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八橋先生の表札 その3(最終回)
「もし愛する人が、鶴だったら」番外編
(cf. もしツル Scene 10)
『先生、八橋先生、どうしたんですか?』
遠くで誰かがわしの名前を呼んでいた。目の前にぼんやりした人の顔が見えた。だんだん目の焦点が合ってくると、鮎子君の心配そうな顔が目に映った。
『目が覚めましたか。何だかすごく、うなされてましたよ』
彼女はそう言いながら、机の上にきんつばとお茶を置いてくれた。わしはしばらく言葉
八橋先生の表札 その2
「もし愛する人が、鶴だったら」番外篇
(cf. もしツル Scene 10)
30年前の7月20日。僕は小学2年生で、翌日からは楽しい夏休みだった。泳ぎにいったり夜店にいったり、思う存分遊び回っても許される日々が明日から始まる。そんなワクワクするような夜になっていた、はずだった。なのに僕は、夏風邪で40℃近い熱を出していた。医者はこじらせると厄介だからと、『おとなしく寝てなさい』と言って太い
八橋先生の表札 その1
「もし愛する人が、鶴だったら」番外篇
(cf. もしツル Scene 10「八橋先生登場」)
研究室の窓の外に広がる伊勢の山々を見つめながら、わしはつい先ほど見た夢のことを考えた。
メタンガスの泡が立ち上り、腐った生ゴミが異臭を漂わせながらゆっくり流れる小さな川に架かっている木の橋を渡って、そのアパートにたどり着いた時にはもう夕方になっていた。アパートの向かい側に広がる原っぱから蝉の鳴き
もしツル Scene 22 最終回
この夢のなかには、僕がまったく気がついていなかった新しい発見が沢山あった。そのなかでも、日本の昔話には“心の法廷”がないということは、見過ごすことができない問題であるように思った。日本の神話や昔話で「約束を破った側が決して罰せられない」のは、“心の法廷”が文化のなかに準備されていないからではないだろうか。それは、言葉を変えて言うと、夢に出てきた「カラスの兄貴」がいないことだ。カラスの兄貴は、
もしツル Scene 21
『慎ちゃん、どうしたの?』
と呼びかける声が聞こえ、僕は気がついた。まず目に入ってきたのは、起動したままのPCだった。その画面の中に長い文章がぼんやり見えた。顔を上げると、女性が立っていた。だんだん目の焦点が合ってきて、それがやよいであることがわかった。周りを見回すと、そこは僕の書斎だった。
『なんだか、うなされていたわよ。鶴女房の原稿はできたの?』と、やよいが聞いてきた。僕はまだ状況が
もしツル Scene 20
カラスの話は、心の奥に深く突き刺さった。
長いあいだ、この国では鶴女房の物語を、「正体を知られた鶴が去って行く、あわれで美しい昔話」として読んできた。その理解が間違っていたとは思わないけれど、見方を変えれば、僕たちがまったく気づいていなかった別の問題がこの昔話の中に隠されていることを、カラスに教えられた気がした。言い返す言葉がなかった。
(ここまで前回)
さて鶴の姐さん、裁判長の爺さ
もしツル Scene 19
僕とやよいは、階段を駆け上がり屋上に出ようとした。やよいは飛ぼうと思えば飛べるはずだが、狭い階段を一段ずつ上っている。人間と鶴が同じ速さで歩くことがこんなに難しいとは思わなかった。
階下からカラスたちが追いかけてきている様子はなかった。やよいと歩調を合わせてやっとのことで最上階の12階までたどり着き、屋上に出るドアを開けると、そこに二羽のカラスがいた。僕たちは立ち止まり、エレベーターの前
もしツル Scene 18
八橋先生は頷きながら、それを一言一句聞き漏らさずメモを取っていた。鮎子は弁護というかたちで、この昔話に関する僕の疑問を解消してくれた。
しかし、小さいカラスはよく理解できなかったと見えて、頭を左右に傾げながら、《それは……、つまり……》と言って、黙り込んでしまった。見かねた大きいカラスが《なるほど、よく分かった。しかしなあ、その説明では、俺たちの縄張りを荒らした鶴の姐さんの罪が晴らされた
もしツル Scene 17
鮎子は『弁護人は無罪を主張します』と言い、弁護の意見陳述を始めた。
被告人の祖父、つまり私の祖父が、ラビット・イナバ氏の皮を剥いだ理由は、八橋学説によれば、そもそもイナバ氏に騙されたサメに頼まれたからであり、食べるためではありません。検察官のカラスはこの八橋学説の思いつき……失礼、新説をまったく理解していません。
ところで、祖父がわなを仕掛けて鶴を食べたことは間違いありません。これは確
もしツル Scene 16
長方形のダイニングテーブルの四方に、八橋先生、鮎子、二羽のカラス、やよいがいた。テーブルの奥に八橋先生が座り、その八橋先生の右側のテーブルサイドに鮎子が座っていた。そして、テーブルを挟んで鮎子の向かい側には二羽のカラスが椅子の上に止まり、八橋先生と向き合うように、テーブルの手前にやよいが立っていた。
「何だこれは?」と思って立ちつくしていると、八橋先生が僕を見て 『安和慎之介、こ
もしツル Scene 15
夕食を食べている間、やよいはいつものようにダイニングを挟んで僕の正面に立っている。二人で食卓を囲んでいた時は、その日一日の出来事を話し合ったり、テレビやYouTubeを見たりして楽しんでいた。
けれど今日は、やよいと向き合うことが辛かった。僕の祖父が鶴を食べていたという事実を思い出した今となっては、やよいに対する後ろめたさと罪悪感で気持ちが乱れていた。この思いを紛らわせるために、僕はウイ
もしツル Scene 14
マンションに戻ってみると、慎之介はダイニングテーブルについて座っている。ぼんやりと、何を考えているのだろう? 先週、伊勢から帰ってきてからというもの、どこか、深く考えているみたい。慎之介はなにかに気がついたに違いない。でも、それがどんな意味を持っているのか、分からなくて戸惑っているのかな?
かくいう私だって、鶴の世界で語られてきた話と、人間の世界で語られてきた話の違いを知って、戸惑ったもの
もしツル Scene 13
やよいと出会ったのは三年前。
昔話のように傷ついた鶴を助けたこともなければ、やよいが機織りをしてくれているわけでもない。もちろん、僕は狩人じゃない。僕たちはごく平凡に出会い、そして結婚した。彼女から、一人でいるところを「見ないで」と言われたこともないし、大切な約束を破ったり、罪と呼べるような過ちを犯したこともない。僕たちの生活と「鶴女房」の物語との接点は、どこを探しても見当たらなかった。
もしツル Scene 12
伊勢から帰ってきて一週間が経った。
土曜日の午後、やよいは相変わらずどこかに出かけている。たぶん餌を探しに行っているのだろうと思った。僕はやよいがマンションで何かを食べているところを一度も見かけたことがなかった。
ダイニングテーブルの上には昔話の解説書が散乱している。僕は、それらを読むのを止めて外の景色を眺めていたが、思い立って鮎子に電話をかけてみた。
『先週はごめんなさいね。まだ怒っ