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安倍能成「小宮豐隆の『夏日漱石』を讀む」



小宮豐隆の『夏日漱石』を讀む

その一

 小宮が漱石傳を書くといふ志を語つたのは、漱石の死の直後であつた。私はその頃から、漱石傳を書くものの小宮の外にはないことを知つて居たけれども、小宮の凝性が殊に漱石に對する敬愛によつて高ずる餘り、この漱石傳は中々出來まい、或は單なる夢想に止まりはしないかを恐れた。
 漱石死後『漱石全集』は頻に版を重ねたが、この編輯の中心者は、否眞の意味での編輯者は、殆ど小宮一人であつたといつてよい。

 漱石生前からも、小宮は所謂漱石門下の中で、漱石に對する感情と共に漱石に對する知識を最も多く持つて居た。いふのは單に理解とか洞察とかいふ意味ばかりでなく、この知識と精細なる文獻的知識をも意味した。
 仲間で漱石が問題になる時、小宮は常に掌中に物を指すが如く、その記憶中にある事實と文獻とによつて、自分の議論を證し又相手の議論を反證した。この小宮の知識は、全集の編纂によつて一層精確に又詳密になつたことは否定し難いが、併し小宮をしてこの『夏目漱石』を書き上げしめるのに與かつて最も力のあつたのは、恐らく最新の決定版『漱石全集』に月月その解說を書くといふ課題であつたらう。

 比較的短日月の間に漱石の一切の文獻に觸れ、每日の時間の大部分を漱石に集中するを餘儀なくされたといふ事情が、小宮をして漱石の全貌と核心とを、又その一生涯に亙る變化と發展とを、把捉せしめるのに便じたことは、決して想像に難くない。かくして堂々八百八十頁の大作、力作『夏目漱石』が、小宮自身の豫期よりはいくらか遲れたにしても、我々の期待よりは遙かに早く世に出たことを、私は小宮の爲にも、漱石の爲にも、日本の文壇と學界との爲にも祝福したい。

 事實これだけの著作は決して容易に世に出るたぐゐのものではない。漱石が生きて居てこの書を見たならば、或はその或る箇處に就いては異議を唱へたかも知れない。併し小宮がこの書に注いだ渾身の努力と、又この書を作つた敬虔な態度と、この書に現はれた漱石に對する愛重の念とに對しては、漱石は恐らく心からの感謝を捧げたであらう、否、心の素直な漱石のことだがら、或は勿體ないといふ程の感じさへ抱いたかも知れない。

 小宮は私の友人ではあるが、私は彼の情操と知識とを今の日本の時流に挺んでたものとなすことを、一概に親知に侫する僻見だとは考へない。しかも彼は漱石の世界に分け入り、漱石の眞面目を傳へることを、殆ど半生の課題として悔ゆることを知らなかつた。これは、この仕事が結局小宮自身の仕事であり、漱石に深入することが同時に小宮自身の魂を啓くといふことになるのでなければ、出來ることではない。

 人は獨創と獨立とを欲して却て模倣と皮相とに墮しがちである。小宮は漱石に沒頭することによつて、恐らく自家の眞面目に接する喜びをも得たであらう。彼のこの仕事は決して人から强ひられたり賴まれたりして出來たものではない。この意味に於いて『夏目漱石』は、出來得るだけ漱石自身をして語らしめ、小宮自身を出し又は語るまいと努めて居るに拘らず、期せずして實によく小宮を出し又語るものである。それは漱石の嚴密な記實であると共に、逆說的のやうではあるが小宮の創作でもある。夏目漱石に幾何の缺點があるにしても、小宮を引きつけてこの傳記を書かしめただけで、彼が或る偉大と眞實とを有して居たことを證據だて得る。傳せられる者と傳する者とのこれだけの組合せは、中々求めて得られるものではない。それは實に有りがたい逢遇であつた。この書物の貴さは先づこの點にあつて在する。

