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芥川龍之介の『偸盗』をどう読むか④ 何故この題なのか

『偸盗』と『盗賊』

 
 芥川龍之介の最初の長編小説への試みが『偸盗』であったと言われることもないが、三島由紀夫の最初の長編小説への試みが『盗賊』であったと言われることもほぼない。それは『盗賊』など無視して『仮面の告白』から書き始めた方が「三島由紀夫論」としては恰好が良く、芥川自らが低評価を与えた作品をことさら論うのもどうかという算盤ずくの判断があるからなのだろう。

 しかし『盗賊』には三島由紀夫という長編作家の必殺技「観念の空中戦」があり、「血潮と死の誘惑」があり、死してこそ完成する生というロジックに支えられた明確な自殺願望、退屈な生の軽視がある。いってみれば『盗賊』には三島由紀夫という長編作家の「処女作」の資格が、そのどこかまだ試行錯誤している気配を含めて、十二分にある。

 ただし殆ど『盗賊』という作品が話題にならない理由も理解できる。それはその設定があまりに絵空事だからだ。有閑階級というよりは貴族に属する失恋した男女が互いに示し合わせて結婚した日に自殺してしまうという漫画的な話が三島由紀夫という天才によってもっともらしく書かれている。だからだ。そんなことをして何になる、と考える前に失恋したから自殺するという、その精神的なもろさについていけない読者が殆どなのではなかろうか。それでも二人の自殺は、彼らを失恋させた相手同士をたまたま引き合わせることで奇妙な結末を得る。

 二人は同時に声をあげてこの怖ろしい発見を人々の前に語りたい衝動にさえ駆られてゐた。今こそ二人は、真に美なるもの、永遠に若きものが、二人の中から誰か巧みな盗賊によつて根こそぎ盜み去られてゐるのを知つた。

(三島由紀夫『盗賊』「決定版 三島由紀夫全集」新潮社2000年)

 この結び、最後の一行に来なくては「盗賊」という題名の意味は解らないと「はしがき」に書かれている。いや、そんなこともないだろう。

彼は自分が去つた後に何物かを残しておくのを吝しむのだ。彼は劫掠者に似てゐる。

(三島由紀夫『盗賊』「決定版 三島由紀夫全集」新潮社2000年)

 こうしたふりもあり、

或る動機から盗賊になつたり死を決心したりする人間が、まるで別人のやうになつて了ふのは確かに物語のまやかしだ。むしろ決心によつて彼は前よりも一段と本来の彼に立還るのではないか。

(三島由紀夫『盗賊』「決定版 三島由紀夫全集」新潮社2000年)

 こうした説明もあった。また、

 兎に角、藤村明秀が原田美子に何らかの形で復讐するであろうこと、そして藤村明秀が自殺をするのだということは隠されてもいなかった。しかし結婚式の日に自殺するという大げさで訳の分からない愚行がどのような意味で盗みに値するのか、そのロジックがポンと飛躍して、美子と佐伯に伝わってさえも読者にはやはり理解できないのだ。

 まさに三島由紀夫の生首が誰にも理解できないのと同じで、「この怖ろしい発見」などというものがどこにあるのか、私にもさっぱり分からない。あるいはこの独りよがりな感じこそがナルシスト三島由紀夫の真骨頂だとでも褒めるしかない。

 そういう意味では芥川龍之介の『偸盗』は最後の一行を読んでも何故『偸盗』という題名なのか解らない話だ。起きていることからすればまさに「生害」なのだ。それは三島由紀夫の『盗賊』も同じだ。盗みではない。

 その夜、阿濃は、夜ふけて、ふと目をさますと、太郎次郎という兄弟のものと、沙金とが、何か声高に争っている。どうしたのかと思っているうちに、次郎が、いきなり太刀をぬいて、沙金を切った。沙金は助けを呼びながら、逃げようとすると、今度は太郎が、刃を加えたらしい。それからしばらくは、ただ、二人のののしる声と、沙金の苦しむ声とがつづいたが、やがて女の息がとまると、兄弟は、急にいだきあって、長い間黙って、泣いていた。阿濃は、これを遣り戸どのすきまから、のぞいていたが、主人を救わなかったのは、全く抱いて寝ている子供に、けがをさすまいと思ったからである。――

