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青野季吉「漱石·良寛·我々」何が起ころうと僕は不可能に挑む

漱石·良寛·我々

 夏目漱石がまだ大學生の頃にかいた「英國詩人の天地山川に對する觀念」といふ論文は、周圍の人々をひどく敬服させたらしく、當時の文科大學長外山正一もそれをよんで、目を瞠つたと云ふことだ。その文章の中に次のやうな一節がある。

「ウオーズウオースは全く之(バーンズ)に異なり。其主義とするところは"Plain liying Es care thinking "にありて、固より俗界を眼下に見降したれば、彼の虛榮を鬪はす輩を觀て、氣に障るの何のと云ふ事なし、加之富めるといふにあらねども、衣食に事缺く程の貧乏にてもなく、山林に逍遙して自由に自然を樂しむ位の資產を有せし故に、其外界に對する觀念も和風麗日に接するが如き心地のせらるゝなり。」

 こんな文章が若い漱石によつて書かれたなどは「猫」以來の漱石しか知らぬ讀者には、ちよつと妙な感じがされるかも知れないが、漢籍できたへられた漱石には、早くから老成の風があり、靑春らしい靑春を味つたことも、その心身から發散させたことも無かつたやうだ。

 これは明治時代の萬事に探求的なインテリを知る上に、一つの手がかりとなる點で、二葉亭などにもやはり靑春の祝杯の惠まれなかつた事は「浮雲」がまざまざと物語つてゐる。そういふ不幸な靑春の缺如は、明治末期から大正初期にかけて生ひ立つた私などにも通有の現象で、明治の文人の傳記類をよんで、その點に觸れた個所に來ると、きまつて私は立ち停つて、思ひを久しうするのだ。

 そのやうな靑春の缺如は、また、甞て味ふことが出來なかつた靑春への思慕を抱かせるもので、その場合、曾つて靑春のために傷けられることが無かつただけ、その思慕は純粹でもあり美しくもある。これは靑春を持たなかつた人々には、ほとんど誰にも見出される秘密で、漱石にもそうした思慕が隱されてゐた事は、初期の浪漫的な作品や「三四郞」などが物語つてゐる。

 それはそれとして、漱石がウォーズウォースのプレーン·リーヴイング·エンド·ハイ·シンキングについて說いた言葉は漱石の一生を貫いたものを、自ら表現してるるやうに思はれ、漱石の一生の苦鬪の泉源がそこに沸々と音を立ててゐるやうに感じられる。

 平淡な生活と高邁な思考ーこのために漱石は、五十年の全生涯をあげて苦しみ、努力したので、「卽天去私」への憧憬もそのためのぎりぎりの叫喚として受取られる。つまり彼は平淡な生活と高邁な思考を求めて精進したが、生活の平淡は亂されるばかりだつたし、思考の高邁は滿される時がなく、その中に身をはさまれて、一生を苦しみ通したのだ。この苦しみはしかし獨り漱石ばかりのものでなく、われわれ近代の日本人は、多かれ少かれこの苦しみに身をはさまれてゐると云へないことはない。

 平淡な生活と云ふことも、その形式や內容はいろいろあるにしても、日本人一般の生活にたいする理念又は理想と云つてよいが、しかも近代日本人はたうていそれを心行くまで實現することの出來ない事情と環境に取り卷かれてゐるのだ。特に平淡な生活と高邁な思考とを一身に調和し、體現することは、近代日本人にはたうてい不可能に近い境地と云つてよく、思考は思考として、生活を離れて空轉し、生活は生活で、思考とも、その人とも離れて、それ自身の無慈悲な軌道を迅走するばかりなのが近代生活であり、近代の悲劇なのだ。

 いつたい古來のすぐれた日本人の謂ゆる日本的特性は、平淡な生活と高邁な思考とを一身に體現することが出來、おのづから和風麗日の氣がその全身をつつんでゐた所にあるので、本居宣長などを考へる時、私は常にその麗かな、亂れぬ息吹に打たれざるを得ない。萬葉や古今の昔は云ふまでもなく、中世歌人の幽玄にしても、芭蕉の「さび」にしても、平淡な生活と高邁な思考との渾然たる融和をあらはした精神の一形式として、私には世界に比類のないものに思はれるのだ。

