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高浜虚子「漱石氏と私」-6の続きの続き-サボテン黨の首領は、高濱虚子のこと


 明治三十九年九月十三日(葉書)

 西洋人にはまだ達はんから逢つて椅子が欲しいかどうか聞いて見ませう。日本すきだから坐るといふかも知れない。三崎座で猫をやる由成程今朝の新聞を見たら廣告があつた。寺田も知らせて來ました。

 然も忠臣藏のあとだから面白いと書いて來ました。猫が芝居にならうとは思はなかつた。上下二幕とはどこをする氣だらう。僕に相談すれば教へてやるのに。                         金夏目之助高濱清樣

※断腸亭日乗によれば、作家が二次使用権を得るのは山本有三以降のことであるようだ。つまり原作者に断りなく、芝居にかけることが可能だったようだ。

               ○

明治三十九年九月十四?日(葉書)

 今夜三崎座の作者由中霜柳といふ人が來て猫を上るから示知してくれといひました。仕組もきゝました。二三助言をしました。苦沙彌が喧嘩をする所がある呵々。見に來いと云ふた。どうです。        夏目金之助

高濱清樣

※とはいえ、一応断りには来たようだが、チケットは置いて行ったのだろうか? 断腸亭なら、

此日到着の郵便物の中に文士高見順といふ面識なき人、往復葉書にてその作れる戯曲を浅草公園六區樂天地にて上演すべし。會費を出して来り見よといふが如き事を申来れり。自家吹聽の陋實に厭ふべし。

 みたいなことになるぞ。

                ○

明治三十九年九月十八日(葉書)

 妻の父死んで今週は學校を休む事にした。その外用事如山。三崎座を見たいが行けるかしら。もし行けたる御案內を仕る積りなり。

                            夏目金之助

高濱清樣

※随分人がいいな。それにしても『異邦人』みたいになつていないか。

               ○

明治三十九年九月十九日(封書)

拜啓。先日頂戴仕つた能の番組も時間も御手紙も紛失仕つて忘すて仕舞つた。どうぞ今一遍知らせて下され。實は今週中休むから手紙で西洋人へきゝ合せてやらうと思つた所が時間も何も分らず、夫が爲め又々御面倒をかける甚だ相濟まん。

 夫で入口では高濱さんの坐ときますかな。もし西洋人がさしつかへたなら誰か連れて行つて見ませませうか。夫とも君の方にだれかゐますか。又は御互に知り合のうちを御指名下されば引つ張り出します。以上。

九月十九日                           金

虛子庵置二階下

                 ○

明治三十九年九月二十二日(封書)

拜啓。西洋人は大に感謝の意を表し來り候椅子は入らぬ由。何だか日本服をきて出陣する模樣なり。是でなくては能抔は見られぬ事と存候。

 十月號には面白いものが出ますか。僕も何か書きたいが當分いそがしくて駄目である。三重吉が來て四方太の文をほめて居た。御互に惚れたものでせう。頓首

九月二十二日                          金

虛子先生

                 ○

明治三十九年十月一日(葉書)

拜啓。先日は御能拜見仰せ付られ難有仕合に存じ奉り候。西洋人大喜にて今度ある時も知らせてもらひたい抔ど申居候以上。

 僕の後ろに居た西洋人は下等な奴だ。アンナ者ガ能ヲ見ニ來タラ斷ハルガイヽ                         夏目金之助

高濱清樣

                ○

明治三十九年十月三日(葉書)

拜啓。ホトトギスの豫告は驚ろきましたね。小生來客に食傷して木曜の午後三時からを面會日と定め候、妙な連中が落ち合ふ事と存候。ちと景氣を見に御出被下度候。                     夏目金之助

高濱清樣

かうして先生の所の木曜會は、明治三十九年十月十一日をもつて始められた。その翌日、即ち十月十二日の夜、先生は高濱虚子に宛てて「拜啓昨日は失敬……今度の木曜にも入らつしやいな。四方太も來るかも知れない。小生元來のん氣屋にて大勢寄つて勝手な熱を吹いてるのを聞くのが大好物です。/……今日も三人來ました。然し玄關の張札を見て草々歸ります。甚だ結構です」と書いてゐる。「張札」とあるのは、赤唐紙の詩箋に、面會日は木曜の午後三時以後といふ意味のことが書かれて、玄關の格子の右上に貼りつけられてゐたからである。(小宮豊隆『知られざる漱石』)