(芥川龍之介『偸盗』)

 三島由紀夫の『盗賊』が『心中』という題にならないのは、明秀と清子の死が心中でさえなく、死そのものが復讐の手段として軽視されているからだ。とにもかくにも明秀は美子に復讐したかった。

 芥川の『偸盗』ではまるで兄弟の反目を誘うかのように振舞った沙金が兄弟に切り殺されるという生々しい復讐で終わっているように見える。それでは『偸盗』という題名はおかしい。

 つまり『偸盗』という題名であるからには何かが盗まれてゐなくてはならない。盗まれたものと言えば……

 しかし、その子が、実際次郎の胤かどうか、それは、たれも知っているものがない。阿濃自身も、この事だけは、全く口をつぐんでいる。たとえ盗人たちが、意地悪く子の親を問いつめても、彼女は両手を胸に組んだまま、はずかしそうに目を伏せて、いよいよ執拗く黙ってしまう。そういう時は、必ず垢じみた彼女の顔に女らしい血の色がさして、いつか睫毛にも、涙がたまって来る。盗人たちは、それを見ると、ますます何かとはやし立てて、腹の子の親さえ知らない、阿呆な彼女をあざわらった。が、阿濃は胎児が次郎の子だという事を、かたく心の中で信じている。そうして、自分の恋している次郎の子が、自分の腹にやどるのは、当然な事だと信じている。この楼の上で、ひとりさびしく寝るごとに、必ず夢に見るあの次郎が、親でなかったとしたならば、たれがこの子の親であろう。

(芥川龍之介『偸盗』)

 次郎が盗んでいったのは阿濃の心です、などというつもりはない。しかし『偸盗』という作品の中で何か勝ち得たのは「次郎の子」を産んだ阿濃と兄弟の信頼を取り戻した太郎と次郎の三人だけのようである。兄弟の信頼を取り戻すことは盗みとは言わない。では阿濃は胤を盗んだのか?

 ここは「漱石風」に明示的ではない。胤は次郎か、

「この子は――この子は、わしの子じゃ。」

(芥川龍之介『偸盗』)

 こう言って死んだ平六、猪熊の爺か。

 私はこう考える。

 平六には確かに身に覚えがあるのだろう。やったかやっていないかは記憶にあるだろう。しかしその身の覚えと子供の関係が阿濃にはうまく結びつかないのではないか。つまり自分が平六と何かをしたとして、自分の思っているのは次郎なのだから、仮に次郎とは何もなかったとしても、自分のお腹の子は次郎の子なのだと。

 それを盜みと呼ぶかどうかは別として、ここには「観念的なすり替え」があったと見るべきではなかろうか。結婚や心中を復讐にすり替えるような観念の空中戦と同じようなことが「天性白痴に近い」阿濃の中で起こったのだ。つまり芥川龍之介は村上春樹が『1Q84』においてふかえりと川奈天吾、リーダーと青豆雅美の四者間で行われた「亜空間精子飛ばし」を描くずっと前に、「思い込み胤盗み」を描いていたということにならないだろうか。

 次郎にしてみれば言い訳はできない。実質的に胤は盗まれたようなものである。


[余談]

少しばかり悪ふざけに類する物言ひをゆるしていただきたい。「死の意志」といふこの徒爾のおかげを以て、彼はいよいよ死ぬところへ行くまで生きてゐることができるのだ。彼を今即刻死なせないでゐるものは、他ならぬこの「死の意志」だ。

(三島由紀夫『盗賊』「決定版 三島由紀夫全集」新潮社2000年)

 この屁理屈が三島由紀夫だ。

彼は結論だけしか与えない無責任な著者のやうに振舞ひたかつた。

同上

 この賺した感じが三島由紀夫だ。

この瞬間、清子を捨て彼女の死の決心を促した佐伯といふ酷薄な青年と相似の位置で美子といふ女が明秀の死の決心を促してゐたことを清子はまだ知らなかつたにしても、二人の死の企図の告げあひは愛の告白宛らの歓びを彼女に齎すのだつた。

同上

 この硬直な言い回しが三島由紀夫だ。

夏も䦨けてから

秋もやうやく長けて来た或る日のこと

同上

 この語彙が三島由紀夫だ。




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