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夏目漱石論2.0

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2022年7月の記事一覧

青野季吉「漱石·良寛·我々」何が起ころうと僕は不可能に挑む

青野季吉「漱石·良寛·我々」何が起ころうと僕は不可能に挑む

漱石·良寛·我々 夏目漱石がまだ大學生の頃にかいた「英國詩人の天地山川に對する觀念」といふ論文は、周圍の人々をひどく敬服させたらしく、當時の文科大學長外山正一もそれをよんで、目を瞠つたと云ふことだ。その文章の中に次のやうな一節がある。

「ウオーズウオースは全く之(バーンズ)に異なり。其主義とするところは"Plain liying Es care thinking "にありて、固より俗界を眼下に見

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XY生 著今古堂 1905年「漱石と柳村」~恐らく最も早い漱石評

XY生 著今古堂 1905年「漱石と柳村」~恐らく最も早い漱石評

漱石と柳村

(一)

 明星といふ小雜誌あり、ホトヽギスといふ小雜誌あり、一つは醴酒の如く一つはラム子の如し、どうせ滋養にはならねど、いづれも特色のありて、小範圍の讀者に珍重せらる。この二者は全然相容れざる性質を有し、寄稿家も讀者も類を異にし、明星の後援者に上田敏先生あり、ホトヽギスの客將に夏目金之助先生あり。
 

 自から相對立して、大學の講堂外に白己の面目を發揮せるは面白し、而して世柳村先

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戸坂潤「現代に於ける「漱石文化」」

戸坂潤「現代に於ける「漱石文化」」

現代に於ける「漱石文化」 ー

 今日の吾々から見て、漱石の有つてゐる意義は、勿論第一には大正期の代表的な作家としてである。それがどういふ作家であつたか、所謂低囘趣味や何かの作家であつたかどうか、又ヨーロヲパ大戰後まで生きてゐたらば日本の思想的變動からどういふ風な影響を受け取つたらうか、といふやうなことは今の處論外としておかう。

 とに角彼は第一に作家として思ひ起こされる。だが漱石を一個の作家と

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安倍能成「小宮豐隆の『夏日漱石』を讀む」

安倍能成「小宮豐隆の『夏日漱石』を讀む」

小宮豐隆の『夏日漱石』を讀む

その一

 小宮が漱石傳を書くといふ志を語つたのは、漱石の死の直後であつた。私はその頃から、漱石傳を書くものの小宮の外にはないことを知つて居たけれども、小宮の凝性が殊に漱石に對する敬愛によつて高ずる餘り、この漱石傳は中々出來まい、或は單なる夢想に止まりはしないかを恐れた。
 漱石死後『漱石全集』は頻に版を重ねたが、この編輯の中心者は、否眞の意味での編輯者は、殆ど小宮

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夏目漱石『明暗』の技巧③ 大胆な「ふり」

夏目漱石『明暗』の技巧③ 大胆な「ふり」

 私をして忌憚なく云はせれば、あれは普通の通俗小說と何の擇ぶ所もない、一種の隋力を以てズルズルベツタリに書き流された極めてダラシのない低級な作品である。

 あの谷崎潤一郎がここまで徹底的に『明暗』を否定するのは、『明暗』の技巧が理解できていないからだと、記事を二つ書きました。

 しかし如何せん『明暗』は未完成の作品で布石の回収がないので、筋そのものの面白さ、のような指摘は本来できません。

 

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夏目漱石『明暗』の技巧②会話の妙

夏目漱石『明暗』の技巧②会話の妙

 谷崎潤一郎という作家は基本的に信用できない人だと思うんですが、それは単に嘘を言うということではないんですね。虚々実々の小説や戯曲を書きまくって、何が現実なのか分らなくさせた人だから信用できないわけです。

 最初に谷崎について書いたのが、

 この記事ですか。谷崎は『誕生』を書くにあたり『栄花物語』を読んだはず、『栄花物語』の語彙検索で調べてみると「國民」などと云う言葉が使われていようはずもなく

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折口信夫「好惡の論」について

折口信夫「好惡の論」について

 文學の目的は、私はかう申します。人間生活の暗示を將來して、普遍化を早める事です。此が、私の考へる文學の普遍性で、同時に、文學價値判斷の目安なのです。だから、結局、日記や傳記によつて、文學作品が註釋せられて、作者の實力が知られると言ふのは、抑文學者として哀れな事で、作品其物に、人間共有の拂ひがたい雲を吸ひよせる樣な、當來の世態の暗示を漂はしてゐる文學でなくてはならないのです。
 芥川さんなどは若木

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夏目漱石『明暗』の技巧① 浮遊する視座とパースペクテイブ実在論。

夏目漱石『明暗』の技巧① 浮遊する視座とパースペクテイブ実在論。

 谷崎潤一郎が徹底して『明暗』を批判していたので、谷崎潤一郎のロジックに従い、『明暗』に優れた技巧が沢山あることを具体的に示して、その誤解を解いて行きたいと思います。

 え?

