谷崎潤一郎から見た漱石文学 そこまで言わなくていいじゃない。反論は後日。
はしがき
私は一體文壇の現狀などと云ふことに比較的不注意の方である。月々私の手もとへは可なり多くの雜誌が寄贈されるけれども、それらに載つて居る創作の一つにでも眼を通すことはめつたにない。讀むとすれば多少の年所を經てから猶生命のある作家や作品を擇んだ方が、その値打ちもよく分り、第一無駄な勞力が省ける。さうして、多少の年所と云ふうちにも成るべくならより古い物やより隔たつた物― 古典や外國の文學の方を餘計に讀む。日本の物だから、現代の物だからと云つて、特にそれらに親しむことは知らず識らず自分の眼を低くさせ、理解を狹くさせ、覺悟を鈍らせ、雄心を銷磨させる結果に陷る。私は批評家ではないのだから其れで差支へはないと信じて居る。
ところで去年あたりから屢々『日本の文學は明治以後どのくらゐ進歩したか』とか、『一體小說とか戯曲とか云ふものは日本にも昔からあることはあつたが、それが文學の中心を占めるやうになつたのは西洋文化の影響を受けた以後の現象で、われわれは結局小說戯曲を以て西洋のに劣らない藝術を作り出せるか」とか、そんな問題を考へさせられる機會が多くその爲めに紅葉露伴以後の作品を、少年の頃に讀んだきりもう二十年近くも顧みなかつた物から始めて、近くは漱石以後の二三の作家に至るまで、別段どれと云ふ順序もなくポツポツ讀んで見るやうにし、暇があれば讀後の感じをノートの端へ書き止めて置くやうにした。
で、それらの感想の中には一度は發表して見たく思つて居たものもあるから、それを引き延ばし又は新たにそれへ附け加へて、今月から時々雜誌『改造」へ寄稿することにした。いつ迄つづけるか、どの範圍までひろげるかは目下のところ未定である。當分は材料がある積りだが、云ひたい事がなくなればいつでも止めようと思つて居る。
主として明治以後の小說と云つても、時にはあらぬ方角へ脫線するかも知れない。作家と云ふよりは寧ろ箇々の作品に就いての批評であるから、同じ作家のものが何度も出て來る代りに、全三然言及しない作家が多いことだらうし、兎に角いろいろになると思ふが、それらに就いては豫め何等の計劃も立てず、極めて自由に云ひたい事だけを云つて見たい。
明治以後の文壇の傑作を數へ立てるのが趣意ではなく、批評に藉りて藝術上の感想を述べるのが趣意であるから。猶又、今後『改造』以外の雜誌へも同じ標題で寄稿するかも知れない、が、それらは皆此れの續きであることを御斷りして置く。その一さて、最初には先づ現代の作家の物を一つ取り上げて見よう。
その一
しかしその前に、話がちよつと横道へそれるけれども、私が去年上述の如き動機を以て第一に讀んだのは漱石氏の『道草』と『明暗』であつた。
そうして「道草』には殆んど終りまで讀み切れないほどに非道く失望し、『明暗』にも― 此の作者の絕筆であり且傑作だと云はれて居る『明暗』にも、可なり失望させられた。
その失望の後で、ふとした機會に古い中央公論を引繰り返したら、里見尊氏の『子ころし』と云ふのが眼に止まつたのでつい讀んでしまつた。ついと云つては甚だ失禮ではあるけれども、私が日頃から敬意を拂つて居る此の作者のものとしては、あれは決して優れた作品とは云へなかつたからである。が、『子ころし』を讀んだのが機緣となつて、その後散歩のついでに同氏の短篇集を見つけて來た。それは新潮社から出た何とか云ふ叢書の中の『恐ろしき結婚』と云ふ小册子である。中には『恐ろしき結婚』『俄あれ』『妻を買ふ經驗』の三つが收められて居た。此の最後のものは、嘗てそれと同時に發表された『失はれた原稿』を讀んだ際に、讀んで見ようと思ひながら讀まずにしまつたので、始めに先づそれを讀んだ。
さうして正直のところ豫期したほどでないと云ふ感じを抱かせられた。次ぎには『恐ろしき結婚』を讀んだ。此れも、今度が始めてではあるが、發表された當時に傑作だと云ふ評判を或る友人から聞いて居たのである。ところで此れは果して傑作かどうかは疑問だと思ふけれども、いろいろな點で私に感激を與ヘ、又作者に對する敬意を新にせしめるものがあつた。
その次ぎに讀んだ『俄あれ』は、意外にも三つのうちで最もすぐれた作品であり、一番短いにも拘らず可愛らしい寶石のやうに渾然とした藝術品であつた。『明暗』を讀んで變に己ままましい氣持ちになつて居た私はあの『俄あれ』のお蔭でやつとセイセイしたことを、作者に感謝せざるを得ない。
けれども私は、こゝで『俄あれ』の批評をしようとは思はない。あれはあの通り立派に出來上つたものであるから、別に云ふところはないのである。凡べてあゝ云ふ風な短篇で渾然としたものは、何處がいゝと云つてちよつと摑まへどころがなく、讀んで味ふより外に批評の方法はないやうな氣がする。それよりも寧ろ『恐ろしき結婚』に就いて種々な感想を述べて見たい。なぜならあれは全體としては『俄あれ』よりも不出來であるが、その出來上つて居ないところに作者の気魄が閃めいて居るから。
それから『恐ろしき結婚』のあとで漱石氏の『明暗』に言及する積りである。或は隨所に此の二つを比較するかも知れない。漱石氏と里見氏との間に類似點がある譯ではないけれども、私としては此の二つを同時に讀んだので、比較もして見たくなるのである。
私が『恐ろしき結婚』を不出來だと云ふ主な理由は、あれを讀んだあとで『此れは拵へ物だ』と感じたことである。勿論拵へ物だから必ず惡いと云ふのではない。中には拵へ物でなければならない小說もあらう、が、要するにあの物語の世界には藝術的必然性が乏しいと云ふのである。思ふに作者はあの物語を書くに方つて、最初に或る概念を作り、一つの目標を立て、さうしてその概念なり目標なりに充て篏めたものを寫實的に書かうとしたに拘らず、書いて居るうちに作者の昂奮が次第に作者を驅り立てて、性急に目標へ屆かせようとした爲めに知らず識らず寫實から空想の世界へ突入してしまつたのではないだらうか?
