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中村武羅夫『文壇随筆』風呂で小便疑惑。漱石の髭は跳ねていたか?

 夏目漱石は、家が近所だつたので、一月に一度や、二月に一度は、用事以外でも遊びに行つな木曜日が面會日だつたので、大抵その日の午後出かけて、夕方ごろまで、いろんな話しをした。門下の人々は、みんな夜集まるので、私は、漱石の客間で、門下の人々に會つたことは一度もないが、その他の人々には、ちよいちよい面をあはした。中村是公氏や、三宅やす子氏や、その當時の文部次官をしてゐた、福原何とかいふ人達を、最初に見たのは、漱石の客間であつた。

 人に會つても、敬愛の感じを以て、心から頭を下げるやうな人物といふものは、そんなに多くはない。多くはないどころか、殆どないといつていゝ。殊に私なんか、性質が偏屈なせゐか、相手の美點よりも、缺點ばかりが目に附いてこまるが、漱石だけには、心から頭が下がる氣がした。あゝいふのは、人間の德とでもいふのであらう。極く、平々凡々に見えながら、それで、どこか底光りがしてゐるのである。

 人物の品位― 奥深さといふやうなものは、客間などで相對してゐる時よりも、たとへば集會の席などのやうな、大勢集まつた中に置いて見ると、一押、はつきりと分かるものだ。

 鈴木三重吉氏の夫人の告別式が、銀座教會にあつた時、私も參列した。ちよつとつむじ曲りの三重吉氏のことであるから、普通の告別式とは大分毛色の變つたもので、牧師なんかまねかず、小宮豐隆氏が司會者になつて、安倍能成氏が、聖書の朗讀をしたりなんかして、燒香の代はりに、會葬者全部が、かはるがわる立つて、一輪づつの白百合の花を、黑布で蔽うた寢棺の上に捧げるのであつた。漱石も自席から立つて、やつぱり白百合の花を、夫人の寢棺の上に捧げたのであつたが、私はその時の漱石の紋附羽織袴の姿と表情とを、わすれることが出來ない。

 丈の高い方ではなかつたが、堂々たる風姿が場を壓して、銳い双の眼は鷲の如く、ぴんとはね上がつた口髭の下の屑邊に、何とも形容の出來ない徵苦笑をふくんでゐるのであつた。

もう少し夏目漱石のことを-。

 漱石のその時の微苦笑は、「三重吉の奴、キザな眞似をしやがるな」とでもいふ苦が苦がしさと、それから若くして逝いた三重吉氏の夫人に對する敬虔な哀悼の感じとを、ごつちやにして現したやうなものだつた。少くも私には、漱石のその時の微苦笑が、そんな風な心持ちを現してるやうに感じられたのだつた。それでも漱石は、ゆつくりした、重々しい足どりで、棺前まで進むと、皆ながするとおなじやうに、白百合の花を一枝手にして、黑布で蔽うた棺に向かつて、ちよつと頭を下げた。そしてその時は、彼れの屑邊から微苦笑の影が消え失せて、ひどく嚴肅な、苦がい表情に滿たされてゐた······私の目には、漱石の死後、今でも、時々、その時の漱石の姿と表情とが、髣髴として目に浮ぶのである。

 私が、湯の中で小便して、漱石に顏をあらはせて、大いに漱石をおこらしたといふやうなゴシツプが、つたへられたことがある。が、これはまちがひである。私だつて、まさか自分の小便で、人に顏をあらはせるやうな、そんな人の惡いまねをする筈はない。それは多分、次ぎのやうな話しが、誤傳されたものだと思ふ。

 その當時、漱石の家に、湯殿があつたかどうかを、私は知らない。漱石の家は、やつぱり現在の、早稻田南町だつたが、今のやうな堂々たる邸宅ではなく、確に家賃は四十五圓とかと漱石自身の口から聞いたことがあると思ふが、借家だつた。勿論、湯殿はあつたことだらう。が、直き前の錢湯に、よく出かけて來た。大抵、一番空いた十時ごろから二時ごろまでの間だつた。私も、よくその錢湯に行つたので、時々湯の中で出逢ふことがあつて、「やあ」「やあ」と、裸で挨拶するのであつた。

「先生、湯に入ると、自然に小便が出たくなりませんか?」或時、私が、風呂の中で聞いた。

「湯の中でか?」漱石は、やつぱり湯に浸りながら、斯う反問した。

「さうです。」

「ないね。-君は、そんなことがあるか?」

「ぢや、僕だけですかね。僕は湯に入ると、自然に小便がしたくなるんです。」

「汚ないね。」漱石は口尻をしかめて苦笑したが、急に立ち上がつて、「そんなことをいつて、君は今、したんぢやないか?」と詰問した。

「そんなことがあるもんですか。」と私は笑つた。

「どうだか、怪しいものだ。君が小便したんだと、僕は、君の小便で顏をあらつたことになる。汚ないね。」漱石は、もう一度顏をしかめて、苦笑した。

 そんなことが、私が、自分の小便で、漱石に顏をあらはせたなどゝいふゴシツプに、誤りつたへられたのであらう。お蔭で私は、その後時々、德田秋聲氏と一諸に旅行などして、風呂には入つたり、溫泉に浸つたりする度に、一君、小便をしはしまいね。」などゝ、念を押されるのである。「僕と一諸の時には、そいつだけは、一つ勘辨してくれたまへ。」と秋聲氏は、私をからかふのである。

 一度、漱石をひどく怒らしたことがある。それは私が、彼れの印象を書いて、床の間の置き物のやうな、時代離れのした骨董品の感じだといつたのに、憤慨したのである。「時代離れのした骨董品に、談話をさせて、雜誌に載せてもつまらないだらう。僕は御免被る。」その後、私が談話を求めに行つた時、漱石は斯ういつて謝絕した。「談話筆記は、僕の職業で、僕はそれで生活してるんです。少しばかり先生の惡口を書いて原稿料にしましたが、そのために談話をことわられると、僕は食つていけません。」私は、やりかへした。そして二三の議論を上下した後、漱石の氣持ちは打ちとけて、彼れはやつぱり私のために談話してくれた。

以上。中村武羅夫 著『文壇随筆』新潮社 1925年より。

[付記]

 漱石は昼間に銭湯に行くんだな、と感心したのでメモ。和辻哲郎なら偶然を装って銭湯で待ち伏せしたのではなかろうか。

 それからさらにどうでもいいことながら、ここに出て來る「鈴木三重吉氏の夫人」とは明治44年三重吉29歳の時に結婚した「ふぢ」なる女性だろうか。実は私は三重吉の妻については、大正五年「河上らくとの間に長女すずが生まれ、妻ふぢが亡くなった」というウイキペディアくらいの知識しかないので、ん? と思ってしまう。

 中村武羅夫のその当時、というのは漱石を怒らした事件にかかっており、「鈴木三重吉氏の夫人の告別式が、銀座教會にあつた時」というのはそれ以前という感じがしてしまうのだが、これが大正五年だともう漱石の晩年で、漱石はもうかなりのお爺ちゃんである。

「丈の高い方ではなかつたが、堂々たる風姿が場を壓して、銳い双の眼は鷲の如く、ぴんとはね上がつた口髭の下の屑邊に、何とも形容の出來ない徵苦笑をふくんでゐるのであつた。」とあるが大正五年、果たして漱石の髭はぴんとはね上がっていただろうか? 

 



 






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