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凄いぞ東北大学デジタルコレクション 漱石研究者の楽園。

世に知られぬ漱石の珍書簡

 明治の三十年代には、今日とちがつて、入學難などといふことは夢想だにされなかつた。中學を出ると同時に、私達の學籍は、いつか高等學校に移つてゐた。
 高等學校(その頃は高等中學といつてゐた)を出るとちやんと東京の大學へ籍が移されてゐた。入學難のない時代だから、就職難などといふ聲も聞いたことはなかつた。

 何でも私の卒業する間際だつた。佐賀縣小城の中學から、英語の教師を七十五圓で傭ひたいといふことが傳へられたが、ナ、私達十五六人の同級生の間で誰一人見向きもするものはなかつた。當時としては上等の給料であつたに係らそれは就職難のない時代だからといふよりも、人間がまだ、今日ほど食ふといふことに頭を向けてゐなかつた。食ふ事よりも好きな方向に專心する、腐つても東京に殘りたい、東京にさへ殘れば乞食をしてゐてもいゝといふ風な考をもつてゐるものゝ少くなかつた時だつたからだ。

 私もさうした、のんびり屋の一人で、何とかして東京に居殘る計劃をたてゝ、叔父の指圖に從つて、露西亞からの留學軍人に日本語を教へることを豫約されて、卒業後は暫くぼんやりしてゐたが、いつか露人の留學といふことも有耶無耶になつたらしい。(今思ふと日露戰爭はかうした時から旣に萠芽をみせてゐたものかと思はれる)、何もする事がないので、一ケ月ばかりぶらぶらしてゐて、在學當時とはまるで心持が變つて、聊か悲觀しかけてゐた私は、卒業間際に三月ばかり講義をされた夏目先生を訪れた。

 丁度淡路に英語の教師の口があるといふので、安くて不滿ではあつたが、すくに應諸して一年ばかりの豫定で、十月の半頃洲本の中學へ出かけて行つた。その時代の校長こそは、靑嵐永田秀次郞氏であつたのだ。靑年校長靑嵐先生と、私達は每日のやうに、放課後はテニスをしては、のんびりした氣持で暮したものだ。

 ところが一年立つと、靑嵐校長は大分縣の視學官に轉じてしまつた。坊ちやん生活をしてゐた私は、つまらなくなつて、間もなく東京に引あげてしまつた。

 翌春の三十八年のことであつた。私は又しても落つかなくなつて、今度は二三年のつもりで、石川縣の小松中學へ教頭として出かけてしまつた。私は其處に半年ばかり居て、又しても七尾の中學の紛糾を整理すべく轉任を命ぜられたのであつたが、丁度小松にゐた春の一日の事である。畫休みの教員室で、私が何氣なく金澤市發行の北國新聞を見てゐると、小說の挿繪に、相當年輩の男が美人の手を握つてゐる圖がある。滅多に小說の挿繪などを見たこともなければ、新聞小說などに目を引かれたことのない私が、その時ばかりは驚いて聲をあげたのであつた。「よう似てるなあ」私の頓狂じみた聲をきくと、同僚達は不思議想に私の方に眸を向けた。

「何てよく似てるだらうー」かういつて私が笑つてゐるのを見ると、人々も貰ひ笑をしながら「何が何に似てるんです」、「先生どうしたといふんです」などといひつゝ近づく。私は鋏を以て新聞を切り拔きながら、美人の手を握つてゐる主人公侯爵が、夏目漱石先生そつくりであることを說明した。

 同僚達は私の手から、挿繪をとつては、主人公の侯爵を凝視するのであつた。暫くすると、私はペンを走らせてゐた。「先生、お變りございませんか、先生、この新聞の挿繪は何とまあ先生に似てゐることでせう、さうは思召しませぬか、お懐しいやうな、羨ましいやうな氣がして、お笑ひ草までにお送りします」私はこんなことを書いて、挿繪の切拔を封入して、その頃まだ、本郷千駄木の郁文館中學の隣に住んでゐられた漱石先生宛の手紙に封をした。

 こんな巫戯けた、ずうずうしいことを書いたとて、まさか怒られるやうな先生ではない、皮肉な微笑をうかべながら、何とか返事を書かれるにちがいない、どんな返事をせられるだらう、ひよつとすると、先生の性格がすつかり見えるやうな手紙でも下さるにちがいない。こんなことを想像しながら私は校門前のポストに手紙を投入した。

 數日の後には、想像の如く先生直筆の手紙が學校它に屆いた、次がその全文で句讀もそのまゝである、封書の表書には「石川縣加賀小松中學、若月保治樣。」裏には「東京本郷千駄木町五七、夏目金之助」。日附は五月二十三日とある。「あの新聞の繪は僕に似てゐますか。僕もなかなか好男子だと思ふ。繪ばかり似ないで實際の侯爵になつて、あんな美人の手を握つて見たい。其時は第一に大學を辭職して千駄木で豚狩をして遊びます。(明治三十八年)五月二十三日夏目金之助若月兄

 私は非常な興味と喜とを以て、先生のこの手紙を拜見した。怒られるどころか、大學教授を立ちどころにやめてしまつて、千駄木で豚狩をして遊ばれるといふのである。豚狩と先生との關係は私には解しがたい處があるが、「猫」や「坊つちやん」で有名になられた先生が、間もなく大學教授をやめられたのは事實である。

 美人の手を握ることもなく、まさか侯爵にもなられなかつたが、大學教授の地位を放りなげて、朝日新聞の一員として小說に專心される事となつたのは、それから遠からぬことであつたやうに思ふ。漱石先生のこの手紙に、先生の酒脫な性格の一面がまざまざと見られるのは、何人にも理解される所であらうが、私が久しく文壇的にも、社會的にも影のやうな生活をして來たが爲に、先生のこの手紙が漱石全集にも載つてゐないのは惜しいといつて、人々は私に告げるのであるが、私としては今更何とも仕方なく、玆に私の應接間を飾つてゐる先生の手紙を、改めて、公表して漱石先生敬慕の人士に告げたいと思ふ。

 序に私が七尾に轉任した後、大火に逢つた時に、先生から頂いた今一つの手紙にも、輕い先生らしい味が認められるのであるが、それに比べると、前のは漱石先生一代の書簡中でも最も面白いものではなからうか。

以上、若月保治 著『心の旅 : 俳諧紀行』新月社 1944年より

 国立国会図書館次世代デジタルライブラリー内を「千駄木で豚狩」で検索したところ、若月保治 著『心の旅 : 俳諧紀行』しか引っかからないが、これはもう新しい全集には収録済みで、

 このように東北大学の「漱石文庫」で検索することができる。

 自筆の画像データも直接見ることができる。

 いや、探すところが多くて疲れるな。






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