私は敢て空想と云ふので虚構とは云はない。なぜなら、その空想は作者の心持ちの內では實感があるやうに思へるから。ただ其の現され方が焦燥に過ぎて上すべりがして居るのである。
さうして、此の空想と寫實の世界の繼ぎ目の處に、見逃し難い空隙があるやうに思ふ。作者はその空隙を一と跳びに跳び越えて、いち早く結論に到達してしまつて居る。
私は此の物語に取り扱はれたやうな異常な事件を、全然有り得ない事だとは思はない。たとへ今迄は世の中に無かつた事でも、藝術に依つて其れを有らせることは出來ると思ふ。が、有らせる爲めには、あの作品の空隙を充たす必要がある。あの中の夫婦をあの結論へ落し込むには、あれだけの描寫では內面的にも外面的にも不充分ではないだらうか。
殊に女主人公の粂子なる夫人が、僅か十九か二十の少女でありながら、男性に對して― 夫に對してと云ふよりは、あの筋で見ると抽象的なる『男性』と云ふ觀念に對してである。夫は愛を求めて巳まない男であるに拘らず、『男性』それ自身を代表するものとしてのみ彼女の眼に映ずる、作者は其處に此の悲劇の素因を置いて居る。― あれほど迄に堅く冷めたい憎惡の念を抱き、復讐の意志を持ち續けると云ふ事は、餘程不思議な事件であつて、あゝ云ふ夫人の性格を可能ならせる爲めには、もつともつと深みのある細かな說明がなければならない。
單に彼女が淋しい片田舍へ里子にやられて偏屈に育つた女である事と、男性に虐げられて自殺をした姊の遺書を見た事と、この二つであの不思議を遂げさせるのは無理ではなからうか。たとへ其の遺書の中には、·····或る時には蟹だ。右の手と右の足、左の手と左の足を堅く縛られたら、蟹だ。かう云ふ地獄の繪を知らない處女だけに人生がある。と云ふやうな、僅か一二行を以て十行二十行にも當るほどの力强い文句があつたにもせよ、まだまだ足りなくはないか。男性の憎むべき事を、女性の憐れむべき事を、彼女は理性的には知つたであらう、けれども感情をああ迄凝り固めるには-殊に、あれほど熱情的な夫の愛に反抗してまでもああなるのには、もう少し直接に、さうして具體的に彼女を動かす物があつて欲しい。(しかしさうすると此の小說は此のままでは成り立たないかも知れない。だから此れをリアルな物語として見る時は、根本に矛盾があるのである。それは後段に於いて述べる。)
作者は粂子を描くのに成るべく彼女の心理には立ち入らないで、夫たるA子爵の方から描くやうにして居る。作者は粂子と云ふものを、多少謎のやうに描く事に興味を持つたらしい。さうして謎のやうに描いた爲めに深みが附くと云ふ結果にはならないで、却て人間離れがした。
彼女は前半に置いては生きて居るが、後半― 就中結末に於いては、遠い古の物語中の英雄女と化してしまつて居る。夫の自殺を傍觀する前後の沈着な薄氣味の惡い彼女の態度は、彼處だけではよく現はれて居るが、一步退いて考へて見ると、近代人の纖細な神經を持つ妙齡の女子の行爲としては、何となく突飛で不自然だと云ふ感じを與へられる。『姉·····あれは私の半身でございました。私どもは双兒でございます。きやうだいよりも近いものでございます。片われだけ殘つたわけでございます。-どこに戾るところもございません。』かう云つた時に、ボタボタ、と大きな涙が續けさまに膝の上へ落ちた。―だが、かう云つた時に、彼女が亡くなつた姉と自分の境遇に對してポタボタこぼした涙は、なぜ夫の燃ゆるが如き熱情に對しては、あんなに吝しまれたのであらうか。
生れつき頑な女ではあるが、彼女にも矢張り淚はある。さうして夫の方にはあの通りの愛情がある。それが一年間も同棲して居るとしたら、夫の愛情に從ふべきか、姊の遺志を繼いで『男性』に對する復讐を遂行すべきか、に就いての、煩悶ぐらゐはあつていい筈である。ああ云ふ風に始終氷の如き心を持ち通すことは、餘程人間の性情に遠ざかつて居るやうに思はれる。彼女の性格に不自然なところがあるから、從つて彼女に壓倒されて自殺するA子爵の方も、何となく曖昧になつて居る。尤もあれをあのまま一息に結末まで引張つて來たにしても、彼女の性格の不自然さを幾分か取り消す方法がないでもない。― それは、夫の自殺を冷ややかに傍觀した後、彼女も徐ろに自殺するか、或は發狂するかである。若しあの物語が事實であつたら、あの後で彼女はさうなつて居るに違ひない。然るに作者は故意にか偶然にか後の事實を構圖の外へ切り捨ててしまつた。思ふに作者の考へでは、グーツと彼處まで一と息に來て子爵の自殺と云ふクライマツクスに達したところで、急に打ち切つてしまふ方が、寫實味はなくなつても詩としての効果が强いと思つたからであらう。
作者は謎の女性を何處までも謎にして此の世に留めて置き、それに苦められた子爵の魂だけを、天へ昇らせたかつたのであらう。卽ちリアリテイーを捨ててボエトリーを取つたのである。勿論ボエトリーもなくてはならないが、そのために他の一方が捨てられては、此の物語が持ち得べき價値の一半は失はれてしまふ。一體人間の意志は自由であり、心の働き方はどうにでも變るものだから、心理的不自然は物理的不自然ほどには目立たないやうなものの、その不自然さに於いては同等であつてその不自然さを自然に引き卸すむづかしさも同等である。
普通には有り得ない心理的跳躍を描くには、李太白を魚にするのと同じくらゐ面倒な手數が入る。同時に又、李太白が魚になるのは空想が目立つて居るから、その作品の出來不出來に拘らず人は始めから空想として許して置く。が、此の小說では是非とも空想と實寫との繼ぎ目を渾然とさせて欲しい。さうしなければ少くも『恐ろしき結婚』の恐ろいき印象が稀薄になつてしまふ。
若し此の作者の奔放な空想に加ふるに德田秋聲氏的寫實味と陰鬱味とを以てしたら、とれほど此の作品は光を增したことであらう。『恐ろしき結婚』と云ふ題で内容を豫想して居た私が、讀んで失望した主な理由はここにあるのである。恐ろしかるべき物語でありながら、ちつとも恐ろしくないからである。
が、私は失望しながら、此の作品を透して窺はれる作者の氣禀や態度からは、多大の感激を受けた。『明暗』を讀んだ時のやうな忌ま忌ましい氣持ちには決してならなかつた。
拵へ物だと思つたのは讀んだ後のことで、讀みつつある際は其れを考へる暇もなく終りまで引張つて行かれた。なぜかなら、此の作は概念で捏ね上げられたものではあるけれども、動もすれば其れを忘れさせるやうな、或る火のやうに燃えつつある力が全篇を貫き、紙背に滲透して居るからである。さうして、讀んでしまつてからも、―「此れは不出來な作品だ」さう思ひながらも、― なほ其の力が讀者の胸を打つのを感ずる。作者は作品に於いて失敗しながら、何等かの點で讀者を征服せずに措かない。昔杜子美は『語つて人を驚かさずんば死すとも休まず』と云つた、その気魄が此の作品の隨所に溢れて居る。
私がここに气魄と云つたものは、功名心と云ふ風にも取れさうだけれども、功名心だとすれば非常に高い貴い功名心である。さうしてもつと適切な名を以て呼べば、藝術的熱情である。つまり自分の筆の力で、一個獨自の世界を盛り上げんとする熱情である。
その熱情は、或る作家の場合には水晶の如く凝結して現れることがあり、それも一種の美觀ではあるが、此の作者の作品では多くの場合火のやうに燃え上つて居て、その燃え上る力の强さは、當代に殆んどその比を見ないと云つてもよい。でそれが自然と讀者の方へまで燃え移つて、讀者自身の熱情を鼓舞激勵する。その力は『俄あれ』にも現れて居なくはないが、ああ云ふ渾然と出來上つた整つた物よりも、却て歪みなりに出來た物の方に、露骨にはみ出して居るのを覺える。
私が此の作品に興味を持つたのは其の點であつた。だから、失敗の作ではあるが、それでもなほ此の小說は存在の價値があると云へる。
ただ前にも云つた通り此れは何處までも詩であつて、完全な小說ではない。作者が一方に於いてA子爵の愛に對する悲壯なるアスピレーシヨンを描かんとし、一方に於いて殆んど超人的に冷酷な一女性を描かんとしたのは、--而もそれを寫實的に描かんとしたのは、その盛んな意氣込みに於いて敬服に値ひするとは云へ、此の書き方ではどうしても詩と實際との矛盾が目ざはりである。社會問題人道問題の一つとしての『結婚』若しくは『性の闘爭』を取り扱つた如くであつて、實は全然詩であるからである。やはり何とかして其の矛盾を除いた方がよくはなかつたか。
さうするのには、始めから全然詩で行くのもよし、或はもつとよくするには其の詩に肉を附け血を盛り、眞に生きな人間を作り出すのである。斯くして天上にある詩を地上に引き卸し、讀者を地上より天上に引き上げるのである。それでこそ始めて、此の小說が小說としての効用を完うしたと云へるであらう。私は現代の此の卓越せる作家に對し不遜なる妄評を敢てしたことをくれぐれもお詫びして置いて、さて『明暗』の批評に移らう。
その二
里見氏の二三の短篇を讀んだあとで、さて翻つて漱石氏の『明暗』を見ると、わたしは少からず教へられるところがあるのを覺える。前者の作品にはいろいろ不手際なところや、性急なところや、描寫の不充分なところ、形の歪んだところなどがあり、物に依つて夥しい出來不出來はあるが、しかし上に擧げたそれらの作品などの一行にも、作者の感激の迸つて居ない部分はない。作者が氣を弛めたり、いやいや書いたと思はれるやうな部分は何處にも見出だされない。
精悍な馬は自分の蹄の音に驚いて夢中で驅け出すことがあるものである。若し里見氏の缺點を擧げれば、もつとドツシリと糞落ち着きに落ち着いて欲しいところをも、夢中で驅け去つてしまふ嫌ひのある事だが、それは偶々この作家の精悍無比な氣質の現はれであつて、寧ろ彼が非凡な駿馬であることを證據立てて居るのである。その精悍さが適當に制御されたなら、此の作家の將來は恐るべきものとなるであらう。
ところで『明暗』の方はどうであるか?
あの長篇のどの一行にでも、前者のそれに匹敵するほどの力の籠つた、緊張した部分があるであらうか?
