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夏目漱石『明暗』の技巧③ 大胆な「ふり」

 私をして忌憚なく云はせれば、あれは普通の通俗小說と何の擇ぶ所もない、一種の隋力を以てズルズルベツタリに書き流された極めてダラシのない低級な作品である。

 あの谷崎潤一郎がここまで徹底的に『明暗』を否定するのは、『明暗』の技巧が理解できていないからだと、記事を二つ書きました。

 しかし如何せん『明暗』は未完成の作品で布石の回収がないので、筋そのものの面白さ、のような指摘は本来できません。

 大江健三郎だったと思うのですが『明暗』には「犬」のイメージが繰り返されていることを指摘していたと思います。

 鎖を切って逃げる事ができない時にの出すような自分の唸り声が判然り聴えた。
眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色のの方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。
「だってみんなが尨の皮だ尨犬の皮だって揶揄うんだもの」
「一さんはみたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さい従妹から、彼がぱくりと口を開いて上から鼻の先へ出された餅菓子に食いついたという話を聞いたのであった。
「天眼通じゃない、天鼻通と云って万事鼻で嗅ぎ分わけるんだ」
「まるで見たいですね」

 このようにしてふられた犬のイメージが、最後の最後に津田と小林が結ばれて男と男が結ばれる成仏となり、しかも津田が受け身であり、いわゆる「ネコ」であったがために痔瘻になったことが明かされ、夏目漱石サーガが『吾輩は猫である』に始まり『明暗』では「津田は猫である」として閉じたとするならば、それはそれで上品とは言えないまでもよくできた話にはなるのですが、その落ちが実際ない状態では、「犬」のイメージが繰り返されていると言われても、それだけでは「はあ……」としか受け止められないわけです。そこから何か深遠な意味につなげられるということはないわけです。一般読者的には。

 例えば村上春樹さんの『1Q84』では結局「二つの月」という「ふり」に何の落ちもなく、ただ「不思議だね」で片付けられてしまいました。結果としてニューヨークタイムズか何かの書評で『1Q84』は詐欺的とまで酷評されることになりました。

 落ちがないところの「ふり」はどうしても褒められようがないわけです。一般読者的には。

 しかしそもそもこの記事は谷崎君のためだけに書かれているものなので、あえて言いますが、あんたプロやろ。大谷崎やろ。文豪やろ。一般読者とちゃうやん。落ちがないところの「ふり」は認められませんって、それは飽くまで一般読者の言い分であって、プロの書き手ならば無い手、無い知恵、無い落ちを出して来たらどないやねん。

 果敢にも『続明暗』を書いた人もいたわけです。続編を書こうとすれば、未回収の布石をチェックしますよね。読み手ではなく書き手に回れば、無い落ちを探さなくてはなりません。この辺りのことも本当は谷崎君は解っていて、あえて惚けているんじゃないでしょうか。

 というわけで、夏目漱石作品はそこそこの確率で「ふり」と落ちがかみ合っていましたので、一応書かれていないまでも落ちはあるのではないかと前提して、改めて「ふり」を確認してみると、やはりどうも巧みなんじゃないかと思えます。

 先ほどの大江健三郎の「犬」の話ですけれども、これはやはりプロの書き手の意識ですよね。大江健三郎という人は、途中から実に難解な作品を書きはじめるわけですが、寧ろ初期作品を読むとその書き手としての凄みみたいなものがはっきり解ります。小説って要するに物事の捉え方が現れるので、ぼんやりした人かシャープな人か、そのあたりは作品に出ますよね。大江健三郎の初期作品を読むと、これはシャープだなと思うわけです。だから一般読者にとってはまださして意味のない「犬」のイメージの繰り返しに気が付く訳です。「犬」のイメージの繰り返しって別に筋ではないし、ライトモチーフとまでも言えないですよね。まだ。

 ただ、津田がネコだったら、やはり「ふり」になるわけです。一般読者にとってはさして意味のないところ、まだ落ちはないけれど「ふり」として生かせるのかどうなのかということは、本来谷崎なら解っていた筈なんです。浮遊する視座や、会話の妙も、あの谷崎なら解る筈なのに、何なのでしょうね。

 で、頭のほうから見ていきますと……。

 あまりにも大胆な書き出しなので「大胆な書き出し」、ビギニングが巧みだと一章儲けようかと思うほど、『明暗』の書き出しは大胆ですが、これが「ふり」でないと考えないことはむしろ難しいでしょう。

 つまり「行き止まりだと思ったら奥がある」というストーリーの運びが想定されますし、「結核性ではない」痔瘻の原因が明らかになるということはあるんではないでしょうか。

 谷崎は既に「まどろっこしい」とのろのろした道草を嫌っていますが、「五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどある」ということなので、「まどろっこしい」逸脱はむしろ『紳士トリストラムシャンディ氏の生活と意見』を讀むように楽しむべきではないでしょうか。これは好き嫌いの問題ですが、『紳士トリストラムシャンディ氏の生活と意見』は読み手を何とか呆れさせようと、これでもかこれでもか、と逸脱を仕掛けます。『明暗』に関しては断章などを見る限り、まだまだ先があったようで、そう考えると谷崎の苦情はまだ早すぎるように思います。

 電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干の下に蹲踞る乞食を見た。その乞食は動く黒い影のように彼の前に頭を下げた。彼は身に薄い外套を着けていた。季節からいうとむしろ早過ぎる瓦斯煖炉の温かい焔をもう見て来た。けれども乞食と彼との懸隔は今の彼の眼中にはほとんど入はいる余地がなかった。彼は窮した人のように感じた。父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた。(夏目漱石『明暗』)

