

 ですがそれは、私たちの普通の現実認識としては受け入れがたいことです。水が意志を持っているでしょうか、空気が私たちのように、何かを意図するでしょうか。当然そんなことはありません。それは実にはっきりしていると思います。

 しかしだからといって、そのことは意識の素粒子への遍在、という仮定と矛盾はしません。

 論理と実感とのズレはこんな部分にあるのではないでしょうか。それは、私たちは「意識」という言葉を聞くといつも、 ”私”という「自意識」を想像してしまうということです。今お話するのは、「意識」が宿っているということであって「自意識」が宿っているということではありません。

 海を漂うクラゲを例にとってみましょう。彼らは脳みその無い単純な生き物です。当然、”私”という概念を知ってはいないでしょう。

 しかしそれでも、彼らの触手は餌の感触を”察知”し、それを捕らえて食べるのです。これは何か、心らしきもの、感性、感覚、知覚のようなものを、彼らが持ち合わせていることの証拠ではないでしょうか。

 この、”私”はないけれど、知覚している何か。これが意識です。実感と言っても良いと思います。”私”がなくとも、クラゲは何かを実感してはいるのです。彼らには意識があります。

 そしてこのことは、石にも、水にも、空気にも当てはまると思います。ここでは割愛しますが、クラゲという対象物を少しずつ原始的な生物へと、細菌のようなものにまで変えて考えていけば、それはわかるでしょう。

 単純なものであれ複雑なものであれ、全ての物質には意識、感ずる心、実感が宿っているのです。

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2.愛とは存在を肯定する力である。

 「愛」の定義は世の中に様々有り、時にはその定義の違いが争いを生むことさえあります。そこで我々は、それをはっきりと共通の認識にするために、「愛」というものの本質を確かめておきましょう。

 早速ですが、愛の本質とは、存在を肯定するということではないかと思います。「存在させたい、存在してほしい、確かに存在している、存在してくれて嬉しい」と思うことです。

 親が子供に向ける純粋な愛情というのは、こういうものではないでしょうか。愛は理由を伴いません。それ自体が理由だからです。親が子を愛するとき、例えその子がどんな犯罪者であっても、どんな病気を持っていても、ただただ存在していてほしいと願うのです。

 今私たちは、こうしたヒューマニズムの観点から愛というものを眺めています。次はそこから少し、飛躍した場所に立ってみましょう。

 宇宙の始まり。存在するということ。なぜ、この世界の「存在」は始まり、今なお続いているのでしょう。

 その最初のエネルギー、存在の原初の理由。これもまた「愛」だと言えるかもしれません。

 神であれ何であれ、何かが、この世界の存在を肯定している、今なおし続けているのです。この瞬間も、次の瞬間も・・・常に。

 いやむしろ、人間の些細なヒューマニズムなどよりも遥かに本質的にまた巨大に力強く、これこそが「愛」の本質ではないでしょうか。

 それは、世界を存在させているエネルギーなのです。世界を構成するあらゆる物質、物質を構成する素粒子のひとつひとつの存在を、現に、このように、支えているエネルギー、我々のルーツであり、今なお我々を通して働いている力なのです。

 愛はこのような大河であり、万物の存在を支えています。それは良いことも悪いことも、この世界の全ての現実が「存在する」ことを肯定しています。

 愛は、その正反対の要素、「ありえない、許せない、あってはならない」という存在の否定である、「憎しみ」が世界に存在することさえ肯定します。

 愛の大河の中にあって、我々は川面に浮かぶ一枚の葉っぱのようなもの。私たちが、愛に調和するとき、この世界が祝福されて今この姿で存在しているのだと理解し、それをしっかりと受け止めるとき、私たちはその愛の流れに安んじて、すらすらと川面を流れていきます。

 「もっとこうであるはずだ、もっとこうならなきゃいけない」、そのような憎しみを持てば、私たちは一時だけ、流れに逆らって川面のある部分に留まることができるかもしれません。

 しかし、それが何になるのでしょうか? そのような必死の徒労が。最後には結局、力尽き、また流されて、愛の大河の川面を安らかに流れていくというのに。

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3.「私」とは実在しない概念である。

 「私」は概念であり、実在ではありません。途方もない話と感じるかもしれませんが、これは真実です。少し、思考実験をしてみましょう。

 仮に私たちが、「地球の本体」を探している科学者だったとします。しかし、何もないところからいきなり本体を特定するのは大変ですね。そこでこの科学者は次のような方法で調査を続けることにしました。

 ある特殊な機械を用いて、先ず地球の3分の1を切り離し、別の場所、宇宙空間のゴミ捨て場に置いてしまいます。すると残った3分の2の中に、地球の本体がありそうです。ここからさらに3分の1を削り取ってみれば・・・どんどん地球の本体に近づいていけるではありませんか?

 彼はそうやってだんだんと地球を小さくしていきます。そしてついに最後には、たった素粒子2個ほどまでに地球を削減することに成功します。

 さて、この二つの素粒子のどちらが地球の本体でしょうか。これはなかなか、この方法では解かりません。彼は考えるのを諦め、「ここまで特定すれば十分」と納得します。

 そしてその大発見を、削り出した地球の欠片と一緒に「ゴミ捨て場」に移動させておいた他の人々に伝えようと考え、ゴミ捨て場の方へ振り返って、愕然とします。

 なんとゴミ捨て場に、自分がすっかり削り落としたはずの地球が復元されているではありませんか。 彼が突き止めた「地球の本体」、手の中に握った二つの素粒子は、今やただの塵。地球の本体は、いつのまにかゴミ捨て場の方に移動していたのです・・・一体いつの間に?

 さて、これは多少、論理的に飛躍した話かもしれませんが、訴えたいことは伝わったでしょうか。

 「地球」というのは、言葉で縛られた領域であって、何か特定の中心に由来するものではないのです。「地球」は概念であり、実在ではありません。地球の本質は、物質ではなく、むしろ「地球」という”言葉そのもの”なのだと言えます。「地球」は言葉です。概念です。実在ではないのです。

 全く同じことが、「私」についても言えはしないでしょうか?

 「私」とは、言葉で区切られた領域。「私」とは、言葉。「私」とは、概念。そしてそれは、物質として、確かな領域を持って実在する何かではありません。

 ですが・・・だとしたら、何が存在しているのでしょうか?

 「私」という言葉で区切られたもの、区切られてしまったものの本来の形とは?

 この世界の「存在」の、本当の正体とは?

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