云ふまでもなく彼等の間には年齢の相違もあり、氣質の相違もあるのだから、私は決して前者の精悍を以て後者を律しようとはしない。けれども何等かの形に於いて前者の精悍さに拮抗し得るところの力が― 語を換へて云へば藝術的感激が溢れて居なければ、いかにスケールが大きくつても、構圖が立派であつても、斷じて傑作とは云へない筈である。
例を西洋に求めるまでもなく、試みに紅葉や鏡花の傑れた作品を取つて見れば、到る所に其の力は感ぜられる。ちよいと見ると感激がないやうに思はれる森鴎外氏の作品などにも實は一種の力が白金のやうに堅く冷めたく壓搾されて、カツキリと篏め込まれて居るのである。
否、漱石氏自身のものでも、その初期の作品の或る物の中には、たしかに其れがあつたと云へよう、が、殘念ながら『明暗』には其れがないのである、あつても甚だ稀薄なものに過ぎないのである。
私が斯う云ふと漱石贔屓の人は「そんなことはない、『明暗』にも其れだけの力が立派に出て居る。それがお前には分らないのだ」と云ふかも知れない。さうしたら私は「いやお前こそ分らないのだ」と云ひ返すより外にない。― ここまで來ると結局水掛け論になつてしまふが、藝術の翫賞は先づ何よりも感覺に訴へるものであるから、感覺の銳敏の度合に依つて、人々の味はひ方が違ふのは己むを得ないことである。
一人が此のビフテキはうまいと云ひ、一人がまづいと云つて爭つたところで際限がない。そんなら物のうまいまついは全く主觀的なもので共通な標準はないかと云ふのに、必ずしもさうは云へない。甲の感覺は乙のより鈍いとか銳いとか云ふのは、やはり一定の標準のある證據で、砂糖の甘さや唐辛の辛さは、程度の相違こそあれ誰の舌にも甘さと辛さとを感じさせる。(それをも疑へば疑へるけれども、極端な懷疑家でない限りはそれを信ずる。信じなければわれわれは生きて行かれない道理である。)
ただそれらがいかに甘いか、いかに辛いかの細かい問題になつて來ると、其處に人々の意見の相違が生ずるのだが、一つ物を甲がうまいと云ひ乙がまづいと云ふのは、生れつきにも依るけれども、感覺の熱練の有る無しにも依ることが多さう云いと思ふ。
昔の江戶ツ兒は東京灣の魚と相摸灣の魚とを喰ひ分けることが出來た。さう云ふ人の味覺はつまり銳敏なのであつて、生れながらにそれほど銳敏な人もあり、いろいろの魚を喰ひ馴れて居るうちに自然と會得する場合もあらう。
此れは喰ひ物に限らず、專賣局の役人は世界中に何百種とある煙草の香を嗅ぎ分けて其の產地を中てるとか、音樂家はわれわれには分らない調子の狂ひや音程の相違を聞き分けるとか、凡べてその道に依つてそれぞれのエキスパアトと云はれる人があるものである。さうして餘程の鈍根でない限りは誰でも熱練に依つて或る點までは感覺を銳敏にさせることが出來、今迄まづいと思つて居たものゝうまさが段々と分つて來て、かすかな色あひとか風味とか云ふものを感じ分けられるやうになる。
或るうまさが、なぜわれわれにうまいと感ぜられるか?― それはただ神が知つてゐるばかりで、われわれ自身にば說明し難いことであるが、兎に角われわれの感覺は無限に新しいうまみを發見して行く可能性を具備して居る。人間の精神が常に向し進步して己まないと同じく其の感覺も進步し發達する。旣に進歩があり、發達がある以上は、人に依つて優劣があるのは當然のことで、感覺で判斷するからと云つても全然主觀的な價値しかないとは云はれない。
藝術を翫賞する心の働きは、單純な視覺や味覺に比べればずつと複雜な高級な性質のものであつて、昔からの偉大な藝衞家は皆その道の達人であると云へる。
勿論支那料理は絕對に御免だと云ふ食通があるのと同じく、ある作家にはどうしても理解されない或る作品があり、人に依つて好惡もあることだから、時としは達人同士の間で意見を異にする場合もあらうが、一流の藝術家の感じ方は先づ大體に於いて一致するものとして差支へない。
トルストイが沙翁を罵つたやうな例は極めて稀である。カーライルは「なんぢのバイロンを閉ぢてなんぢのゲエテを繙け」と云つた。しかしゲエテは「予とバイロン卿とあるのみ」と云つた。そこでカーライルよりもゲエテの方がより達人であるとすれば、われわれは一と先づゲエテの批判を信じてバイロンを偉い詩人だとする。
かう云ふ風にして或る點までは標準が保つて行かれないだらうか?
話があまり橫道へ外れたやうだが、此れは大切な問題であるからもう少し書いて見よう。
喰ひ物のうまいまづいとか、衣服の柄の好い惡いとかは、一時的のものであるから其の判斷も容易に決する譯であるが、藝術の價値は永遠であるからさう手輕には行かない。少くとも十年か二十年過ぎてからでなければ決し難い。ほんたうの藝術は、年所を經れば經るほど、多くの人に繰り返し繰り返し讀まれれば讀れるほど、ますます眞實の響きを傳へるので、それが傑れた作品である事が自然と明かになつて行く。
さうして其の時になつて始めて、それが發表された當時の世間の批評が中つて居たか居ないかが分り、それを褒めた人は具眼の士とされ、くさした人は理解がなかつたことになる。「シルレルの手袋はゲェテには篏まらない」と云ふ諺が獨逸にある、それはシルレルよりもゲエテの方が偉大だと云ふ意味であるが、今日になつてこそ其の偉大さがほんたうに分るのである。
ゲエテが沙翁やダンテに比肩し得る最大の藝術家であることは、もはや今日では誰も疑はうとはしない。そこで我れ我れはゲエテを萬世の師表と仰ぎ、此の大先生の云つたことなら間違ひはあるまいと思ひ、自分の意見が大先生の意見と衝突した場合には、自分の方が間違つて居るのぢやないかと云ふ風に反省する。
ボオトレエルの『惡の華』が出た當時、多くの人は毀譽褒貶に迷つたに違ひない、が、彼と同時代の最大の藝術家たるユーゴーは何と云つたか?「ダンテは地獄を見て來た詩人であるが、君は地獄に生れた詩人だ」と、さう云つて彼はボオトレエルを推擧した。― 此の言葉は、今日になつて見ればボオトレエルの境地を眞によくも理解した、動かすべからざる名言であつて、ユーゴーが褒めたと云ふことは、『惡の華』の價値をして九鼎大呂よりも重からしめると同時に、ユーゴーその人の感受性がいかに銳敏であり、博大であるかを證據立てる事實である。
要するに多少の時を置きさへすれば、それがほんたうの藝術であるか、どのくらゐの價値があるかに就いての、一般の意見は定まつて來るものであつて、一面から見れば『時』が公平な批評家ではあるけれども、ユーゴーのやうなその道の達人は『時』を待たないでも物の眞價を洞察することが出來る。
現在の物を現在の人が批評する際に、誰の云ふことが中つて居るか、誰の感覺が勝れて居るか、まるで標準がないやうに見えるけれども、しかし藝術的感覺の敏不敏と云ふことは立派に有り得るのであつて、『時』が立てば自ら其の優劣がハツキリと分つて來る。
だからわれわれは藝術を批評する場合に、(創作でも同じだが、)『時』と云ふものを忘れてはならない。十年二十年の後、百年二百年の後があることを忘れてはならない。輕薄な批評家を爲つた杜子美の詩に楊王廬駱當時體。輕薄爲文晒未休。爾身曹與名倶滅。不廢江河萬古流。と云ふのがある。「なんぢら身と名と倶に滅ぶ。廢せず江河萬古に流るるを。」― かうなつては拙評家もおしまひである。同じく杜子美が李白を憐れみ慰めた詩の中に、『千秋萬歲名。寂寞身後事。』とも云つて居る。『寂寞身後事』と思ふと、淋しいやうな氣もするけれど、苟くも藝術にたづさはる者は、千秋萬歲の名を考へ、身後の事を思はなければなるまい。
批評をするのにも目先のはやりすたりに囚はれずに、眼を四方八方に配つて、時の悠久と云ふことをシツカリと念頭に置いて、ひろく味はひ深く觀るやうにすれば、自然と其人の感覺も銳敏になり、後人に嗤はれないだけの覺悟も出來、信念も湧いて來る。それだけの信念がなくて批評するのは自他を誤まるばかりである。
で、若し私の批評が間違つて居ると云ふ人があれば、私はそれに對して、「孰方の感受性が正しいか後世になれば分る」と答へるまでである。繰り返して云ふが、物のうまいまづいは理窟で說破する譯には行かないものだから、學者の意見だからと云つて必ずしもあてにならない。「ひろく味はひ深く觀る」といふのは、概念的に物を多く識ることではなくて、感受性の鈍くなるのを防ぎ、それを出來るだけ銳敏に研ぎすます意味である。さうして藝術のことは、學者よりも矢張り藝術家の感覺に賴つた方が先づ以つてたしかである。
藝術家は理窟を云ふのは下手だけれども、うまいまづいを中てることは學者より上手である。往年、紅葉と露伴とが並び稱せられた時代に、露伴を以て紅葉と同じ高さに、若しくは其れ以上に持ち上げたものは多く學者側の人々であつた。が、今日になつて見ればどうであるか?