 小宮は友人の科學者寺田寅彥から、科學的な頭腦といふ折紙をつけられた。小宮の學的な著述として例へば『芭蕉研究』の如きは、小宮の藝術的鑑賞の力と共に、その精到な科學的考證の頭腦を證するものである。一體小宮の考證は、その題材を當の作者の中心生命に結びつけることによつてそれを生かさうとする努力に於いて、在來の考證家と撰を異にし、さうしてその題材の愼重な吟味と考察と選擇とに加へて、この題材を組織し結合する仕方に於いて、精嚴な心理的、論理的用意を怠らないといふ長所を持つて居たが、この書に於いては、この特色が一層恰當の舞臺を見出して、十二分に發揮された觀がある。

 この漱石傳が單にかけがへなき著者その人を得たといふに止まらず、それは機緣が具し且熟して、實に出るべき時に出たといふ感じが深い。『漱石全集』が始めて世に出た時、故人のノートの端にかきつけた日記感想を始め、斷簡零章までが悉く網羅されたのを見て、私の或る友人は、死後にあんなにまで何もかもさらけ出されてはたまつたものではない、あれが又故人の心にかなふものであらうか、と批難をこめた感想を語つたことがある。一たい全集といふものは、作者の死後に作られるのを原則とするのであり、斷簡零章までも集めて殘さないといふことの可否も、その人の社會的歴史的意義によつて左右せられるものであるから、當人の意志如何は、特別な意志表示でもある場合の外は、あまり問題とするに足りない。しかし小宮のこの書に於けるが如く、その日記、斷片、感想、書簡の類が、漱石の內生活を闡明する題材として、實に遺憾なく利用されて居る實例を見ると、ああいふ斷片の一々が、實に漱石といふ全體の生命の片鱗として、その悉くが生きて來、各々が意義を發揮して來ることをしみじみと感じさせられる。

 かうした斷片を丹念に探し出し、丁寧に整理し、編輯した當人が、主として小宮自身であつたといふことの、彼のこの利用に便じたことを考へると共に、小宮が一々此等の零細な材料の中から、漱石の生活に通ずる筋道をたぐり出した熱心と技倆とも、十分賞讃に價する。

 例へば世に發表された「猫」とその腹案との比較考察の如き、或は「行人」に對する作者の打込みかたを證する書簡の引證の如きは(七六九)、その多くの中の一例に過ぎない。小宮が色々な點に於いて漱石傳の最適任者であるといふに止まらず、漱石の門下中よくかういふ仕事の煩に堪へ得るものは、恐らく小宮を措いて外にあるまい。而も更に貴いことは、この面倒な材料の探索も選擇も、その根氣も丹念も、結局は漱石に對する愛によつて命づけられて居るといふことである。

 この傳記の最も肝要な特徴は、漱石を內在的に傳へたといふことである。それが前にもいつた如く、出來るだけ漱石自身をして、卽ち漱石の書簡、日記、創作をして語らしめる、といふことになつて居る。この著者の態度は或る場合には讀者に煩雜の感を與へさへもする。著者は先づ一聯の文章を引く、さうしてそれを解明する爲に又その中の文句を繰返して列擧する、又同一文章が樣々な見地から樣々な場所で引かれて居る。そこに無用な重複のあることは皆無といつてよい位であるが、傳記文學の技巧としては今一工夫を要する處もあるやうに想はれる。併しこれとても小宮が、自分の詞で漱石自身の思想や感情を代辯したり總括したりすることによつて、漱石を主觀的に小宮化することを恐れた爲であり、小宮自身が序文中でいつて居る「私が漱石を敬愛するのあまり、此所で傳記記者の根本の心構へを取り外づし、贔負の引き倒しをしたり、或は自分が漱石になつた氣で、漱石を描きながら、實は自分の我を人に押しつけてゐるといふやうな事が、ないやうに念じる」といふ用心の一端を示すものだとすれば、それを批難する氣にはなれない。この傳記は、小宮の從來の文章中で、最も肩の凝らない、平らかな書きかたであるに拘らず、この用心と自制とが幾分それを讀みにくくし、それに創作的流動と奔放とを與へなかつた理由ともなつて居よう。

