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折口信夫「好惡の論」について

 文學の目的は、私はかう申します。人間生活の暗示を將來して、普遍化を早める事です。此が、私の考へる文學の普遍性で、同時に、文學價値判斷の目安なのです。だから、結局、日記や傳記によつて、文學作品が註釋せられて、作者の實力が知られると言ふのは、抑文學者として哀れな事で、作品其物に、人間共有の拂ひがたい雲を吸ひよせる樣な、當來の世態の暗示を漂はしてゐる文學でなくてはならないのです。
 芥川さんなどは若木の盛りと言ふ最中に、鴎外の幽靈のつき纏ひから遁れることが出來ないで、花の如く散つて行かれました。今一人、此人のお手本にしてゐたことのある漱石居士などの方が、私の言ふ樣な文學に近づきかけて居ました。整正を以てすべての目安とする、我が國の文學者には喜ばれぬ樣ですが、漱石晩年の作の方が遙かに、將來力を見せてゐます。麻の葉や、つくね芋の山水を崩した樣な文人畫や、詩賦をひねくつて居た日常生活よりも高い藝術生活が、漱石居士の作品には、見えかけてゐました。此人の實生活は、存外概念化してゐましたが、やつぱり鴎外博士とは違ひました。あの捨て身から生れて來た將來力をいふ人のないのは遺憾です。(折口信夫「好惡の論」)

 私は「芥川さんなどは若木の盛りと言ふ最中に、鴎外の幽靈のつき纏ひから遁れることが出來ないで、花の如く散つて行かれました。」というような大雑把なまとめが得意ではなく、また事実として芥川を殺したのは鴎外ではないと確信している。芥川が鴎外を尊敬し、鴎外に憧れていたことは紛れもない事実だろうし、鴎外というお手本があつただけに一語一語味到して書くことに拘ったのであり、そこに遅筆の原因の一つがあったであろうことは否定しないが、やはり芥川の自殺の原因は動物的エネルギーの枯渇である。

 さて、その前後がよく解らない。「文學の目的は、私はかう申します。人間生活の暗示を將來して、普遍化を早める事です。此が、私の考へる文學の普遍性で、同時に、文學價値判斷の目安なのです。」→「文學の目的は、人間生活の暗示を將來して、普遍化を早める事」、この「暗示を將來」が解らない。人間生活の普遍化という訳でもないだろうが。「藝術生活」「概念化している実生活」「捨て身から生れて來た將來力」……いずれも解らない。

 確かに漱石は書画骨董、俳句に謡に漢詩と、藝術三昧の生活を送ってきたが、それは飽くまで私生活である。芸術的小説には『草枕』があるばかりで、晩年の『明暗』は昔の女を追いかけて温泉宿に行く話であり、高い藝術生活などは描かれていない。

 「作品其物に、人間共有の拂ひがたい雲を吸ひよせる樣な、當來の世態の暗示を漂はしてゐる文學でなくてはならないのです」というのもよく解らない。「日記や傳記によつて、文學作品が註釋せられて、作者の實力が知られると言ふのは、抑文學者として哀れな事」というのは解る。しかし現実的に書簡集や日記は愚か、メモや断章などの資料が最も充実しているのが「漱石全集」であり、其の他女性関係もおおよそ掘りつくされてゐる。「當來の世態の暗示を漂はしてゐる文學」がSF小説でないとしたら、予言小説というようなものを言っているのだろうか。

 なにやら漱石を褒めているらしきことだけは解るのだが、では一体何を褒めているのかさっぱり解らない。コカインでもやつているのだろうか?

 こういう独自の用語の組み立ての中に入っていって、無理に理解しようとすることは徒労に思える。したがつてこの論はここで一旦閉じる。また何か気づけば先に進む。









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