試みに明治二十年代に書かれた『風流佛』や『一口劍』を以つて同じ時代の『夏瘦』や『伽羅枕』に比べて見るがいい。兩者の徑庭はもはや識者を俟たずして明かではないか。學者が露伴氏を褒めたのは、その物語の中にある一種の觀念が氣に入つたからであつて、つまり藝術に感じたのではなく思想に感じたのである。(斷つて置くが、私はあの頃の小說家、としての露伴氏を論じて居るので、露伴氏全體を批評して居るのではない。『爛言長語』や、『幽情記』や、『運命』の作者としての露伴氏は、私も最も敬慕して已まない人である。)『夏痩』や『伽羅枕』の中にはどんな觀念があり、どんな思想があるか、學者に云はせたらあの中には思想らしい思想などは何處にもないかも知れない、が、あれを讀めば理窟なしに無限の感興が津々として盡きないのを覺え、春風駘蕩たる恍惚境へ惹き入れられる。春風駘蕩と云ふ形容詞は、紅葉山人の場合に於いて特に適切な言葉であるが、すぐれた藝術には、たとへ思想問題を取り扱つたものであつても、何等かの形で理窟なしに人を動かす氣力が溢れて居るものである。さうして其の力は、思想の力や論理の力よりももつと强く、もつと直接に人間の胸臆へ或る神韻を傳へる。そこが藝術の有り難いところである。
漱石氏のものでは、前期の作品には、たしかに藝術的感激を以つて書いたと思はれるものが少くない。『猫』や『坊つちやん』などは、暫く讀まないが、今讀んで見てもきつと惡くはないだらうと思ふ。『それから』を讀んだ時は、私は最も漱石氏に傾到した一人であつた。キザだと云はれる『虞美人草』や『草枕』にしても、近頃讀み返して見たが、『明暗』よりは遙かにいゝ。殊に『草枕』は傑作の部に屬すると思ふ。
キザと云ふことは一時の好き嫌ひには關係するけれども、物の眞價には影響しない。多少材幹の秀でた者は動ともすると生意氣に見える如く、傑出した作家は或る時期に於いてキザになりたがるものである。『虞美人草』の如きは邪道に落ちたものかも知れぬが、凡庸作家には陷ることの出來ない邪道であつて、キザはキザでも薄ツぺらな、內容のないキザとは違つて居る。若し漱石氏があのくらゐでキザを止めてしまはずに、もつと思ひ切りキザになつて、傍若無人にその才氣を煥發されたら、後來惡くかたまらずに濟んだかも知れない。
泉鏡花氏の如きはキザの方では隊長であるが、その傑れた作品を見ると、キザだキザだと思ひながら結局征服されてしま5.0彼處まで行けばキザなどはてんで問題にならない。そんならなぜ、傑作でないところの『明暗』を持ち出して、云はずともよい惡口を云ふのであるか?― 私は死んだ夏目先生に對して敬意をこそ表すれ、決して反感を持つては居ない。にも拘らず、『明暗』の惡口を云はずに居られないのは、漱石氏を以て日本に於ける最大作家となし、就中その絕筆たる『明暗』を以て同氏の大傑作であるかの如くに推賞する人が、世間の智識階級の間に甚だ少くないことを發見したがらである。
實は私があれを讀んだのも、漱石氏が亡くなつた當時大塚博士が何かの雜誌で推賞したのを覺えてゐたからである。その外、私の親しい友人のうちにも『明暗』を傑作だと信じて居る者が多いやうに思はれた。それだけ私があれを讀んだ時の失望の度は大きかつた。「こんなものが何處がいいのだ。なぜこんなものを大騒ぎするのだ。」― わたしはさう思はずに居られなかつた。「日本の文學は幼稚ではあるが、しかし明治以後の作家を敷へても歎石氏よりずつと偉い人が少なくとも二三人は居る筈である。決して同氏を許して最大とする譯には行かない。况んや『明暗』以上の作品なら幾らでもある。」さう思つて、少しはムカツ腹を立てたくらゐであつた。
ところがちやうどその折に、生前漱石氏と親しく往來して居た某氏が訪ねて來たので、私は直ちに憤慨の語氣を以て惡口を云つた。すると某氏は漱石氏を辯護するやうな意味で斯う云ふのであつた、「それはさうかも知れない、實は私もあれは餘り傑作ではなからうと思つて未だ讀まずに居る、と云ふ譯は、あれを書く時分に夏目さんはいかにも氣乘りがしないやうな樣子だつた。『明暗』といふ題にして置けば孰方へ轉んでも間違ひはないからねえなどと云つて居たくらゐで、稿を起すまで腹案がハツキリ極まつて居ないらしかつた。新聞に約束があるから仕方なしにやるやうなものの、小說を書くのはイヤでイヤで溜らない、ちつとも早くイヤな仕事を濟ましてしまつて、悠々と詩を作つたり書を書いたりして樂みたい。-それが晩年の夏目さんの僞りのない氣持であつた。夏目さんの藝術の究竟地は小說ではなくて漢詩や書畫の方面にあつたのだ。」― さう云はれて、私は俄かに張り合ひが拔けて、何となく淋しい心地がした。
あれほど西洋文學の造詣の深かつた人でも結局東洋趣味に降參しなければならなかつたのかと思ふと、惡口を云はうとした氣力も失せて、今更の如くその心事に同情を寄せずには居られなかつた。
旣に作者自身がイヤイヤ書いたのだと白狀して居るほどのものを、わざわざ取り上げて追究するのは餘りに心なしの業であるから、私は好んで惡口を云ひたくはないのである。が、また飜つて思ふに、世間の多數の人が、殊に智識階級の人々が、今日でも猶『明暗』を傑作と信じ、ああ云ふものを傑れた小說と考へて居るのだとすると、それが頗る滑稽な事實のやうに感ぜられるので、やはり何か知ら云つて見たいやうな氣もするし、云ふ事が滿更無意義ではないとも考へられる。
『明暗』が一個の通俗小說として讀まれてゐるのなら問題にならないが、高級な藝術品として汎く眞面目に讀まれて居るのだとすれば、それに就いての批評をする事は、多くの人に私の藝術觀を訴へるのに此の上もない機緣となる譯である。
その三
凡そあらゆる藝術に於いて、技巧や形式は抑も末の問題であつて、それらの奧にある精神こそ最も肝要なものたることは云ふ迄もない、が、玆に忘れてならないのは藝術は一つの表現であると云ふ事實である。それが心の中に起り、心の中に終つてしまふのでなく、心の外へ發露する過程に於いて始めて藝術と云ふ形を取る。表現することが卽ち藝術であつて表現を離れて藝術はあり得ない。
だから繪を畫かない畫家、詩を作らない詩人などと云ふ言葉は、形容詞としては受け取れるが實際そんなものがある譯はない。いくら藝術家的素質があつても、それを表現しなければ決して其の人は藝術家ではないのである。正しく視ること、深く感ずること、美に憧れること、想像に豐かなること、-此れ等も藝術家としての要素ではあるが、同時にそれらの結果を何等かの形に於いて生み出さうとする創作慾が伴はなければ藝術家にはなれない。一と口に云へば感ずる力と生み出す力と、此の二つがどうしても必要である。而も此の二つは別々のものではなく實は一つの力であつT、感ずる力が强ければ强いほど其れを生み出さずには居られなくなり、生み出す力が働くほど感じがハツキリと生きて動いて來る。
故に藝術家に於いては、感ずることが生み出すことであらねばならない。生み出すことが感ずることでなければならない。歌はずに居られなくなつて歌ひ、描かずに居られなくなつて描きつつある間に、歌ひ或は描きつつある美の形がだんだん明晰になり、それに對する感激がますます高揚して來るのを覺える、さうして實に其の時こそ、藝術家の魂が永遠の世界に翻翔する瞬間であり、彼の全生命が無限の歡喜に浸される刹那である。生み出すことの歡びを知らないで、どうして藝術家たるの資格があらうぞ!