 併し又それの今一つの重大な理由は、この書がその表現の比較的な平易に拘らず、實に一個の立派な學的著述だといふ點にも存する。この書が出來るだけ學的表現を避けたに拘らず、常に學的用意の下に書かれたといふことが、一般の讀者には或は漱石をむづと把むといふことの妨げになつたかも知れない。學的用意といつたのは、先づ第一には材料の博搜である。この點に於いて著者は、今まで既に他人の企及し難い强みを持つて居た上に、この書物で更に勉强を重ね、漱石以外の關係文獻の吟味、漱石の友人故舊の談話の聽取その他に就いても、殆ど煩勞を厭ふことがなかつた。第二にはその材料の批判と評價とについてである。小宮は個人的には漱石に最も近かつたに拘らず、從來も逸話的に自分と漱石との親近關係などを語つたことは殆どなかつた。漱石の傳記、記實たるこの書に於いては、さういふ傾向は一層影を潜めて居る。これは小宮の漱石に對する態度の愼重と敬虔とを示すものに外ならない。固より此等材料の批判に關しては、實質的に小宮に全然たる見誤りがないとはいへぬかも知れない。

 併し少なくとも態度として小宮はその最善を盡したといへいる。例へば材料選擇の場合、その一つなる漱石の書簡の引證の如きも、小宮は必要な場合
にそれに最も適切なのを引證して、その書簡の相手に對する好惡によつてそれを取捨するやうな私意や、又この機會に自分を大きく出さうとするやうなさもしさを一つも示して居ない。これは傳記者としては當然の用意であるが、併し誰人に對しても望み得られることだとはいへない。つまりこの書に於いて小宮の企てたことは、漱石を漱石自身から見て、內在的に漱石の魂の發展を、しかもそれを文獻と材料とによつて客觀的に跡づけようとするにあつた。

 漱石の時代や作品も、むしろ漱石自身の人間と生活とから眺められて、時代から又時代の文化史的觀點から漱石を眺め、若しくは漱石の文學を時代の文化や文學の潮流の中に定位するといふこと、卽ちさういふ意味で漱石を超越的に批判するといふことは、この書に於いて小宮の企てる所でなかつたらしい。

 漱石の評價がこの方面に於いて重大な一面を後來者に殘して居ることは否定せられない。併しその後來者達がかかる文化的批判を漱石に加へる爲にも、先づ顧みられねばならぬものは、漱石の內在的發展である。さうしてそれを知る爲には、この書は是が非でも讀まれねばならぬ重要文獻である。漱石は恐らく我々の世代の後にも研究されねばならないし、又されるであらう。小宮の研究は其自身立派な建築であるが、併しそれを最も少なく見積つても、此等の研究に對して確かな基礎建築を提供したといふ功績を否認し得ない。

 この書は又漱石の思想內容や生活課題を殘す所なく闡明し解決したとはいへない。けれども我々はこの書を讀むことによつて、これを手引としてぢかに漱石の世界にはひつて行かうとする要求を盛に刺㦸される。これは漱石の偉大さを示すと共に、又この書のよさを語るものだと信ずる。


 讀者の中には、或はこの書が漱石の文學的作品に卽すること多きに過ぎるのを、物足らず思ふ人があるかも知れないが、これは漱石の最も重要な活動であり、漱石の內面的發展の本質的なものが、その創作に表現されて居る以上、事態と內容との必然的に要求することであつて已むを得ない。併し小宮は旣に『漱石襍記』に於いて、又『漱石全集』各卷の解說に於いて、漱石の作品に就いては隨分多くを語つて居る。その後でそれとの重複を避けて、しかも內容ある記述を試みるといふことは、中々困難な課題であるが、私の見る所によれば、小宮はかなり見事にこの困難を切り拔け得て居る。大體に於いて全集の解說は作品を主としてその側から作者の生活を見、この書に於いては漱石の生活を主としてその側から作品を見るといふのが、小宮の目ざす所であつたらうと思はれる。

