石井清堅

私は、今年の4月、80歳になりました。日本人成人男子の平均寿命を考えると、この先あまり…

石井清堅

私は、今年の4月、80歳になりました。日本人成人男子の平均寿命を考えると、この先あまり時間はありません。幸い、今のところ歯は31本残っており、肝機能、血液検査の結果も正常の範囲内です。現在、私も含めて社員8人の、超零細企業を経営しています。

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    会長、会社買うってよ。 そんな簡単に会社って買えるの? 我がシマニシ科研が誕生するまでのお話です。

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人間80歳になると何か新しく始めたくなります 〜やっぱりnote?

私は、今年の4月、80歳になりました。日本人成人男子の平均寿命を考えると、この先あまり時間はありません。 幸い、今のところ歯は31本残っており、肝機能、血液検査の結果も正常の範囲内です。 現在、私も含めて社員8人の、超零細企業を経営しています。 「おやまあ、80にもなってまだ働いているの!!」と云われてしまうかもしれませんが、実はこれが、私の健康法なのです。 世の中、いろいろ面白いゲームや趣味はあると思いますが、つぶれそうな零細企業を経営することほど知的な興奮を掻き立てるも

    • 私のルーツ2

      父、石井正輝の続きさて、私の父は、終戦直前まで長らくお世話になった三井物産を退社し、岐阜県高山市でやはり木材に関係する仕事に関わっていました。 城山木材という会社を作って社長になりました。 後に斎藤氏、桐野氏と組んで飛騨合板㈱というベニヤ板の会社を作りますが終戦後しばらくして退社して名古屋に戻ります。 世の中が落ち着いて来て、旧三井物産系のベニヤ板製造会社「東洋プライウッド㈱」が設立され正輝はそこの営業部長としてお呼びがかかって居ました。 東洋プライウッド㈱は、当時日本最

      • 私のルーツ

        20代後半のモスクワ駐在員の話から始まって、ほぼ現在に近いところまで来てしまいましたので、私の家族にもまだ話してない私の先祖の話をしておきたいと思います。 父方の話。私の父、石井正輝は明治32年に札幌郊外の現・千歳空港の辺りで生まれました。 正輝の父・石井正治は明治維新のころ越後の国の下級武士でありましたが、開拓民として北海道に入植し今の千歳空港の辺りで羊の牧畜を始めたと云われています。 残念ながら間もなく大流行した羊の口蹄疫のため羊が全滅し倒産しました。その後、もともと武

        • お酒と私

          もし、この世にお酒が存在しなかったら私の人生は全く別物になっていたでしょう。 第一、「シーマロックス」という不思議な水に取り込まれてしまったのも、 「絶対二日酔いしない水があるんです。」というガンさんの一言が発端でした。 私が人生で最初にお酒を飲んだのは6歳の時だったといわれています。 私は覚えていませんが、父が懇意にしている骨董屋の人と自宅の2階で一寸した宴会をしていた時、6歳の私が父の周りをちょろちょろしていたので、うるさいと思ったのでしょうか、 「この子に盃いっぱ

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          コロナ過について

          私のnoteでは、20代後半から60代前半までの私個人の人生に起こった様々な出来事のうち、皆さんに興味を持ってもらえそうな事柄を選択して書いてきましたが、これからはあまり時代にとらわれないで、日ごろ感じたことも書きたいと思います。 新型コロナウイルスの蔓延について今、一番ホットな話題はまずこれでしょうね。 毎日、ラジオ、テレビ、新聞、ネットで溢れるような情報が氾濫しています。 1.コロナウイルスが日々変異してより強力な病原体になっていること。 2,切り札にはワクチンがあっ

          コロナ過について

          神の水

          物の弾みでというか、いつの間にか巻き込まれて福島県小野町の工場を一つ抱え込むことになった私は、昔のラグビー部の仲間に助けられて、2001年4月2日、新しい株式会社シマニシ科研を発足させます。 私自身はまだ会社勤めの身ですから、社長はガンさんの名前にしました。 まさに名前だけの社長で設立総会に出席しただけで、その後、2004年7月に私が引継ぐまで一日も出社しませんでした。 旧・シマニシ科研株式会社を新・株式会社シマニシ科研と改称して会社を設立すると、 「嶋西先生とは随分一

          重荷を背負い込む

          ついつい、シマニシ科研株式会社福島工場落札の資金調達を引き受けてしまった私はその日のうちに大阪に飛びました。 私の話を聞いてくれた友人の中には、「面白い俺にも出資させろ。」という人と「まだ今なら止められるからこの話断りなさい。」という人に分かれます。 でも私の腹は決まっていました。そのとき私は、59歳で36年勤務した繊維会社の子会社の社長をしていましたが、この先何年も会社に居られるわけではありません。 日本人の60歳台はまだまだ引退するには元気がありすぎてあと20年近く何を

          重荷を背負い込む

          孤高の求道者

          私は40年勤務した繊維メーカーを64歳で退職しますが、その5年前に不思議な縁で次の新しい仕事に巻き込まれていきます。例のガンさんが持ち込んだ「絶対に二日酔いしない水」につられて飛鳥山のシマニシ科研株式会社を訪問しました。 薄暗い魔窟のような事務所で、その人はニタニタ笑っていました。 シマニシ科研株式会社社長、嶋西淺男氏は大正15年(1926年)和歌山県に生まれ,第二次世界大戦終戦直後の混乱の中で大阪薬専(現大阪大学薬学部)を卒業しました。住友商事大阪本社に就職しましたが実