私はここに繰り返して云ふ― 藝術家は常にその憧れの對象たる美の幻影を腦裡に描いて居るがそれを生み出すところに藝術家の眞の生命があり、生み出す時に始めて、彼はその美をハツキリと感じ、正しく視、完全に自分の物とすることが出來る。生み出す迄はまだ其の美をほんたうに摑んでは居ない。
そこで藝術上の技巧とか形式とか文體とか云ふものは、美が生れると同時に當然備はるべき肉體であり、皮膚であり、骨格であつて、抑も末の問題であるとは云ふものの、それらがなければ美が存在しないことも事實である。
技巧と云ふ言葉は屢々美を表現する方法であるかの如くに見做されるが、方法ではなくて寧ろ表現その物― 美それ自身である。恰も皮膚や骨格が人間を作り出す方法ではなくて人間それ自身であると同樣である。卽ち或る形式を考へ、或る技巧を用ゐ、或る文體を練ると云ふこと其れ自身が直ちに美を生み出すことになると云へる。此れを逆にして云へば生み出すことが直ちに形式を考へることであり、技巧を用ゐることであり、文體を練ることであつて、生み出されべき何物かはそれらの技巧や形式に卽して存在するのである。勿論生み出すべき何物をも持たないで徒らに技巧の末に苦心するとは無駄であるが、ほんたうの意味での技巧と云ふものは、靈魂を離れて人間が有り得ない如く、精神なしに有り得るものではない。
技巧や形式のある所には必ず何等かのエスブリがあり、生み出すことの歡びがそれらのあらゆる部分に滲透してゐなければならない。然らずんばその技巧や形式は死物であり贋物である。技巧のうまいまづいや、組みたての上手下手や、文章の巧拙は、多く其の人の理智に依るもので、藝術家でも技巧のまづい人があり、藝術家でなくても組み立てのうまい人や、名文家があると云ふ風に思はれて居る場合が多いが、それは少くとも藝術の範圍に於いては間違つた考へである。
藝術上の技巧、藝術上の組み立て、藝術上の文體なるものは、必ず藝術的感激それ自身が迸り出たものであつて、冷めたい理智から編み出されるものではない。
藝術は事實の記錄ではなく美を創造するのであるから、其處に生み出された美は一個の生物で-一個の有機體でなければならず、旣に生物である以上それはそれ自身に於いて統一された完全なものであり、部分は全體を含み全體は部分を含まねばならない。部分が成り立つと同時に全體が成り立ち、全體が成り立つと同時に部分が成り立つ。たとへば色と光の如きもので、その本質はもともと一つである。この故に眞の藝術品に於いては、一點一劃の間にも作家の全生命が宿つて居ない筈はなく、旣に全生命が宿つて居るとすれば、その技巧なり文體なり組み立てなりは、たとへ一見して拙劣のやうに見え不均整のやうに見えても、その作家が現はすところの個有の美に取つては完全なものであり、その美が生きて行く爲めにはさうでなければならない筈のものである。
だから『技巧はうまいが內容は乏しい』などと云ふ事實は有り得ないのであつて、內容が乏しければいくら技巧がうまさうに見えても實は拙劣なのである。
技巧や形式は抑も末の問題だといふのは、實に此の意味に於いてのみ眞理である。上述の如き譯であるから、私が或る作物を批評する場合に、技巧や組み立てを論じて居る時でも實は精神を論じて居るのであり、精神を論じて居る時でも實は技巧や組み立てを論じて居るのだと云ふことを、讀者は暫くも油斷なく念頭に置いて頂きたい。
嚴格に云ふと藝術品の如き生物の機能を部分々々に分けて見て何處がいいの何處が惡いのと指摘することは不可能であつて、惡ければ全體が惡くよければ全體がよいと云ふより外はないのだが、便宜上已むを得ず解剖して見るのである。
で、私が假りに『明暗』を惡いと云つたとして、「何處が惡い」と突つ込まれた時に正直な答をすれば、「何處が惡いと云ふ譯に行かない、全體が惡いのだ」と云はなければならない。それ以上精しく說明すると、どうしてもその說明はうそのものになる。それは言葉と云ふものが或る固定した概念をしか現はすことの出來ない不完全な代物だからである。私はその不完全を承知の上で敢て拙評して見るのであるが、どうか文字にのみ囚はれずに、文字の蔭にある機徵を理解して貰ひたいと思ふ。
さて、私に云はせると『明暗』はその組み立てがうその組み立てであつて、其處にはただ作者の巧慧なる理智の働きがあるのみである。しかし作者は頭腦の明断な學者であるから、その理智に依つて編み出された組み立ては、頗る整然たるものであつてもいいやうに思はれるが、その實『明暗』の組み立てたるや恰も息切れのする老人の步調のやうに、よろよろした、力のない、見るも氣の毒なものである。分量から云へば可なりの長篇であり、中に出て來る人物も多いに拘らず、作者は明かに此の複雜なる建築材料を持ち扱つて、到るところでてこ擦つて居る。
此の事實はいかに明晰な理論の持ち主であらうとも、作者に藝術的感激がない時には、決してほんたうの組み立てを編み出すことが出來ないと云ふことを適切に證據立てて居るやうに思へる。凡そ完全なる組み立てと云へば、一部分の絲を引けばそれが全體へさし響くやうな、脈絡あり照應あるものでなければならない。一局部を壞せば全體が壞れてしまふほど密接な關係で、部分々々がシツカリ抱き合つて居なければならない。組み立てと云ふと、或る靜的狀態-或る形を想像するが、形よりは寧ろ力である、緊張し切つた力の持ち合ひである。然るに『明暗』の組み立てはどうであるか?
何處にそれほどの力があるか? あの中の部分々々は、其の一つを削り去つたら全體に影響するほど充分に絡み合つて居るか? 徒らに幹を太くし、枝を繁くし、葉を多くしても、全身に行きわたる生命がなかつたら、それは畢竟枯木であるか造り物である。『明暗』の作者は、物語の筋を進めて行くのに滑稽なほど論理的であつて、その爲めにちよいと見ると組み立てが整然として居るやうに感ぜられるけれども、實はその論理が却て筋を不自然にさせ、凡べてを造り物にさせてしまつて居る。あの中に出て來るいろいろの眩しい事件にしても人物にしても、凡べてがトゲトゲしく堅苦しい理智に依つて進行して居て、而もその事件や人物が一向生き生きとした感銘を與へない。
それは作者が眞の人生、眞の人間を見ず、理智以外の何物をも持つて居ず感じて居ないからである。たとへば主人公の津田と云ふ男の性格はどうであるかと云ふに、極めて贅澤な閑つぶしの煩悶家であるに過ぎない。作者は第二囘の末節に於いて豫め物語の伏線を置き、津田をして下のやうなことを獨語させてゐる。―『何うして彼の女は彼所へ嫁に行つたのだらう。それは自分で行かうと思つたから行つたに違ひない。然し何うしても彼所へ嫁に行く吾ではなかつたのに。さうして此己は又何うして彼の女と結婚したのだらう。それも己が貰はうと思つたからこそ結婚が成立したに違ひない。然し己は未だ甞て彼の女を貰はうとは思つてゐなかつたのに。偶然?ポアンカレーの所謂複雜の極致? 何だか解らない』
彼は電車を降りて考へながら宅の方へ步いて行つた。此れが津田の煩悶であつて、事件は此れを樞軸にして廻轉し、展開して行くかのやうに見える。が、作者は此の伏線の種を容易に明かさないで、ところどころに思はせ振りな第二第三の伏線を匂はせながら、津田にいろいろの道草を喰はせて居る。若しあの物語の組み立ての中に何等か技巧らしいものがあるとすれば、此れ等の伏線に依つて讀者の興味を最後まで繋いで行かうとする點にあるのだが、その手際は決して上手なものとは云へない。
讀者は第一の伏線に依つて、津田が現在の妻に滿足して居ない事と、彼には嘗て他に戀人があつた事とを暗示される。さうして其處から何等かの葛藤が生ずるのであらうと豫期する。ところが津田はそれとは關係のない入院の手續きだの、金の工面だのにくよくよして、吉川夫人を訪問したり、妻の延子と相談したりしてぐずぐずして居る。と、第十囘に於いて、突如として吉川夫人の口から第二の伏線が現はれる。『嘘だと思ふなら、歸つて貴方の奧さんに訊いて御覽遊ばせ。お延さんも屹度私と同意見だから。お延さんばかりぢやないわ、まだ外にもう一人ある筈よ、屹度』津田の頭が急に堅くなつた。唇の肉が少し動いた。彼は眼を自分の膝の上に落したぎり何も答へなかつた。『解つたでせう、誰だか』細君は彼の顏を覗き込むやうにして訊いた。彼は固より其誰であるかを承知して居た。