 その融和のために一生苦しみつゞけた漱石が、晩年に良寛に傾倒し、その詩を「まことに高きものにて、古來の詩人中其匹少きもの」と驚歎し、その書を「良寛ならでは」と歎賞し、「有難い崇高な感じ」と絕賛してゐるのは、興味があり、教へる所が多い。思ふに、漱石の求めて得られなかつた「卽天去私」の境地、平淡な生活と高邁な思考の渾融した境地を、美事に一身に體現し得たものとして、良寛がこの時彼の心を占めたので、「高い」とか「崇高」とか云ふ言葉が、それを表現してゐる。私は良寛について知る所、まだ深いとは云はれないが、彼の生き方が人々に思慕されるのはその平淡にして愚の如き生活と高邁にして叡智に充ちた思考との渾然たる融和の姿が、人々の日本人的な存在の理念をゆすぶるからに相違ないのだ。

 過日の良寛遺墨展覽會に出陳された多くの書にしても、單に甘いとか至妙とか自由濶達とか云つた美事さではなく、漱石の謂る「高さ」「崇高」と云ふ、仰いで見るやうなものが、そこに生動してゐるのを直覺せざるを得なかつた。それは云ふまでもなく、彼の存在の深部から自らに發光したものに外ならないのだ。

 事變以來、日本的とか日本精神とかいろいろ言はれるが、われわれの生きる上の切實な問題としては、平淡な生活と高邁な思考とを、われわれの時代に於て、われわれのやり方をもつて、如何に渾然と調和し、それを一身に體現して、存在の日本的特性や、文化の日本的麗しさを發揮するかにかかつてゐるのだ。

 それを自覺しなければ、さまざまな「日本的」な言葉も、彼の誠實な生命と結びついた言葉として、現代の人々の胸に響く筈がない。その意味で、われわれには漱石の一生の苦闘を繼承する義務があり、否、いやでもそれを繼承しなければならぬ運命が背負はされてゐる。漱石は遂に「卽天去私」に形式を與へることも內容を與へることも出來ないで、五十の働き盛りに亡くなつたが、我々はそれに形式や內容を與へることに念々努力すべきで、それがまた新らしい日本に生きる道であらうと、私は信じてゐる。(一五、四) 

私の文學手帳

 けふ早朝附近を散步すると、百鳥が樹々に轉つてゐるのに草中にはまだ蟲の音が殘つてゐた。陸稻、里苹、玉蜀黍、葱などの細い銳い葉、廣い鷹揚な葉共が、いろいろな綠の變化を見せて、私の眼を樂ましてくれた。この邊にはまだ人の踏み込まない叢が散在してゐて、その中に曼珠沙華が一面に桃色の枝垂れた頭を列べてゐる。この花は私の故郷では「赤まま」と云つて、小供の頃にはよくその花の粒々を弄んだものである。私はかう云ふ何でもない路傍の花が靜かに獨り生きて榮えてゐるのを嬉しく思ふ。曼珠沙華といふ名も趣きがあり、この花は名で得をしてゐる。

 いい名と云へば二人靜といふ花の名なども美しく、その名だけで幽情がそそられる。漱石の「虞美人草」にこの花がいかにも巧妙に使はれ、宗近君の親父の風姿が、その花の使ひ方一つで、眼前に彷彿したのを記憶してゐる。漱石はああ云ふ作家だけに花や樹をその場の人物情景などに調和させて、うまく使つてゐた。いまちよつと思ひ出せるだけでも、「三四郞」の初めの方で、三四郞がはじめて美禰子と行き合ふ場面で、椎の木をうまく使ひ、美禰子のつれの看護婦に美禰子の問ひに答へて、「あれは椎」と答へさせてゐる。それがあそこで面白い空氣を出してゐた。

 椎の木などそこらにざらにある樹だが、使ひ方ひとつで小說の場面のどんな複雜な空氣でも、躍動させることが出來るのである。「草枕」の中の椿などの使ひ方も巧妙だが、これは少し私には胸につかへるものがある。

