もしツル Scene 22 最終回



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 この夢のなかには、僕がまったく気がついていなかった新しい発見が沢山あった。そのなかでも、日本の昔話には“心の法廷”がないということは、見過ごすことができない問題であるように思った。日本の神話や昔話で「約束を破った側が決して罰せられない」のは、“心の法廷”が文化のなかに準備されていないからではないだろうか。それは、言葉を変えて言うと、夢に出てきた「カラスの兄貴」がいないことだ。カラスの兄貴は、夢のなかで僕にこう言った。――《もし、愛する人が鶴だったら、お前はどうする?》

(ここまで前回)

 

 これは、僕たちに突きつけられた重たい問題だ。もし、愛する人が鶴だったら、僕たちは、自分自身が「意識的にも無意識的にも何か罪を犯しているのではないか」と疑ってみる必要があるのだろう。取り返しのつかない深い傷を鶴に負わせたのではないだろうか? あるいは、自分の罪を鶴に肩代わりしてもらっているのではないだろうか? と反省してみることが大切であるに違いない。
 「鶴とは、じつは僕たちの“罪”を象徴する存在だ」として捉える視点が必要だ。そして自分にこう問いかけてみよう。

 僕たちは、もしかしたら「妻が鶴であった」ことを、無かったこと、見なかったことにしてきたのではないだろうか? 言い換えれば、「鶴を通して見なければならない自分の罪」を水に流してきたのではないだろうか? それだけではない。この国の「長い歴史のなかで生じてきた罪」を、僕たちは今も水に流し続けているのではないか。

 この問いを自覚し、そこから反省が生まれてきた時、鶴が「恥ずかしく思って立ち去る」という物語の結末が少しは変わるかもしれない。
 ただ、千年以上この国の文化に根を張った物語が、そう簡単に変わるはずがない。そこに行き着くまでには、長い時間がかかるだろう。僕たちは、この問題を考え続ける辛さに耐えて、根気よく新しい物語を創造して伝えていく必要があるに違いない。「恐ろしい想像」に打ち克つ「幸せな想像」の物語が生まれてくるまで(cf. Scene 10)、僕たちは我慢しなければならない。

 ところで、夢に出てきた鶴のやよいは、あの後、いったいどうなったのだろうか? 僕は鶴のやよいのことを忘れないようにしなければならないと思った。「去っていかない鶴のやよい」が僕の心のなかで育っていくことによって、現実のなかでの僕の生き方が少し変わっていくに違いない。それは、言葉にすれば、倫理観や罪悪感ということにあるのかもしれない。あるいはそれは、「幸せな想像」にたどり着くための地図だと言えるかもしれない。

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 そこまでの考えをPCに入力した時、
『晩御飯の準備ができたわよ』
という声が聞こえた。PCをシャットダウンして、ダイニングルームに行くと、テーブルには出来たばかりの夕食が並んでいて、やよいが席について待っていた。僕は、目の前の料理を一つ一つ見た。
 炊き立てのご飯、油揚げとネギの味噌汁、ほうれん草のお浸し、冷や奴、鰹のたたき、大根おろしとシラス干し……。
 僕は居住まいを正して箸を取り、『いただきます』と言って料理に頭を下げた。その時、『あら?』という声が聞こえ、やよいがニコニコしながらシラス干しを指さした。

よく見ると、真っ白なシラス干しのなかに、一匹の小さなタツノオトシゴが混じっていた。(cf. Secene 10)

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参考文献
北山修『悲劇の発生論』〔金剛出版, 1982年/増補新装版, 2013年〕
北山修・橋本雅之『日本人の〈原罪〉』〔講談社現代新書, 2009年〕
帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ――答えの出ない事態に耐える力』〔朝日選書, 2017年〕


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