此の第二の伏線は、津田が吉川夫人に暇乞ひをして自宅へ歸る途中に於いて、再び彼の頭の中で繰り返される。― 彼は步きながら先刻彼女と取り換はせた會話を、ほつりぽつり思ひ出した。さうして其或部分に來ると恰も炒豆を口に入れた人のやうに、咀嚼しつつ味はつた。『あの細君はことによると、まだあの事件に就いて、己に何か話をする氣かも知れない。其話を己は聞きたくないのだ。然し又非常に聞きたいのだ』彼は此の矛盾した兩面を自分の胸の中で自分に公言した時、忽ちわが弱點を曝露した人のやうに暗い路の上で赤面した。
が、此の先へ來ると又も金の工面だの病院の光景だの、それに關聯した岡本だの藤井だの堀だの吉川だのと云ふ家族の人々や一種不思議な小林と云ふ人物だのが飛び出して來て場面はますます賑やかになるが、所謂あの事件なるものは當分の間何處かへはぐらかされてしまつて居る。けれどもはぐらかされたが爲めに讀者の好奇心は愈々募るかと云ふに、さう註文通りには行かない。
なぜなら、その金の工面を中心にして開展するところの光景や人物が餘りにくだくだしく下らないからである。津田にしても、延子にしても、津田の妹の秀子にしても、僅かばかりの金の調達や遣り取りをするのに、恐ろしく面倒な議論を戰はしたり、技巧を弄したり、智慧くらべをしたりする。出て來る人間も出て來る人間も物を云ふのに一々相手の顏色を判じたり、自他の心理を解剖したり、妙に細かく神經を働かせたりして、徹頭徹尾理智に依つて動いて行く。
其時津田はそれ迄にまだ見出し得なかつたお秀の變化に氣が附いた。今迄の彼女は彼を通じて常に鋒先をお延に向けてゐた。兄を攻撃するのも嘘ではなかつたが、矢面に立つ彼を餘所にしても、背後に控へてゐる嫂丈は是非射留めなければならないと云ふのが、彼女の眞劍であつた。それが何時の間にか變つて來た。彼女は勝手に主客の位置を改めた。さうして一直線に兄の方へ向いて進んで來た。
此れはお秀が金を懷ろにして病院へ兄を見舞ひに來た折の一節であるが、一例を擧げると先づこんな風である。彼女は結局その金を兄に貸してやうと思ひながら而も容易にそれを出さない、津田も金が欲しいくせに中々それを受け取らうとしない、さうしてお互ひに腹の中を搜りつこして居る。勿論其處には金の問題に纒綿して、津田と兩親との仲違ひと云ふ事實があり、お秀はそれに就いて兄に忠告をしに來たのでもあらうけれども、その忠告を云ひ出す前後にさまざまの小うるさい懸け引きがあつて、肝心の忠告が出て來る迄には非常に入り組んだ手數がかかる。
一體お秀と云ふ女は、忠告するのが目的なのか兄貴をやり込めるのが目的なのか分らないほど無闇矢鱈に理窟を云ふ。彼女は金の問題や兄の親不孝を痛切に心配して居るのでなく、ただ議論の爲めに議論して居るのだとしか思はれない。
『解りました』お秀は銳い聲で斯う云ひ放つた。然し彼女の改つた切口上は外面上何の變化も津田の上に持ち來さなかつた。彼はもう彼女の挑戰に應ずる氣色を見せなかつた。『解りましたよ、兄さん』お秀は津田の肩を搖ぶるやうな具合に、再び前の言葉を繰り返した。津田は仕方なしに口を開いた。『何が』『何故嫂さんに對して兄さんがそんなに氣を置いて居らつしやるかと云ふ意味がです」津田の頭に一種の好奇心が起つた。「云つて御覽」「云ふ必要はないです。ただ私に其意味が解つたと云ふ事丈を承知して頂けば澤山なんです』『そんならわざわざ斷る必要はないよ。默つて獨りで解つたと思つてゐるが可い』『いいえ可くないんです。兄さんは私を妹と見做してゐらつしやらない。お文さんやお母さんに關係する事でなければ、私には兄さんの前で何にもいふ權利はないものとしてゐらつしやる。だから私も云ひません。然し云はなくつても、眼はちやんと附いてゐます。知らないで云はないと思つてお出でだと間違ひますから、一寸お斷り致したのです』
讀者はこれを讀んで、女書生が揚げ足の取りつこをして居るんだと早合點してはならない此れが作者に從へば「器量望みで貰はれた丈あつて、一つ年下のお延に比べて見ても」若く美しかつたところの、さうして一面には又お延よりも心が世帶染みて居て、四歲の子持ちであるところのお秀の口吻なのである。
― 然し二人はもう因果づけられてゐた。何うしても或物を或所迄、會話の手段で、互の胸から敲き出さなければ承知が出來なかつた。ことに津田には目前の必要があつた、當座に迫る金の工面、彼は今其財源を自分の前に控へてゐた。さうして一度取り逃せば、それは永久彼の手に戾つて來さうもなかつた。勢ひ彼は其點だけでもお秀に對する弱者の形勢に陷つてゐた。彼は失はれた話頭を、何んな風にしてして取り返したものだらうと考へた。話は容易く二人の間に復活する事が出來た。然しそれは單に兄妹らしい話に過ぎなかつた。さうして單に兄妹らしい話は此場合彼等に取つて些つとも腹の足にならなかつた。彼等はもつと相手の胸の中へ潜り込まうとして機會を待つた。
然し、彼等は斯くの如く口を利く度びに機會を待つたり、形勢を窺つたりして、互ひに弱者になるまいとして苦心してゐる、まどろつこしいこと夥しい。
『兄さん、あたし此所に持つてゐますよ』『何を』『兄さんの入用なものを』『左右かい』津田は殆んど取り合はなかつた。其冷淡さは正に彼の自尊心に比例してゐた。彼は精神的にも形式的にも此妹に頭を下げたくなかつた。然し金は取りたかつた。お秀はまた金はどうでも可かつた。然し兄に頭を下げさせたかつた。勢ひ兄の欲しがる金を餌にして、自分の目的を達しなければならなかつた。結果は何うしても兄を焦らす事に歸着した。
こんなに手數がかかつて焦れるのは兄ばかりでなく、讀者も亦焦れざるを得ない。津田と云ひ秀子と云ひ、全く入らざる事に智慧を使つたり技巧を弄したりして居る。さうして作者は、かう云ふ會話なり人物なりのいきさつを御鄭寧に描くことを以て、何か高尙な意義のある事とでも思つて居るらしい。思つて居ない迄もさう見せかけて居るらしい。
それが私には溜らなく不愉快に感ぜられる。
その四
上述の如く、『明暗』に出て來る人物は、主人公を始めとして凡べての男女が悉く議論ばかりして居る。甚しきは溫泉宿の女中や一と云ふ少年までが論理的な物の云ひ方をする。就中最も振つてゐるのは小林と云ふ一種不思議な人間である。津田を圍繞する下らない事件の葛藤がごたごたといよいよ下らなく面倒臭く展開して行く間に、此の男は時々ヒヨイと飛び出して來て、上流社會を呪ふやうな議論を盛んに吹ツかけて氣焰を擧げたり、津田を困らせたりするのであるが、その議論が又ひどく上すべりのした騒々しいもので、さながら大道藝人の口上の如く、徒らに雄辯であつて一向切實な力がない。思ふに作者は、小林と云ふ人間を以て、一と頃の正宗白鳥氏などが好んで描いたやうな性格、逆境に沈淪して始終世の中を皮肉に見てゐるやうな、悧巧で、橫着で、その癖何處かに弱い所のある、ニヒリステイツクな性格を髣髴させたつもりなのであらう、たしかにさう云ふ人間も世の中に居るには違ひないし、それをほんたうに描くことが出來れば、それだけでも此の小說は立派なものになるのだけれども、惜しい哉作者の描いた小林は單に理論の傀儡であつて生きた人間になつて居ない。
ああ云ふ性格には、憐れむべき半面と、憎むべき半面とがなければならない筈であるのに、それが少しも現はれて居ない。年中齷齪と生活に追はれてゐる筈でありながら、格別の用もないのにヒヨイヒヨイと津田の眼の前へ飛び出して來て、フアウストに附き纒ふメフイストフエレスの如くに一流の人生哲學を滔々と述べ立てる。
あれで見ると小林と云ふ男は恐ろしいおしやべり好きの閑人であるとしか思はれない。此れは畢竟、作者がああ云ふ性格に深い同情と理解とを持つてゐない結果であつて、作者の意圖は、だだ一時の賑やかしにああ云ふ人物を事件の中へ點綴したに過ぎないのであらう。
巧獪なる作者は、それでもさすがに氣がさしたと見えて、あの人物を成るべく人間らしく見せる爲めに、酒を飮んではボロポロと涙を出させてゐるが、それが又いかにも取つて附けたやうで、裏の見え透く淺はかな技巧に墮してしまつてゐる。
偉大なる作家のうちには、僅かに一行か二行の文字を以て、一箇の性格を躍如たらしめる手腕あるものが少くないのに、此の作者は小林にあれほどの饒舌を弄させながら、遂に何物をも描き得ないでしまつたのである。