                ○

明治三十九年十月九日(封書)

 二百十日を御讀み下さつて御批評被下難有存します。論旨に同情がないとは困ります。是非同情しなければいけません。尤も源因が明記してないから同情を强ひる譯にゆかない。其代り源因を話さないでグーグー寝て仕舞ふ所なぞは面白いぢやありませんか。そこへ同情し給ヘ。

 碌さんが最後に降參する所も辯護します。碌さんはあのうちで色々に變化して居る。然し根が呑氣の人間だから深く變化するのぢやない。圭さんは呑氣にして頑固なるもの。碌さんは陽氣にしてどうでも構はないもの。面倒になると降參して仕舞ふので、其降參に愛嬌があるのです。圭さんは應揚でしかも堅くつて自說を變じない所が面白い。餘裕のある逼らない慷慨家です。

 あんな人間をかくともつと逼つた窮屈なものが出來る。又碌さんの樣なものをかくともつと輕薄な才子が出來る。所が二百十日のはわざと其弊を脫して、しかも活動する人間の樣に出來てるから愉快なのである。滑稽が多過ぎるとの非難も尤もであるが、あゝしないと二人にあれだけの餘裕が出來ない。出來ないと普通の小說見た樣になる。最後の降參も上等な意味に於ての滑稽である。あの降參が如何にも飄逸にして拘泥しない半分以上トボケて居る所が眼目であります。小生はあれが棹尾だと思つて自負して居ゐのである。あれを不自然と思ふのはあのうちに滑稽の潜んで居る所を認めない普通の小說の樣に正面から見るからである。僕思ふに圭さんは現代に必要な人間である。今の靑年は皆圭さんを見習ふがよろしい。然らずんば碌さん程悟るがよろしい。今の靑年はドツチでもない。カラ駄目だ。生意氣な許りだ。以上。                            金

虛子先生

能の事難有存じます。矢張九段であるのですか。いつあるのですか。一寸教へて下さい。正月は何かかいて上げたいと思ひます。然し確然と約束も出來かねます。まあ精々かく方にして置きませう。

                ○

明治三十九年十月十三日(封書)

拜啓昨日は失敬本日學校でモリスに聞いて見た所二十人日の喜多の能を見に行くから枡を一つ(上等な所あまり舞臺が鼻の先にない所を)とつてもらひたいと云ふ事であります。どうか願ひます。夫から時間は午前八時から五時位迄ですか、臺多の番地はどこてしたか、教へて下さい。

 今度の木曜にも入らつしやいな。四方太も來るかも知れない。小生元來の呑氣屋にて大勢寄つて勝子な熱を吹いてるのを聞くのが大好物です。森田が千鳥をよんで感心して來ました。森田は一頁五十錢で翻譯をして食つてゐる。シヤボテン黨は此味を知らないからシヤボテン派なんだらうと云ふてゐます。今日も三人來ました。然し玄關の張札を見て早々歸ります。甚だ結構です。                           以上。

十月十二日                          金生

虛子先生

※木曜会が出来てからも小宮豊隆は平気で木曜意外にやって来たらしい。

 私は第一囘の木曜會には出席しなかつたやうに思ふ。と言つて私が木曜會に初めて出席したのは、いつのことだつたか、はつきり覺えてゐない。或は三重吉が『山彦』を朗讀した晩が、初めてではなかつたかといふ氣もするが、然しこれは少少曖昧である。ただその時の客が、當の三重吉は無論のこと、介添役としての中川芳太郎、それから高濱虚子・坂本四方太・野間眞綱・皆川正禧・松根東洋城だつたことは、たしかである。野村傳四も寺田寅彦も來てゐたのではなかつたかと思ふ。但これはあまりはつきりしない。森田草平はたしかに來てゐたやうである。(小宮豊隆『知られざる漱石』)


 初めの「サボテン黨の首領」といふのは、高濱虚子のことである。當時は『草枕』が發表された直後で、虚子はその『草枕』の中の覇王樹の描寫を口を極めて褒めたのに對して、森田がそれに反對を唱へ、先生がその間に立つて雙方に傳へつつ、調停を試みたことがある。その要領は先生の森田宛の同じ手紙の前文に出てゐる。それだから此所に「サボテン黨の首領」といふ言葉が出て來たのである。(小宮豊隆『知られざる漱石』)

 

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