          孤高の求道者

          怪人ガンさん再登場

          それは20年ぶりの再会でした。30歳でモスクワ駐在員を卒業して、本社の輸出部に帰任しましたが、そのとき私のロシア語教師にして、当社の嘱託を務めていたガンさんとは別れました。その後風の便りに、当社の嘱託を辞して自由気ままなロシア語専門家として日本に帰国し、大阪で暮らしていることは分かっていました。 インドネシアから51歳で大阪府高槻市に本社のある包装フィルムの会社に帰ってきた私は、営業部隊の大阪事務所がある中ノ島の三井ビルに向かって歩いていました。 住友銀行本店の前まで来たと

          怪人ガンさん再登場

          アメニティー・シビル・エンジニアリング(ACE)事業って何?

          3年ぶりに本社に復帰した私を待っていたのは、新事業部門でした。つまり繊維事業、プラスチック事業のような本業から離れたところで新しく事業を起こすわけですから、社内の誰がやっても初めての挑戦ということになります。今回はその中のACE事業でした。 「アメニティー=快適な」、「シビル・エンジニアリング=土木工事」と直訳しても何をするのか良くわかりません。もともと土木工事を施工する能力は当社内にはありません。 色々問い詰めると、現在世の中で行われている土木建築は環境に優しくないものが

          アメニティー・シビル・エンジニアリング(ACE)事業って何?

          修羅場

          絶対にこの会社を業界No1の会社にすると決めましたが、内容を検討するにつれて容易ではないことが判ってきました。当社は売上げおよび利益はいずれも業界3位で東洋紡フィルム部門と3位の座を賭けて争っていました。 一位は、二村化学。二位は、東セロ(旧東洋セロファン)。食品包装フィルムの業界はセロファンメーカーから始まっています。私の会社も旧大日本セロファンを買収して子会社化したものです。 食品包装フィルム業界の主力用途は袋物ラーメン、レトルトパック、パン、お菓子などですが、日清食品や

          ピラミッド クライマーズ

          インドネシアに7年間出向して、無邪気に頑張った私に本社が出した辞令で、鈍い私にも判りました。つまりこの会社が運営されているルールは実は昔からあったのですが、その方面に鈍感な私は今頃気がついたのでした。 当社の覇権は、生産技術系、工務技術系、研究開発系で争われていて、補欠として営業系、総務経理系、加工技術系、経営企画系がありました。人事採用も新卒採用は、120人理科系、80人文科系というのが私の同期です。 その頃、本社の社長は日ごろ、 「会社の中心は完全な製品を世に送り出す工

          ピラミッド クライマーズ

          得意冷然、失意泰然

          やや聞苦しい自慢話インドネシア滞在7年目になった頃は、私のキャリアの中でも最も幸福な時期でした。 赴任するとき、「この会社を、誰か買いたい人が出てきたらなるべく高値で売って来て欲しい」とまで云われてやって来た駄目子会社のITS社は、日系合弁として最も成功した帝人の子会社、TIFICO社を売り上げ、利益で抜き去ってトップに躍り出ました。 直近の5年間は60ヶ月連続増収増益を達成していました。 そうなった理由は、いくつかあります。 1.TIFICO社がポリエステル・フィラメ

          得意冷然、失意泰然

          インドネシア グルメ 2

          プンチャック峠の茶店ジャカルタからバンドンに車で行くと、行程の真ん中ほどで、プンチャック峠に差し掛かります。プンチャックとは「頂上」という意味ですからここが一番標高が高いというわけです。標高が高いので朝晩いつも霧が出て、紅茶の栽培の適地になっています。 一休みしてお茶を頼むとガラスのコップに金属の取っ手を嵌め込んだ器に暖かい紅茶が出てきます。驚くのは、飲むと普通の紅茶ですが、その香りが素晴らしく甘い香りなのです。 そこで取れたお茶の葉だと思いますが、香りと実際に飲んだときの差

          インドネシア グルメ 2

          バリ島 作られた神秘の楽園

          私はインドネシアに7年ほど出向していましたが、世界的に有名なリゾート地、バリ島には数回行きました。 家族旅行で行ったのは1~2回でしたが、出張名目でインドネシアに来て、ついでにバリ島観光というのはよくあるパターンで本社の偉い人やらジャカルタの取引先を招待して行きました。 アテンドする側のポイントは、当時、公的な交通機関があまり無くて、タクシーも当てにならず、レンタカーも一般的でなかったので、いつでも行きたいところに行くための白タク業者を調達することでした。 彼らの1日の売り上

          バリ島 作られた神秘の楽園

          インドネシア グルメ

          果物の王国インドネシアに赴任して、最初に教えられたのは、「生ものは食べるな!」と云うことでした、勿論、バナナ、パパイヤ、マンゴ、ドリアン、マンゴスチン、ジャックフルーツ、ランブータン、ライチーなどなど無数にある果物は別です。 中でもドリアンは、果物の王様と云われ、最も高価な果物で冷蔵庫でよく冷やして食べるとアイスクリームのような食感で現地ではドリアン中毒になるぐらい入れ込む人も居ました。 ただし、臭いも強烈で「トイレの中で食べているようだ」という人も居ました。 冷蔵庫に入れ

          インドネシア グルメ