性格措寫に於ける漱石氏の手腕は、此の一事を以てしても思ひの外貧弱だと云はざるを得ない。最も閑人らしくない小林からして旣に斯くの如くであるから、忙しい中に一々彼の相手になつて居る津田と云ふ人間の呑氣さ加減は云ふまでもない。一體漱石氏には何となく思はせ振りな貴族趣味があつて、『明暗』中の人物も小林を除く外は大概お上品な、愚にも付かない事に意地を張つたり、知慧を弄したりする、煮え切らない歯切れの惡い人たちばかりである。
私に云はせればあの物語中の出來事は、悉くヒマな人間の餘計なオセツカイと馬鹿々々しい遠慮の爲めに葛藤が起つてゐるのである。たとへば津田は、どう云ふ譯からか知らぬが、結婚しようとも思つてゐなかつたお延と結婚してしまひながら、いつ迄も以前の戀人の清子のことを考へてゐる。そこへ吉川夫人と云ふ頗る世話好きの貴婦人型の女が出て來て、津田の未練を晴らさせる爲めと稱して、延子には知らせずに、彼を清子に會はせようとする。
『私の判斷を云ひませうか。延子さんはああ云ふ恰悧な方だから、もう屹度感づいてゐるに違ひないと思ふのよ。何みんな判る筈もないし、又みんな判つちや此方が困るんです。判つたやうで又判らないやうなのが、丁度持つて來いと云ふ一番結構な頃合なんですからね。そこで私の鑑定から云ふと、今の延子さんは、都合よく私のお読へ通りの所にゐらつしやるに違ひないのよ』吉川夫人はそんな事を云つて、『でなければあゝ虚勢を張る譯がありませんもの』などと頻りに自分の悧巧ぶりを發揮する。『男らしくするとは?何うすれば男らしくなれるんですか』『貴方の未練を晴す丈でさあね。分り切つてるぢやありませんか』『何うして』『全體何うしたら晴されると思つてるんです、貴方は』『そりや私には解りません』夫人は急に勢ひ込んだ。『貴方は馬鹿ね。その位の事が分らないで何うするんです。會つて訊く丈ぢやありませんか』『だから私が今日わざわざ此所へ來たんぢやありませんか』と夫人が云つた時、津田は思はず彼女の顏を見た。
『明暗』の讀者は、此の場合をよく考へて見るがいゝ。此の婦人は立派な社會的地位のある、思慮に富み分別に富んだ相當の年配の女である。それがどんな事情があるにもせよ、旣に他人の妻君になつてゐる清子の所へ、そつと津田を會はせにやらうとする事は、而も津田の妻たる延子に內證で、いろいろの手段を弄したりしてまで、そんな眞似をさせようとする事は、餘りに亂黍な處置ではあるまいか。
彼女はまるで若い書生ツぽのやうに他人の心理解剖に興味を持ち、一時の氣まぐれからハタの迷惑も考へずに、餘計なオセツカイをしに來たとしか受け取れない。然るに、彼女と同樣に思慮に富んでゐるらしい津田が、又ノコノコと彼女の云ふなり次第になつて、お延の前を云ひ繕つて、清子に會ひに行くのである。彼はなぜ、吉川夫人などと云ふイヤに悧巧振つた下らない女を、尊敬したり相手にしたりしてゐるのか。それほど未練があつたとしたら、なぜ始めから自分獨りで、お延になり清子になり正直に淡白にぶつからぬか。さうすれば問題はもつと簡單に解決すべきではないか。
斯くの如きまどろつごしさは、それが彼等の性格から來る必然の徑路と云ふよりも、ただ徒らに事端をこんからかして話を長く引つ張らうとする作者の都合から、得手勝手に組合はされたものとしか思はれないのである。
私は必ずしも貴族趣味を惡いとは云はない。津田のやうなハムレツト型の人物も、それをほんたうに描き出せば、その優柔な性格に基因する苦悶と懊惱とが、もつと痛切に現はれていゝ筈である。そこ迄行かなければ、此の小說の目的は恐らく達せられないのである。
ただ此れだけでは、津田は全くしないでもいゝ心配をし、喰はないでもいゝ道草を喰ひ、極めて微溫的な煩問を抱いてブラブラ遊んでゐるお坊つちやんに過ぎない。
此れは私の臆側であるが、津田の性格は思ふに漱石氏自身をモデルにしたのではないだらうか。若しさうだとしたら作者はなぜもつと深く、その銳い理智を以て津田の胸臆を赤裸々に解剖しないのであるか。なぜあんな上ツ面なところでお茶を濁してしまつたのであるか。津田が煮え切らない如く、作者の態度も甚だ煮え切らないやうな氣がする。
あの小說の根本の缺陷は、實にその態度のアヤフヤな所から來てゐるのである。津田の心の中へ這入つて見れば、上べはいかにも上品のやうに見え、優長なやうに見へても、その實せつぱ詰まつた苦しさもあれば、可なりの熱情もあり、醜惡な方面もありさうに思はれるのに、作者は妙に取り濟まして、體裁のいゝ表面の部分だけを、空々しく書き流してゐるのである。
小林が津田に向つて投げてゐる嘲弄の言葉は、恐らくは作者自身が小林の口を借りて自己を批難してゐるのであらう。作者が小林と云ふ一箇の傀儡を捻出して來た一つの理由は、それに依つて不鮮明な津田の性格を、纔かに側面からでも補足せんが爲めであつたのであらう。作者にトルストイやストリンドベルヒの如き、寸毫も假借する所なき自己解剖の勇氣がなかつた事は、卽ち此の小說をして氣の拔けたビールの如くにさせてしまつた所以である。
だが、飜つて考へるのに、漱石氏に斯くの如き自己解剖を要求することは抑も無理な注文かも知れない。なぜなら、前にも云つたやうに、氏は飽く迄も東洋藝術の精神に傾倒する詩人であつて、新しい意味に於ける近代の小說家ではないのであるから。
小說に於ける氏の傑作が『草枕』であり、『門』であることは、氏の藝術上の本領が何處にあるかを語るに足る何よりの憑據であると思ふ。此の二つの作品は、小說にするよりは寧ろ漢詩や俳句を以てした方が適當ではなかつたかと思はれるほど、それほど東洋的な低徊趣味に終始してゐるものであつて、進んで、新しい美を築き上げようとするよりは、退いて舊い美の中に浸り込まうとするかのやうに感ぜられる。東洋主義の藝術と、西洋主義のそれと、いづれが優つてゐるかは自ら別問題であるが、作者の傾向が前者に屬してゐる以上、「明暗」のやうな小說の不成功に終つたことは當然であつて、私は決してその爲めに漱石氏の藝術家としての全價値を、否定し去らうとするのではない。
要するに『明暗』その物が、勝れた作品でないことを明かにすれば足りるのである。今日では『明暗』が發表された當時とは大分時勢の風潮を異にしてゐる。從つて、「明暗」本の中に現はれる津田や、お延や、吉川夫人や、岡田一家の人々や、あゝ云ふ連中の勿體振つた生活の仕方、― 何事をも正直に赤裸々に云はうとしないで、わざと複雜な手段や技巧を弄したりする所謂貴族趣味的な態度を以て、高尙だとか上品だとか考へる者は少くなつたに違ひない。津田にしろ、お延にしろ、お秀にしろ、彼等の間に蟠まる煩悶なり爭鬪なりは、われわれの眼から見れば全く贅澤の沙汰であつて、彼等がお互ひにもう少し虚僞を排し、悧功ぶる癖を止めてしまへば、容易く解決される問題のやうに思はれる。
つまり彼等の爭鬪は、貧乏人にはする暇のない爭鬪であつて、智識階級の遊戲以上には出て居ないのである。にも拘らず、あのやうな作品が今も猶高級藝術として多くの讀者を持つてゐるとすれば、それは偶々あの作品が漱石氏の如き學者に依つて書かれたものであり、殆んど談論風發的小說と云つてもいゝほど議論づくめで書かれて居る爲めに、何となく高級らしい感じを與へ、多少教育のある人々に淺薄な理智の滿足を與へるが爲めであらう。
私をして忌憚なく云はせれば、あれは普通の通俗小說と何の擇ぶ所もない、一種の隋力を以てズルズルベツタリに書き流された極めてダラシのない低級な作品である。
多くの通俗小說の作家が、女子供の興味を目安にして書いてゐるやうに「明暗』の作家は、二十から三十前後の學生や、官吏や、會社員あたりを目安にして、その興味に投ずるやうに書いたに過ぎないのである。女子供はセンチメンタルな甘い筋を好むが、學生や官吏は薄ツペらな屁理窟を好む。『明暗』に屁理窟が多いのはまことに偶然でないと云へる。
小說の中で、屢々長たらしい議論を一云つたり物識りを發揮したりするのは、バルザツクが最も得意とする所である。ヘツベルの戯曲を讀んだ者は、あの中に出て來る人物がいかにも堅苦しい理窟づくめで作られてゐる事を感ずるであらう。しかし、バルザツクやヘツベルの理窟には、讀者にそれの善惡を考へさせる隙もないくらゐな恐ろしい力と千斤の重味がある。彼等の理窟は、その中心の熱情が迸り出たものであつて、決して漱石氏のそれのやうに後から取つて附けたものではない。