 この乞食が村上春樹の『1Q84』の枯れたゴムの木のような「不幸の予感」の賺しに終わるのか、それとも三島由紀夫の『春の雪』の黒い犬の死のような「不幸の予感」に終わるのか、まあ答えはないですけど、いい「ふり」なんじゃないでしょうか。いろいろと調理の仕様がありますよね。小林がもっと落ちぶれて外套を着て蹲るとか。とにかくこの「頭を下げた」が意味深です。

 それから一つの小説の中に家族でもないのに同じ苗字の登場人物が出て來る以上「小林が二人」という「ふり」には必ず落ちがある筈です。

「しかし僕は明日から入院するんだぜ」
「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」
 小林は追いかけて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしく訊きいた。医者の名が自分と同じ小林なので「はあそれじゃあの堀さんの」と云ったが急に黙ってしまった。堀というのは津田の妹婿の姓であった。彼がある特殊な病気のために、つい近所にいるその医者のもとへ通ったのを小林はよく知っていたのである。(夏目漱石『明暗』)

 この「ふり」も必ず落ちるでしょう。堀と関がある特殊な病気であることを小林が知っている理由も、明らかになるでしょう。

 清子は流産しているので、漱石サーガのルールでは「罪ある女」のようですが、そうではなかったという事実が明かされるかもしれません。

 本筋に絡む部分でいえば、清子と津田がどうなるのか、というところまでがふられています。一応津田の妄想の中で温泉宿に小林が押しかけるというふりがありますから、誰かが温泉宿にやってくるという展開が考えられます。

 気まずい順で考えますと、関、お延、堀、秀子、小林、でしょうか。このまま誰もやってこないで、津田と清子だけで長逗留ということは考えにくいですよね。誰がやってきても修羅場でしょうが、関とお延に関しては十分あり得るわけです。ですから一応漱石は修羅場の寸前までは作り上げていたわけです。

 言ってみれば『それから』の代助の三千代に対する告白ですね。人妻に告白しちゃいけないでしょうが、『明暗』における津田も、書かれている範囲で結構きわどいところにいますよ。どう見ても未練たらたらですから。そしてかなり危険な状態であるという自覚は小林が現れるという妄想で自覚していますよね。そして津田の立場の危うさは普通の読者にも伝わっている筈なんですがどうでしょう。昔の女を追いかけて借金した金で温泉宿に行くなんて、ちょっと言い訳できませんよね。ですから漱石はある程度津田を追い込んでいるわけです。

 で、これからどうなるかと考えてみると、例のポアンカレの事が思い出される仕掛けです。自由意志と決定論あるいは非決定論の概念が問われる訳ですね。現に登場人物は自由意志ではなく「しがらみ」の中で個々の選択をしてきていますよね。秀子とお延の会話もそうでした。相手に言わされていました。津田もどこかで吉川夫人にコントロールされていますよね。このあたりのことが少し掘られるんじゃないかと思いませんか。

 谷崎君にはまた理屈っぽいと怒られるかもしれませんが、確かに漱石の中にはいろんな理屈があって、

「うちへ帰って見ると東風は来ていない。しかし今日は無拠処なき差支えがあって出られぬ、いずれ永日御面晤を期すという端書があったので、やっと安心して、これなら心置きなく首が縊れる嬉しいと思った。で早速下駄を引き懸けて、急ぎ足で元の所へ引き返して見る……」と云って主人と寒月の顔を見てすましている。
「見るとどうしたんだい」と主人は少し焦じれる。
「いよいよ佳境に入りますね」と寒月は羽織の紐をひねくる。
「見ると、もう誰か来て先へぶら下がっている。たった一足違いでねえ君、残念な事をしたよ。考えると何でもその時は死神に取り着かれたんだね。ゼームスなどに云わせると副意識下の幽冥界と僕が存在している現実界が一種の因果法によって互に感応したんだろう。実に不思議な事があるものじゃないか」迷亭はすまし返っている。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 ここでは冗談めかしていますが、「副意識下の幽冥界」といった概念そのものについては案外真面目に考えていたようで、

(ジェームス教授の哲学思想が、文学の方面より見て、どう面白いかここに詳説する余地がないのは余の遺憾いかんとするところである。また教授の深く推賞したベルグソンの著書のうち第一巻は昨今ようやく英訳になってゾンネンシャインから出版された。その標題は Time and Free Will(時と自由意思)と名づけてある。著者の立場は無論故教授と同じく反理知派である。)(夏目漱石『思い出す事など』)

 ……などとも書き残しています。一時何でもかんでもフロイト式の精神分析で片付けようという向きもありましたが、漱石の考えていたところの精神世界はむしろユング的なもので、ややオカルト的でもありました。したがって、

男が女を得て成仏する通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏し悪にくくなる。今までの牽引力がたちまち反撥性に変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志という諺を永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実を挙あげるのは、やがて来きたるべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……(夏目漱石『明暗』)

 このような成仏という概念も完全な冗談という訳ではないようです。つまりこれが「ふり」だとすると、男と男が結ばれる成仏というものも十分考えられるわけです。

 お延を吉川夫人が躾する計画とか、清子を反逆者呼ばわりしたり、飛行機に乗せたりと、どうにも理解不能な「ふり」もあり、お金(きん)さんの縁談もまだ途中なので、残念ながら後はただ落とすだけというところまでは至っていませんが、これまでの漱石作品と比較しても書かれている「ふり」だけで『明暗』という作品はかなり豊かな感じがします。

 谷崎君には本当にそう思えないのかなあ。






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