 それ、誤解なんですって。

 そもそも私自身『明暗』を上品な作品だとはみなしていません。むしろ、どうして漱石がボロボロになりながら、そしておそらくはこれが最後の作品になるのではないかとうすうす感じながら、『明暗』のよう

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谷崎潤一郎から見た漱石文学 そこまで言わなくていいじゃない。反論は後日。

谷崎潤一郎から見た漱石文学 そこまで言わなくていいじゃない。反論は後日。


はしがき 私は一體文壇の現狀などと云ふことに比較的不注意の方である。月々私の手もとへは可なり多くの雜誌が寄贈されるけれども、それらに載つて居る創作の一つにでも眼を通すことはめつたにない。讀むとすれば多少の年所を經てから猶生命のある作家や作品を擇んだ方が、その値打ちもよく分り、第一無駄な勞力が省ける。さうして、多少の年所と云ふうちにも成るべくならより古い物やより隔たつた物― 古典や外國の文學の方を

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小泉信三「理論家漱石」・豆腐屋の飛翔

小泉信三「理論家漱石」・豆腐屋の飛翔

理論家漱石

 漱石全集二十卷の中特別の興味を以て時々取り出して讀むのは、「文學論」及び「文學評論」の二卷(普及版第十一、十二卷)である。必しも此の二卷を最も愛讀するとは言へない。「文學評論」の方は姑らく措き、「文學論」に至つては、決して讀み易い、普通の意味で面白い本といふべきものではない。其主要部をなすものは抽象的推理であつて、而かも數學式に似た符號まで飛び出して來る。

 文章は、勿論漱石一流

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高浜虚子「漱石氏と私」-6の続きの続き-サボテン黨の首領は、高濱虚子のこと

高浜虚子「漱石氏と私」-6の続きの続き-サボテン黨の首領は、高濱虚子のこと

 明治三十九年九月十三日(葉書)

 西洋人にはまだ達はんから逢つて椅子が欲しいかどうか聞いて見ませう。日本すきだから坐るといふかも知れない。三崎座で猫をやる由成程今朝の新聞を見たら廣告があつた。寺田も知らせて來ました。

 然も忠臣藏のあとだから面白いと書いて來ました。猫が芝居にならうとは思はなかつた。上下二幕とはどこをする氣だらう。僕に相談すれば教へてやるのに。                

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凄いぞ東北大学デジタルコレクション 漱石研究者の楽園。

凄いぞ東北大学デジタルコレクション 漱石研究者の楽園。

世に知られぬ漱石の珍書簡

 明治の三十年代には、今日とちがつて、入學難などといふことは夢想だにされなかつた。中學を出ると同時に、私達の學籍は、いつか高等學校に移つてゐた。
 高等學校(その頃は高等中學といつてゐた)を出るとちやんと東京の大學へ籍が移されてゐた。入學難のない時代だから、就職難などといふ聲も聞いたことはなかつた。

 何でも私の卒業する間際だつた。佐賀縣小城の中學から、英語の教師を七

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中村武羅夫『文壇随筆』風呂で小便疑惑。漱石の髭は跳ねていたか?

中村武羅夫『文壇随筆』風呂で小便疑惑。漱石の髭は跳ねていたか?

 夏目漱石は、家が近所だつたので、一月に一度や、二月に一度は、用事以外でも遊びに行つな木曜日が面會日だつたので、大抵その日の午後出かけて、夕方ごろまで、いろんな話しをした。門下の人々は、みんな夜集まるので、私は、漱石の客間で、門下の人々に會つたことは一度もないが、その他の人々には、ちよいちよい面をあはした。中村是公氏や、三宅やす子氏や、その當時の文部次官をしてゐた、福原何とかいふ人達を、最初に見た

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山田潤二「夏目さん」・未来なんて一ミリも要らない

山田潤二「夏目さん」・未来なんて一ミリも要らない

夏目さん

 夏目先生が亡くなられた。私共一高の腕白仲間では蔭で「夏目さん」と呼んで居た、時には「猫が」「猫さんが」と異名を呼んだこともある。私は其の親しみに還つて、先生も嫌つて居た「先生」と云ふ堅苦しい敬語を避けて、「夏目さん」で追憶が書きたい。

 夏目さんは私の學校生活二十餘年を通じて、印象に殘つた先生の一人である。あの品格の高い、一種の氣骨を帶んだ利かぬ氣の氣象が、教はつて居た當時から、其

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