その他ユーゴーにしても、イブセンにしても、バアナアド·シヨウの如きにしても、彼等の理窟には何かしら眞劍なものがあるのである。彼等は決して、高級藝術の保護色として議論をあしらつてゐるのではない。
ノートブツクから
0一『社會及國家』と云ふ雜誌は、普く社會の各方面に亘つての研究やら拙評やらを發表するには違ひないが、主として政治趣味を中心として居るやうに、僕は心得て居た。將來とてもさう心得て居て差支へないだらうと思ふ。ところで僕が此の雜誌へ何か載せて貰ふにしても、どんな事を書いたらいいのかよく解らない。
なんぼ小說を職業のやうにして居ても、小說ばかり書いて居るのは、あんまり曲がなささうである。さうかと云つて、勿論政治や法律のことなんかは議論も批評も出來る筈はない。やつぱり自分の畑の方に多少關係のある事を思ひ浮べるままに順序もなく書き連ねて見ようか思ふ。
日本も明治になつてから、政治家の方では大分えらい人が出たやうであるが、文壇の方にはどうも其れほどの傑物が見當らない。紅葉、露伴、逍遙、鷗外、鏡花、漱石などと云ふ連中は、幕末前後の馬琴、京傳、三馬などに比較して優るとも劣つては居ないのであるが、西郷だとか大久保だとか云ふ人々に比べると、甚だ貫目が足りないやうに感ぜられる。
ナポレオンの傍ヘゲエテを置いても、ウイツテの傍ヘトルストイを置いても、一向不釣合ひには感ぜられない。しかし大西郷の傍へ置いても耻しくないやうな日本のゲエテやトルストイは一人も居ない。
昔は日本でもそんな事はなかつた。平安朝時代の美術家や文藝家の遺した作品は、寧ろ其時分の政治家の行つた仕事よりも、遙かに價値があるやうに思はれる。鎌倉時代でも、西行法師のやうな詩人は、賴朝や泰時と比較して、必ずしも見劣りがするとは云はれないであらう。
文學者の品格が下つて來たのは、足利から德川時代へかけての事である。足利時代で見られるものは、義堂だの絕海だのと云ふ五山の僧侶の詩文ぐらゐに止つてゐる。兼好法師はいささか卑しく、一條兼良などに至つては、氣障千萬で鼻ツ摘みの極と云ふ可きである。
ここに文學者と云つたのは、重に所謂軟文學者を指したのである。若し夫れ硬文學の方面を物色したなら、德川時代には大分えらさうな人物が出て居る。白石、仁齋、東涯、徂來などと枚擧に暇あらずであるが、彼等は決して文藝家ではなく、又詩人でもない。秋成、近松、西鶴、三馬-(三馬は少し落ちるかも知れぬが)と、これ等四五人を除いたら、德川時代に大を以て許さるる作家はないと云つてよい。
時の政治家と比肩して劣らないやうな、高邁な見識に欠けて居る。勿論時勢の然らしむる所で、自ら戯作者氣質が泌み込んだには違ひないけれど、あれだけの天才を持ちながら惜しい事である。
さうかと思ふと、見識ばかりイヤに高くつて、何等のオリジナリテイーもない馬琴のやうな男が居る。京傳、種彥、春水などに至つては、ただ小器用の猪口才子に過ぎない。日本の文學美術は、平安朝の貴族の手にある時に最も立派な發達を示し、燦爛たる光輝を放つた。平民の手に移るに從つてだんだん卑しくなり、せせこましくなり、調子が低くなつた。就中、彫刻、建築の如きは全く衰微して了つた。さうして見ると藝術は貴族的のものであるかも知れない。今更のやうに、ニイチエの言葉が想ひ出される。
激石先生
漱石先生が死んでからもう半年になる。ことしの正月、春陽堂の番頭が予の家へ年始に來た時の話に、『先生がお亡くなりになつてから、やつと一と月しか立ちませんが、それでも私の店だけで印稅を二千圓も收めました。大したものです。』と云ふ事であつた。予も實際大したものだと思つた。先生が達者で居られた頃、或る日先生の家へ數人の門人が集まつて、明治の小說家では誰が一番えらからうと云ふ議論を出した。或る者は一葉を擧げ、或る者は紅葉を擧げた。然るに先生は多くの異說を排して、ひとり泉鏡花を擧げられたさうである。
いかさま、先生の初期の作物には、鏡花くさい所が見える。鏡花に、非凡なる藝術的天分のある事は予も認める。鏡花と先生と、藝術家として孰れが優れて居るかと云ふ事は別問題であるが、鏡花には先生ほどの學問と閲歷とがない。その爲めに、彼は到底文壇に先生程の勢力と尊敬とを得ることが出來なかつた。博士の學位を斥け、大學教授の職を呪咀した先生も、その實大いに大學のお蔭を蒙つて居た譯である。十千萬堂主人自然主義が勃興して、硯友社派の小說が三文の價値もないやうに云ひ出されてから、世間の人はあまりに紅葉山人の作物を珍重しないやうになつた。山人の門弟で、方今文壇の老大家を以て目されて居る德田秋聲君と、先日本郷の豐國で落合つた時、予は極力山人の作物を激賞して、同君の意見を叩いた。
すると意外にも同君は、「紅葉なんぞ、そんなにえらい作家ではないよ。露伴の方がズツトえらいさ。」と、雜作もなく云ひ放つて濟まして居た。『そんならあなたはなぜ紅葉の弟子になつたのです。どうして露伴の門下に趨らなかつたのです。』予は重ねてきいた。『露伴はあんまりえら過ぎて、訪ねて行くのが恐ろしいやうな氣がしたのさ。― しかし君がそんなに紅葉を褒めるのなら、僕ももう一遍讀み返して見よう。』と云はれた。
同じく山人の門弟でも、泉鏡花氏は未だに每朝顏を洗つて、飯を食ふ前に先づ山人の寫眞を禮拜するさうである。さすが鏡花氏は、昔の名人氣質のやうな俤があつて面白い。山人の傑作『伽羅枕』は、山人が二十四歲の折に作られたのださうである。此れだけでも予は山人の天才を證するに足る事實だと思ふ。
以上。[出典]谷崎潤一郎 著『芸術一家言』金星堂 1924年
[付記]お前が言うな
さすがに「夏目漱石と谷崎潤一郎④」として書くのはバランスを欠くので、今回は谷崎の漱石観、特に東洋趣味で漢詩が向いているという見立てを紹介するにとどめることにしようとも思ったが、きちんとした『明暗』批判への反論はさておき、仮に谷崎が泉鏡花的なものを漱石の初期作品に見出して好んでいたとすれば、『坊っちゃん』の何を認めるのかと、この点だけ指摘しておきたい。
そもそもここまで徹底して『明暗』を批判されてしまうと、谷崎のことだからきっと裏があるだろうと勘繰ってしまう。
そもそも『草枕』だけが良いと言うなら、漢詩と泉鏡花を持ち出して一応弁明は出来るのだ。しかし『虞美人草』の半分は「文選」に学んだ美擬古文であるものの、半分は『二百十日』式の落語風掛け合いである。『吾輩は猫である』はトリストラム・シヤンデイやシヤルル・ペローなどの影響が否定できない作品であり東洋趣味ではないし、『坊っちゃん』は理窟では本来谷崎潤一郎には受け入れられるべきものではない。
一般に『坊っちゃん』はべらんめぃな主人公とあだ名でキャラクター付けされた登場人物たちのドタバタ喜劇として歓迎されている。そこにまるで本当の母親のような清の全き母性が加わることで、乱暴者の主人公を悪く見せないという仕掛けが働いている。泉鏡花的な気取りはまるでない。「ことに語学とか文学とか云うものは真平ご免だ。新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。」と反文学的性質が与えられている。しかも「人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない」と非合理的性格も与えられている。いささかも知的ではない。泉鏡花的な深遠さ、古典への憧れ、華麗さというものがまるでない。『坊っちゃん』は反泉鏡花的な作品と呼んでもいいのではなかろうか。
しかし並大抵の書き手の作でないことは一目見れば分かる。主人公が「おれ」を自称するのは三段落目の途中である。読み返してみればいかにも自然だが、意図してもこう器用に書けるものではない。これは技巧である。仮に『坊っちゃん』の冒頭に「おれは」を付け足してみると、いかにもだらしない子供の作文のようになってしまう。
谷崎は、
そこで藝術上の技巧とか形式とか文體とか云ふものは、美が生れると同時に當然備はるべき肉體であり、皮膚であり、骨格であつて、抑も末の問題であるとは云ふものの、それらがなければ美が存在しないことも事實である。
……と書いている。つまり実は谷崎は『坊っちゃん』に技巧を認めていて、そこを評価したのではなかろうか。
ならば間もなく、『明暗』の技巧を数え上げて、その凄みを教えてあげよう。と云っても、あれ、もう手遅れか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?