 併し日記とか感想とか手紙とかと違つて、作者の作品と事實、更に狹くは作者の實生活との關係を決定するには、そこに多大の困難が存する。最も卑近な例はモデル問題であり、普通の讀者は作品に向つて直ちにモデルを求めようとする。「坊つちやん」の如きは、このモデル問題で世間にセンセイションを起し、主人公坊つちやんの性格と活動との一面に利用された或る實在の人物― この人は新聞によると近頃逝去した-の如きは、自分でそのモデルを名乘り出し、作中の自分のしないことまで自分がしたといひ、架空の話まで事實にしてしまはうとさへした。

 小宮は漱石自身の生活を說明する爲に、啻に書簡、日記、斷片等のみならず、その作品からも少なからぬ援用を敢てして居る。作品の中には漱石の經驗した外的事實もあり、內的事實もあり、外的內的に事實なることもあり、作者の現實であることも空想であることも理想であることもある。併し如何なる意味に於いても、作者の作品と生活とが密接な關係にあり、作品が作者の生活の產物であることが否定されないと同時に、作品からして作者の實生活を導出して來ることに多大の危險が伴ひ易いことも亦いふを須たない。この點に於いて私は、小宮が全然何の過誤をも犯して居ないと斷言するには躊躇するが、併し漱石を知ること最も多く、漱石を愛すること甚だ深い小宮が、作品以外の文獻と比較しつつ、愼重に周到に引き出して來る結論以上のものを、小宮以外の他人から聽かうとするのは、殆ど不可能の要求であることを疑はない。

 一體漱石の在世中には、漱石自身の非人情小說の提議などにも關聯して、漱石の作品は生活から游離した、現實の深刻な人生と相涉ることなき文學だといふ批難を、文壇から受けることが多かつた。併し漱石自身が自分を以て自然主義者ともロマンティストともネオロマンティストとも札づけするを欲せず、自分の文學を詞の最も嚴格な意味で自分自身の文學だと主張し、又事實さうであつたといふことは、當時の小說の中にあつても、特に漱石の小說を、作者の生活と最も緊密な關係に立たしめたのである。漱石の男女觀、人間觀、人生觀の發展と變化との跡は、隨分强くその作品に現はれて居る。

 小宮はこの跡を主として漱石の人間の本質から、さうして更にその境遇から體驗からたどらうとして居る。初期の時代に於いて、「猫」に於ける現實暴露―-勿論當時の自然主義的作品のそれとは違つた意味での― と共に、「倫敦塔」「幻影の盾」「薙露行」に於ける理想的なロマンティックな純美な詩の世界の平行、「草枕」に於ける現實の世界にあつて美の世界を獲得せんとする要求、「野分」に於ける志士的氣魄の發露等を經て、「虞美人草」に於ける戀愛を中心としての道義問題への.最初の斬込み、「坑夫」で一休みして別個の風光を點じ、「三四郞」「それから」「門」と、「虞美人草」では作品の外にあつて作品中の人物を操つて居た作者が、次第にその固くなつた緊張をほごして、男女の問題の內にはひつて來つつも、尙自分を作品の中に投じ切れなかつたのが、「彼岸過迄」の「須永の話」をきつかけに、漸く作者の內面の告白となり、それが「行人」「心」に於いて、愈とその面目を深刻に鮮明に發揮すると共に、漱石の自敍傳といふべき「道草」に於いて、靜かに自分の半生を凝視した後、更に最後の作品なる「明暗」に於いて、男女の葛藤に巢喰ふ人間の私を爬羅剔決せんとするまでの、漱石の生活と作品との關係は、全集の解說と併せて、未だ嘗て試みられなかつた程、大規模に全體的にその究明を企てられた。

 小宮がこの書に於いて企圖したことは、漱石の世界に入つて、必然的な漱石の發展や變遷と共に流れ行かうとするにあつたらうが、併しこの事自體が非常にアムビシャスな企であることはいふまでもない。この書の中で小宮の力の最も多く注がれたのは何といつてもこの方面にあるであらう。さうしていつの間にか小宮を發揮したのもこの方面であり、最も多く論議の中心となるのもこの方面であらう。小宮のやつたのは漱石の生活と文學との內在的開展の究明であるが、この點が獨りその細部に於いて色々研究の餘地を殘すのみならず、この內面的開展を基礎にして問題は更に發展の可能性を有するであらう。

