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「ふーん」の近代文学⑥  3/5って何?

 兎に角ラーメンでも本でも☆☆☆の時代です。例えば定年退職したサラリーマンが社会性というものを失ってしまい、唯一の社会とのつながりとしてラーメンの食べ歩きをして「食べログ」なんかに記事を書くのと「読書メーター」に記事を書くのは基本的に自我を保つための「対象」を持つための行為なんですね。

 この「対象」と向き合わないと自我と云うものが崩壊、あるいは散逸してしまう。自分と云うものが無くなってしまう。ですから本来「対象」というのは何でも良かったわけです。「部活」でも「勉強」でも「恋愛」でも「仕事」でも。そういうものが一通り済んでしまうと、自我と云うものが曖昧になる訳ですね。これが恐ろしくて、自分探しではないですが、まず「対象」を求める訳です。

 近代文学1.0は顔出しパネルと文豪飯だ、とずっと言い続けてきたのは、そうした自我の為の「対象」として文学を消費している層に関して言えば、文学はラーメンと交換可能なものであり、☆☆☆に交換可能な記号だからです。その層にとって本当に大切なものは自分だけでしかないわけです。「対象」なんか何でもいいわけですよ。

 しかし三島由紀夫が言うように川端康成とか谷崎潤一郎という人は自我が崩壊していて、私が考えるには川端康成や谷崎潤一郎作品と云うものは本来真正面から向き合うと自我の為の「対象」として消費できるようなものではない筈なんですね。自我の為の「対象」として消費できるようなものというのはいわゆる中間小説とかラノベのようなものでしょう。

日本の場合には、実際にあった古いゲマインシャフトの世界に近代的自我を形成するためにはまず敵を見つけなければならない。敵は志賀直哉の場合には父親だったり、だれそれの場合には何だったりというふうに、あるいは家族の周辺から見つけてくる場合が多いでしょう。そうして敵をつくることによって一生懸命抵抗して、抵抗する人間が近代的自我であるような気がしてきた。そういうドラマが自然主義の一つのフィクションだと思いますが、そうして自我が形成されていると思われたところで白樺派などが出てくる。

(「対談 人間と文学」『決定版 三島由紀夫全集』新潮社 2004年)

 この自我の為の「対象」として消費というのは実に厄介で、そもそも自分と云うものを大切にしすぎていてくだらないと思うんですが、どうも止められないわけです。まあ、楽なんでしょうね。自分に意識を振り向けないで、ラーメンでも本でも☆☆☆でいいわけですから。

 しかし人間というのはグラデーションで「読書メーター」なんかでも面白いのは、本当に格闘している人と☆☆☆の人がいるわけです。大抵は何か聞いた風なことを格好つけて書いて頓珍漢になっていますが、ごくまれにかなり核心をついたことを書けてしまう人がいる。そういう人はなかなか続かなくて、またとんでもないことを書くんですが、一つ言えるのは型のない人の書いているものが面白いですね。パターンで処理できない。つまり「対象」に振り回されているわけです。「ふーん」ができないんです。

 本来読書というものはそういうものでしょう。そういうものであるべきなんでしょう。しかし大人は「ふーん」しかできませんね。それこそ必要のない自我が形成されてしまって、それを崩壊させられないわけです。

 しかし「ふーん」抜きで本を読むということは、大変なことです。現に、

 この記事4631人が「ふーん」と通り過ぎて行きました。

 この記事は1071人ですかね。要するに「吾輩はドライブ中の書生に捨てられた」という過ちがもう自我の中に食い込んでいるので、今更それを否定されたくないわけです。先生はゲイという思いこみは捨てたくないわけです。

 しかしそう簡単に自我は崩壊しませんよ。

 つまり『奉教人の死』が「豊胸人の死」だと気が付かなかったからと言って、それであなたの人生が無になることはないんです。ただしそこで「ふーん」してしまえば、自我の為の「対象」として文学を消費している層に落ちてしまうわけです。

 私の言っていることが解りますか?

 解ったなら本を買って☆☆☆☆☆を宜しく。



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