 漱石の前期の文學は餘裕派と云ふ別名があつたほどで、極く特殊なものだから、その例で他を押す譯にも行かないが、この頃の小說の肉體がいかにも憔悴して見えるのは、樹や花ばかりでなく凡ゆる景物に於いて、作家がひろく眼を澄して觀る用意又は餘裕のないのが、そのひとつの原因だと考へて惡いか。

 この間私は或る隨筆で雲のことを書き、最近の小說と結びつけて、少しばかり感想を述べた。するとさつそく二三の若い作家から皮肉まぢりの質問をうけたが、漱石はやはり「三四郞」で、雲を巧く使つてゐる。晴れた秋空にぼかりと浮いた白雲を持つて來て、その時の全體のムードを直寫し、同時に人物の心の中までそれで窓を開けて見せてゐるのである。

 こんにちの作家におよそ「漱石的なもの」を求む可きでないこと、そんな餘裕や趣味性などがこんにちの作家にあり得ないこと-等々は、私は百も承知してゐる。だが小說の作家はどんな内外の責め苦にさいなまれてゐても、それで小說の肉體の憔悴を正當づけることは出來ない筈である。

 小說は作家の生むものであり、作家のものであるが、同時に作家を離れて獨り步くものである。親がどんなに貧困してゐても、それで小供が憔悴してゐていい理窟はない。自分が貧困であればあるほど小供をまるまるとふとらせ色光澤をよくしようと云ふのが、親の愛である。兼ねて作家の小說にたいする愛でもなければならぬ。

 私はこんなとり止めもない推想を曼珠沙華などの緣取る小徑を步き乍ら追つたのであるが、これは少し呑氣閑證すぎるやうである。ヨーロツパの天地では大戰爭が起り、人類の慘酷な大試錬が始まつてゐる。この東京でもその報道に轉倒してゐる一角があるやうである。私もそれを思ふと何か胸中に波立つものを感じる。そしてそれをたどつて行くと、日本の運命についての潜かな思ひの巖角にカチリとつき當るやうな氣がする。これは誰しも同じことであらう。凡ては日本はどうなるかに焦點を結び、さらに日本をどうしなければならぬかに結著するが、こんな大きい問題はいまの私には背負ひ切れない。

 問題の解決よりも問題の重量の方が先づ心を壓倒するのである。そこで私はみづから文學の世界に跼蹐して、自分の小徑を別けて進むより外はないのである。しかしこの小徑はいかに細くとも途中で切れてゐるのでなく、畑を拔け線路を橫切り叢に埋れても、結局日本の運命についての思ひとつながるものである。その自覺と信念だけは堅く內心の基盤に浸み透つてゐる。私は曾つて、いまは平俗となつた言葉をつかへば、思想にすつかり憑れてしまつて、政治と文學との關係について大きな考へちがひをやり、私の知性までも生れもつかぬ片輪として仕舞つた。

 その傷痕はいまだにいえないが、私のこころからは憑ものが落ちて、いまは生れかはつたやうに樂になり悅びを惠まれてゐる。かかるこころの轉變と變貌とは、恐らく迂愚な人間しか經驗しないものであらう。だが、これは私には生命を賭けた尊い經驗だつたのである。それに顧みて私は、ものに憑かれることがいかに恐ろしいかを絕えず思ひ描くのであるが、私などのやうな迂愚は別としても、こころの柔かい文學者はいつたいものに憑かれる危險が多いのではないか、そのために自ら生命と知性を衰弱させ損傷することが甚しいのではないか、と考へるのである。

 これは文學者にとつては、日常戒心を要するおごそかな問題であらう。私は現に私の周圍に聰明に生きてゐると自任し、自分だけは確かだと自信してゐる多くの文學者を觀てゐる。しかしさういふ自任と自信の實體をみつめて見ると、私にはさめざめとする場合が多いのである。彼等も亦何等かの意味で憑かれてゐるのではないか、しかも病ひ既に膏盲に入つてゐるのではないか。もしひとたびそこにきびしい思ひをこらさねばならぬ機會に廻り合せたら、果して彼等の幾人かよく戰慄を抑へることが出來るであらうか。何とかもつともらしい名のついた思想に憑かれることばかりが、憑れるのではない。人間の精神の隙間には、あらゆる魔性のものが忍び込んで來る。