 例へば漱石が病弱と孤獨とによつて愈々深く自分の心の解剖に深入したことが、彼が小說の殆ど唯一の方法とした心理的解剖を深めると共に、又その限界を示しはしなかつたかといふ如きことも、一つの問題である。漱石の傳記にさういふ一切の問題の解明を望むのは、固より當を缺けるのであるが、私は今後かういふ問題に就いても小宮の更に立入つた研究を欲するあまりに、これを一言したのである。序に私が心理的解剖の限界といふことをいつたのは、漱石は自分の私にしろ、自分の奥にある自然と眞實とにしろ、深く自分の心を解剖することによつて、かくして得たる心の種々相を具體化することによつて、更に進んでいはば彼の魂の分身を相交涉せしめ、さうしてこれを組織することによつて、小說の世界を開展し來つて居る。この點が漱石の作品が鷗外などと違つて「自我本位」の小說であり、又骨を刻み命を縮める程の仕事であり、又その本質に於いてロマンティストたる所以でもあると思ふが、同時に漱石の作品が心に昇華して肉體を稀薄にするといはれる所以も亦、ここに淵源しはしないかとも思ふのである。現に「明暗」は漱石の所謂「執濃い油繪」の世界を取扱つたにも拘らず、私はどことなしにそこに一種肉を離れたやうな清さと凄さとの漂へるを感ずるのである。

 併しかういふ私の言葉はこの書物の批評から逸して居る。以上は小宮の參考までにいつただけで、小宮の漱石作品に現はれた生活の見方は、全體として私の同感する所である。又その部分についても、「木屑錄」の漱石の創作的生涯に於ける意義の顯彰、「草枕」の特殊なる位置の發見の如き、精到にして卓拔な小宮の識見を示して居る。小宮の所見に對して異議を唱へる場合があつても、單なる思ひつきを以てそれをしたくない。それをするには小宮の研究と吟味と反省とは餘りに念入りだからである。

 漱石に於ける重要なテーマの一つは、東洋的情操及び思想と西洋的情操及び思想との彼の生活に於ける交渉である。これは自ら東洋的―漢詩的、俳句的―文學と西洋的―英吉利的―文學との間に立つて、親しく苦勞を重ねた漱石自身の生きた問題であるのみならず、― 更に擴げては東洋文化と西洋文化との交渉といふ、文化史的に見て我國に獨特な全般的問題であり、殊に漱石の生きて居た明治時代を特徴づける重要な意義を有した問題である。

 漱石に於けるこの兩者の交渉を内容的に規定し、又これを文化史的に定位することは、この書に於いて十分に遂げられたといへないし、又この傳記の企てる所でもなかつたが、併し意識的無意識的にこの相對立する文化と文學との間に立つて、苦み、疑ひ、惱み、さうして解決の鍵を自己の文學觀の樹立に求めて、ほつと息をついだ這裏の深刻な消息は、巨細に語られて居る。「ロンドン」「文學論」「神經衰弱」の諸章は特にそれである。私は漱石がこの大問題を背負つて、雲霞の如き西洋文化の大軍の眞唯中に、ロンドンの下宿にくすぶりつつ一所懸命に勉强して居た姿を想像する時、實に一種悲壯の感を催すのである、さうして單にこれだけを考へても、彼が若しそれで神經衰弱にならなければ、それこそ却てうそだつたといふ氣さへする。

 漱石の「神經衰弱」及び歸朝後の「再び神經衰弱」は、小宮が漱石の爲に最も精魂を注いだ箇處であらう。小宮の漱石に對する滿腔の愛情は、實にその精到なる辯護の中に流露して、惻々として讀者を動かし、無反省に又輕忽に漱石を精神病者にかたづけたがる者共の蒙を啓くに十分である。

 いひたいことはまだ色々ある。
 この傳記を讀んでも思ふことは、漱石の得難く逢ひ難い「人間」である。漱石は傑れた人であり、又はつきりした核を有した點に於いて天才的な人でもあつた。併し漱石の一生が總ての人々に訴へるのは、その眞實な正直な、自己の本然に就かなければ安んじ得ない性格であつた。

