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三島由紀夫論2.0

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2023年6月の記事一覧

「ふーん」の近代文学⑬ 小説の神様と云えば

「ふーん」の近代文学⑬ 小説の神様と云えば

 小説の神様と云えば志賀直哉で、芥川も「私の好きな作家」として「志賀氏」の名前を挙げている。実際芥川も志賀直哉のような小説を書きたいと考えながら書けなかった。この問題は芥川が夏目漱石のような小説をついに書かなかったことと併せて実に興味深い。

 ところで「小説の神様」にはもう一人いた。

 この「小説の神様」は抽象的な概念でいわば「ミューズ」のようなもの。抽象的な存在である。

 しかし、この「小

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「ふーん」の近代文学⑫ 色んな終わりがあるけれど

「ふーん」の近代文学⑫ 色んな終わりがあるけれど

 三島由紀夫が最後の最後、自身の文学に「ふーん」したように見えるのは、『豊饒の海』が五部作の予定だったものが四部作になってしまったから転生と同時存在と二重人格とドッペルゲンゲルの物語――人類の普遍的相、人間性の相対主義、人間性の仮装舞踏会が書かれなかったからだが、私にはそもそも楯の会がどうも気に入らない。

 あんなものがなかったらなと思わないではない。いや思う。

 三島由紀夫にはペンで戦う式の

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「ふーん」の近代文学⑩ 無理がある?

「ふーん」の近代文学⑩ 無理がある?

 それでも流石に三島由紀夫は近代文学じゃないんじゃないかとまだ考えている人がいる? いない?

 三島由紀夫本人としても鴎外だけは認めているけれども漱石なんかは軽く見ていて、芥川や太宰、それから島崎藤村なんかも馬鹿にしている。そして王朝物語に連なる意識があるから、やはり近代文学ではない?

 はい。近代文学です。

 近代ゴリラですもの。

[余談]

村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチ「壁と卵

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芥川龍之介の『邪宗門』をどう読むか⑩ 切支丹ものか敵討ちものか  

芥川龍之介の『邪宗門』をどう読むか⑩ 切支丹ものか敵討ちものか  

 そういえば、九章から十二章までの間、若殿様は登場しない。何か用事があったのか?

やはり切支丹ものなのか

 やはり『邪宗門』は切支丹ものであったかと、「頭を濡らすと云う、灌頂めいた式」で臭わされる。女菩薩、天竺、震旦と目くらましをしながらやはり十字の護符とこの洗礼の儀式は基督教を仄めかすものであろう。

 そう気が付いてみて、キリスト教の沈黙を貫く神のイメージが大きく突き崩されていることに改め

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「ふーん」の近代文学⑨ 何が近代文学か?

「ふーん」の近代文学⑨ 何が近代文学か?

 この話はもう誰かが書いているような気もするけど、念のために書いておく。

 大体ね、「三島由紀夫を戦後派に括ることがおかしい」という時、どうしても戦中派というか実際に戦争を書いた大岡昇平や野間昭なんかが邪魔になる訳なんだけど、そういう意味でこそ三島由紀夫は戦後派なんだと見做すこともできなくはない。「戦後」を書いたから戦後派だと。

 しかしむしろ『仮面の告白』にせよ『金閣寺』にせよ、それから『豊

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「ふーん」の近代文学⑧ パロディとしての三島由紀夫

「ふーん」の近代文学⑧ パロディとしての三島由紀夫

 三島由紀夫は大正十四年生まれ、ウィルバー・ダフォディル-11・スウェインより三歳年下ということになる。

 もし生きていれば今年で98歳、しかしそう思ってみれば三島由紀夫は全く自然に、驚くほど支那に影響を受けなかった。

 太宰治の「ギリシャを憧れてはならない」という警告を無視するように新婚で「世界旅行」と称してギリシャを訪れた三島由紀夫は、その国ぶりにあからさまに触発されたようなところがある。

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「ふーん」の近代文学⑦ 「ふーん」できなかった人

「ふーん」の近代文学⑦ 「ふーん」できなかった人

 いくらなんでもさすがに村上春樹を近代文学の枠組みで論じるのはどうかという人もあるかもしれないけれど、村上春樹という人は夏目漱石や谷崎潤一郎作品なんかも読んでいて、世界的に見れば今や夏目漱石のエバンジェリストでもあり、なかなか捨てておけない人なのだ。そして近代文学が抱えていた本質的な問題と云うものに直結している。

 そもそも例えば三島由紀夫は一般的には戦後派に括られていて、近代文学という枠組みは

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「ふーん」の近代文学⑥  3/5って何?

「ふーん」の近代文学⑥  3/5って何?

 兎に角ラーメンでも本でも☆☆☆の時代です。例えば定年退職したサラリーマンが社会性というものを失ってしまい、唯一の社会とのつながりとしてラーメンの食べ歩きをして「食べログ」なんかに記事を書くのと「読書メーター」に記事を書くのは基本的に自我を保つための「対象」を持つための行為なんですね。

 この「対象」と向き合わないと自我と云うものが崩壊、あるいは散逸してしまう。自分と云うものが無くなってしまう。

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「ふーん」の近代文学⑤ 三島由紀夫の私小説観

「ふーん」の近代文学⑤ 三島由紀夫の私小説観

 三島は「自分の問題が人にも大きな影響を与えるだろう」という考え方を否定する。これは平野啓一郎がデビュー当時雑誌『Spa!』か何かのインタビューで語っていた内容「僕は基本的に私的なことはどうでもいいと思っているんですよ」と妙に符合する。

 あ、その前に三島由紀夫が何故近代文学なのかというと、

 こういうことだ。三島の語彙は江戸より古い。平野啓一郎が『日蝕』で見せた擬古文も「徒歩(かち)より」な

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芥川龍之介の『偸盗』をどう読むか④ 何故この題なのか

芥川龍之介の『偸盗』をどう読むか④ 何故この題なのか

『偸盗』と『盗賊』

 
 芥川龍之介の最初の長編小説への試みが『偸盗』であったと言われることもないが、三島由紀夫の最初の長編小説への試みが『盗賊』であったと言われることもほぼない。それは『盗賊』など無視して『仮面の告白』から書き始めた方が「三島由紀夫論」としては恰好が良く、芥川自らが低評価を与えた作品をことさら論うのもどうかという算盤ずくの判断があるからなのだろう。

 しかし『盗賊』には三島由

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