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『吾輩は猫である』のウイキ間違い探し

「吾輩」は薄暗いところで出生したが、まもなく書生に家族犬共々拾われた。そこでタバコというものを初めて知る。ドライブ中に笹原に我輩だけ遺棄されるが大きな池に這い出し街に出たことで助かる。放浪の末に教師の家に住み込む。人間について車屋の黒から、わがままで不人情で泥棒も働く不徳者であると聞き知る。

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 このウイキペディアの『吾輩は猫である』のあらすじは誰が書いたものか分からない。分からないが、どうも間違っている。

「吾輩」は薄暗いところで出生したが、まもなく書生に家族犬共々拾われた。そこでタバコというものを初めて知るドライブ中に笹原に我輩だけ遺棄されるが大きな池に這い出し街に出たことで助かる放浪の末に教師の家に住み込む。人間について車屋の黒から、わがままで不人情で泥棒も働く不徳者であると聞き知る。

①「薄暗いところで出生した

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 出生地の心当たりはない。最初の記憶が「何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけ」である。「薄暗いじめじめした所」を「薄暗いところ」に縮める理由が分からない。

②「家族犬共々

 吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕つかまえて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始めであろう。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 この場面、何度読み返しても「犬」は現れない。「家族犬共々」という表現が何によって生じたのか、さっぱり分からない。書生が猫を煮て喰うという話から勝手に犬鍋でも連想したものか。それにしてもここまで勝手なものはもはや誤読とすら呼べないのではなかろうか。


③「タバコというものを初めて知る。」

 これが誤読である。

 この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ。その後ご猫にもだいぶ逢ったがこんな片輪には一度も出会わした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く。どうも咽ぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草というものである事はようやくこの頃知った。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 吾輩は「これが人間の飲む煙草というものである事はようやくこの頃知った。」の「この頃」は「この時」と同じではない。同じなら、「ようやく」ではなく「たちまち」である。「この頃」はこの話が語られている現在である。

④「ドライブ中に

 自動車は現れないし、回転もしない。「ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。」という状態を比喩的に表現しようとしたものか、あるいは存在しない自動車を勝手に幻出させたのかは不明だ。いずれにせよ、書いてあることを読まない、書かれていることを読まない、誤読の典型的なパターンだ。


⑤「街に出たことで助かる

どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに這って行くとようやくの事で何となく人間臭い所へ出た。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 この「何となく人間臭い所」を「」と捉えたようだが、この時点で吾輩は助かっているわけではない。

⑥「放浪の末に

 ここへ這入ったら、どうにかなると思って竹垣の崩れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、吾輩はついに路傍に餓死したかも知れんのである。一樹の蔭とはよく云いったものだ。この垣根の穴は今日に至るまで吾輩が隣家の三毛を訪問する時の通路になっている。さて邸へは忍び込んだもののこれから先どうして善いか分らない。そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降って来るという始末でもう一刻の猶予が出来なくなった。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 この引用箇所は一つ前の引用箇所と切れ目なく繋がっている。つまり「放浪の末に」などという事実は存在しないのである。そしてこの時点でもまだ吾輩が助かっている訳ではないことが確認できるだろう。


⑦「わがままで不人情で泥棒も働く不徳者であると聞き知る。

彼は喟然として大息していう。「考えるとつまらねえ。いくら稼いで鼠をとったって――一てえ人間ほどふてえ奴は世の中にいねえぜ。人のとった鼠をみんな取り上げやがって交番へ持って行きゃあがる。交番じゃ誰が捕ったか分らねえからそのたんびに五銭ずつくれるじゃねえか。うちの亭主なんか己の御蔭でもう壱円五十銭くらい儲けていやがる癖に、碌なものを食わせた事もありゃしねえ。おい人間てものあ体の善い泥棒だぜ」さすが無学の黒もこのくらいの理窟はわかると見えてすこぶる怒った容子で背中の毛を逆立てている。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 この台詞のニュアンスを独自解釈したところであろう。泥棒と不徳はまあよしとしよう。しかし「わがまま」は黒の弁ではなく吾輩の観察からくる判断である。

 吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ないようになった。ことに吾輩が時々同衾する小供のごときに至っては言語同断である。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 そして「不人情」は黒ではなく、白の見解である。

 吾輩の尊敬する筋向の白君などは逢う度毎に人間ほど不人情なものはないと言っておらるる。白君は先日玉のような子猫を四疋産れたのである。ところがそこの家の書生が三日目にそいつを裏の池へ持って行って四疋ながら棄てて来たそうだ。白君は涙を流してその一部始終を話した上、どうしても我等猫族が親子の愛を完くして美しい家族的生活をするには人間と戦ってこれを剿滅せねばならぬといわれた。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 このように夏目漱石作品は何故か徹底して読み誤られている。しかも読み誤っているものが汚染データを流し続けて居る。書く資格のない者が書き続けて居る。しかしこの誤りはいつか正されなくてはならないだろう。なんとしても。




十徳ナイフか!

ソーラー発電できそう。




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