 漱石の生涯には外的な波瀾は少なかつた。併し漱石自身の手記にも徵し得るが如く、後から思へばはらはらするやうな幾多の危機を危なく拔けて來たのである。珍しく世間的な野心に動かされず、偏に自分の天眞を發揮することを志した漱石の生涯は、その變物といはれ、奇矯と呼ばれたに拘らず、實に人生の大道を歩いた生涯であり、その點に於いて人間修行に於ける誰人の師ともなり得るものである。漱石の通つた道は必しも順易ではなかつた。併し彼は水が岩を透してしみ出るが如く、自己の眞實に從つてそれを開いて行つた。

 漱石にとつて自分自身になるといふことが先づ第一のことであつた。併し自分自身になるといふことは、同時に自分自身を超越することであつた。漱石の自我はこの自分自身になり切れない時に懊惱し、この自分自身の發揮を妨げられた時、社會にも周圍にも强く反撥した。併しこの傳記によつても、彼の生活の中には、この偶然を取つて自家の必然と化する意識的方面と共に、無意識的な無技巧な無造作な方面があつたことが分る。これは、彼の自我が一面に於いて期せずしてよくそのエレメントに居り、よく自分自身を脫却し得て居たことをも示すものである。

 我々は彼の意識の神經衰弱を促すほど敏感に過ぎるを見ると共に、又彼の一面に意外な暢氣さと無意圖とをも見つけて、ほほゑましくさへなるのである。かういふ點に於いて彼は、たしかに天才的無意識の佛を持つて居た。漱石の人間の人を引きつける理由の大なるものは、その人懐こい暖かさとその小兒のやうな素直さとにある。

 彼は實に「進んで人に懷いたり、人を懷けたりする性の人間ではない」(七七二)。彼は世にいふが如き親分肌ではない。親分には子分を集めようとする意識が必要である。この邊の消息は、例へば本書の「文藝欄の廢止」を見ても分るであらう。彼は實に終始對當の人間と人間とを以て人に交渉せんとした人である。世間でこの點について誤解があらば、それは漱石自身よりも寧ろ門下生の罪であらう。而も彼は人に懷かうと思はずしていつの間にか人を懷かしがり、人を懷けようとせずしておのづから人が懷いて來た。彼が門下生に對して愛相をつかし、自分の前に跪いた足が自分を蹴り得るといふ不安を懷きつつも、若き文學者、例へば芥川や久米に開いた好意、若い禪道修行者によせた敬意を見ると、我々は漱石の與し易き人の好さよりも、その死ぬるまで純眞を失はなかつた心臟の和かさを思つて、頭が下るのである。

 今ちよつと引いた「文藝欄の廢止」は、小宮自身と森田草平とを主代表者として、同じ年配の弟子達の文士的臭氣や思ひあがりが、動もすればミザンスロピツクにならうとする晩年の漱石の心境との朕離を來したいきさつを、如實に記述せるものとして、私にも感動なしに讀まれなかつた。『夏目漱石』一卷は固より漱石を傳するものであると共に、少くとも漱石の前には自分を投げ出す心持で書かれたものとして、小宮にとつて一つの懺悔錄といへなくはないが、この一章は特に內容的にさうである。

 併し三十年近い歲月は、かかる傷心の事を書くに當つても、さすがによく小宮をしてセンティメンタリズムを脫却し、よく率直と冷靜とを失はしめなかつた。若し漱石にして今尙世にあつたならば、熱愛し崇拜した師から一時を離れるといふことも、弟子の成長の爲には止むを得ぬ一段階だつたといふことを諦視し得たであらう。併し師の抱擁と弟子の反省とによるこの對立の揚棄は、漱石の生前には實現せられず、この書を書き終へて漱石の靈に捧げんとする小宮も我々も、とくに漱石の歿齡を越えて、鬢髮も殆ど皆白くなつた。まことに感慨無量なるものがある。