 その魔性の幻術には、一時生命の火を妖しく赫かすやうなものさへもある。それがおそろしいのである。それに比べると誰にもすぐ飛火するやうな思想に憑かれることなどはものの數でもないと云へるのである。私はしばらく途絕えによつて、文壇の事情には暗くなつてしまつた。

 だからこの頃よく評論などに散見する事大主義といふ言葉が何を意味するのか判然しない。しかし事大主義は、考へて見ればこれまでの文壇にも常に傲然と坐り込んでゐて、その癖いつかう事大主義らしくないやうな顏つきで、猫を被つてゐたのである。

 實は私などもその一人だつたではないかと責められても致し方がなく、罪なきものから石でうたれても仕方がないのである。いま云はれる事大主義の正體を究めることなどは、私には興味も何もないが、事大主義と云はれ、かりにもその氣合ひを感じさせるものが文學者に確かにあるなら、彼は正に何かに憑かれて、生命と知性が刻々に傷はれつつあるものと診斷していいのである。そこでは他にどんな利得はあらうとも、およそ文學が育たないこと、嘘になること、眞實の光源から遠ざかることだけは確かである。文學者が自分のこころを清淨に保つて、常に眞實に向つて懷を一杯にひらいてゐると云ふことが、いかに困難であるか、それは誰よりも文學者自身がよく知つてゐる筈である。眞實が無くては文學がないことも、文學者自身がまたよく知つてゐる筈である。文學者はこの困難と約束との中に苦鬪せねばならぬやうに出來てゐるのである。

 そしてものに憑かれることも、その苦鬪の退引ならぬ表現である場合も尠くないのである。憑かれることを知らぬ聰明な人間が、文學者として必らずしも憑れる人間よりも尊敬に値すると定つてゐないのは、この故である。私はかう云ふ斷想をたどつて來て、ふと過日內田巖畫伯を訪ねて、氏の畫室で聞いた無名の老畫家の像を想ひ出した。

 その老畫家はフランス人で、内田氏が彼地にある間に親しくした人だとのことである。彼は、何十年と云ふ間クツシツクに沒頭してゐて、自己の精神と技をみがいてゐるが、一向に世間にも認められない。それでも一切平然たるもので、學ぶ可き藝術家としては古今を通じレンブランその他二三を數へる切りで、マチスなどは一介の裝飾家に過ぎないと、昂然たるものがあつたさうである。この老畫家の信念の堅牢さや、獨往の精神の逞ましさには敬意を表していいに相違なく、ヨーロツバでなければかかる型の藝術家はちよつと見られないやうな奥ゆかしいものもその精神の中に感じられるが、しかしまた彼の像から、クラシツクの名において執つこく憑きものゝした人間の重苦しい空氣も感じない譯にはいかないのである。

 彼が無名の一老畫家であることなどは、問題ではない。あの文化の古い傳統をもつた國々には知名の畫家の中にも、こうした人間が尠くないのであらう。そして古きもの、新しきものにそれぞれ執拗に憑かれた人間たち、藝術家たちがそこに入り亂れ、烈しく摩擦してゐるのであらう。この大戰爭はヨーロッパ文明の自壞の戰爭だとも云はれ、ヨーロッパの新秩序建設の戰爭だとも云はれる。私はその眞僞を知らないが、何れにしてもさういふ憑れた人間、藝術家の雜沓し、烈しく摩擦する藝術の一隅だけで考へても、大破壞は招かずして來る運命にあつたのであらう。

[出典]『文学の場所』青野季吉 著高山書店 1941年

[付記]

 青春の欠如が『三四郎』の美しさの秘密であるとは、なかなか鋭い指摘ではなかろうか。良寛との関係も改めて考えるべきか。

 しかし何よりも、「事變以來」というこの文章が書かれた時期にこの文章の価値があろう。漱石が花の扱いの巧みなことなど、今更言うまでもないことだが、そうして「平淡な生活と高邁な思考とを一身に調和し、體現すること」を不可能と知りつつ追求することこそが、漱石文学を学んできたものの選ぶべき理想の人生ではなかろうか。青野季吉は確かに不可能とは言いながら静かにそれを追求しているように思える。全文はここから、








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