昭和十三年八月十九日淺間山鳴動して盛に灰を降らした朝、上州北輕井澤の山舍にて


その二

 ストリンドベリイの小說に「ある魂の發展」があるが、小宮の大作にして力作なる記實『夏目漱石』もまたその名に呼ばれ得る。しかもそれにはさらに「傑れたる」「日本的」といふ形容詞を加へ、「ある傑れたる日本的魂の發展」を遺憾なく傳へた書として、廣く日本人一般に訴へると共に、顯著にして深刻な個性としての夏目漱石の眞面目の開展として、獨自の存在意義を有する。漱石が明治、大正年間に於ける最も傑出した文學者たりしことは、旣に一個の歷史的事實であり、最も多く讀まれた、今もなほ最も多く讀まれつつあるその文學は、實に日本人の公有物である。しかも當時人生から游離した不眞面目な文學だといふ誹を受けたその文學こそ、今となつては最も人生に切實な、否作者の個性、境遇、理想、一言にいへば作者の生命と體驗とから生れ出でた、最も剴切にして深刻なる作物であつたことは否定せられない。この一事は、恐らく彼の文章や技巧の面白さと共に、彼の文學的生命を長からしめた重大な原因であるが、この書は這般の消息を語つて實に親切周密を極めてゐる。

 併し漱石の一生は單なる文學者たるに止まらず、實に近代日本に於ける著大な文化史的存在であつた。素質において教養に於いて深く日本人、東洋人たる彼は、彼の身體と精神とを提げて西洋の文學と文化とに肉薄し、それを本當に自分自身の個性的なものとすると共に、それを天理と自然とに放つことによつて普遍的たらしめようとした。彼は日本人の取るべき文化の本筋を、躬らごまかさず、街はず、心底からうなづけるやうに進まうとした點に於いて、實に模範的な日本精神であつた。

 時代の調子に浮び出でた俗物どもも、この書について眞の日本精神を學ぶがいい。世に漱石門下と呼ばれる者は十指にあまるであらう。しかし小宮は漱石の眞の弟子の一人であると共に、特に漱石傳の著者としては外にかけがへのない存在である。彼の漱石に對する愛は、漱石の生命に分け入ることをもつて卽ち彼自身の生命を啓く所の業となさしめた。彼は事苟も漱石に關すればこれを掌に指し得るに拘らず、凡そ搜すべき資料、質ぬべき人間にして、彼の探求に漏れたものはなく、その筆を取つたのは一年有餘であつても、その準備は更に二十餘年の昔に遡つてゐる。漱石を溺愛し崇拜した末、一時漱石から離れるやうな氣持をも經驗した彼は、漱石の歿齡よりも五年を長じた今こそ、眞の意味に於いて漱石を解し、愛し、漱石を傳うる資格を得た。一篇の『夏目漱石』は彼にとつて一つの懺悔錄でもあるが、そこに感傷を脫し、自己を喰み出させず、よく漱石を凝視する餘裕を示し得たのは、吉卜家に爭はれぬ年の功でもあらう。(四六版八八四頁、定價二圓五十錢、岩波書店發行)

[出典]『巷塵抄』安倍能成 著小山書店 1943年


[付記]小宮も愛されキャラだな

 こんな安倍能成の文章を読んでいると小宮豊隆も随分愛されキャラだな、と思う。まあ、それはそれとして安倍能成にもなかなかするどいところがあって、私が面白いと思ったのは「この偶然を取つて自家の必然と化する意識的方面と共に、無意識的な無技巧な無造作な方面があつたことが分る。これは、彼の自我が一面に於いて期せずしてよくそのエレメントに居り、よく自分自身を脫却し得て居たことをも示すものである。」というあたりかな。

 またこれは擦り切れるくらい言われてきたことだが「素質において教養に於いて深く日本人、東洋人たる彼は、彼の身體と精神とを提げて西洋の文學と文化とに肉薄し、それを本當に自分自身の個性的なものとすると共に、それを天理と自然とに放つことによつて普遍的たらしめようとした。」などと改めて言われてみると、漱石を東洋趣味に押し込めようとする谷崎潤一郎の見立てがいかに偏屈なものであるかが知れる。 







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