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私のルーツ

20代後半のモスクワ駐在員の話から始まって、ほぼ現在に近いところまで来てしまいましたので、私の家族にもまだ話してない私の先祖の話をしておきたいと思います。

父方の話。

私の父、石井正輝は明治32年に札幌郊外の現・千歳空港の辺りで生まれました。
正輝の父・石井正治は明治維新のころ越後の国の下級武士でありましたが、開拓民として北海道に入植し今の千歳空港の辺りで羊の牧畜を始めたと云われています。
残念ながら間もなく大流行した羊の口蹄疫のため羊が全滅し倒産しました。その後、もともと武士であったので余市市に巡査の職を得ましたが夫婦ともに結核に感染して若くして亡くなってしまいました。
石井正治には5人の子供がいて、長男は夭逝し、長女・照子は、のちに歌人となって若山牧水に師事します。
次男・正輝は13歳にして孤児になりましたが、弟(正夫)と妹(千代)を養うため小学校卒業と同時に三井物産㈱の札幌支店に給仕(御茶酌み)として就職して働き始めました。
境遇を憐れんで応援してくれる人が居て、給仕として勤めつつ、後2年間、高等小学校に通わせてもらうことが出来ました。

モンスター:三井物産

戦前の三井物産は、日本一の会社で戦後「総合商社」という日本独自のシステムで日本の復興を支えた三菱商事、丸紅、伊藤忠、住友商事、日商岩井、兼松江商、安宅産業等々の先駆者として君臨していました。
業容はこれらの2位以下の商社10社を合計しても三井物産には届かないと云われていました。
政治的にもかなりの癒着があり、所謂「政商」化してゆきます。例えば満州の植民地化を画策する関東軍の資材調達・供給を一手に握っていました。

私の母方の叔父、森川正雄は、徴用で関東軍の炊事当番長として出征しましたが、戦後、「弾さえ飛んでこなければもう一度満州に行きたい!」というぐらい関東軍の炊事当番長という立場を楽しんでいました。
例えば、関東軍兵士には年に一人当り1本の羊羹が支給されることになっていましたが、三井物産が「虎屋の羊羹」を関東軍兵士と同数の何万本か調達して船で送ってきます。
羊羹は倉庫に積み上げられたままなので、私の叔父はそっと市中でタバコやお酒と羊羹を交換して全員に配ります。
叔父さんの評価は鰻登りで2等兵の階級のままでその基地のスターのようなポジションになります。
一度若い将校が叔父さんを殴ったことがありましたが、その将校の小隊が全員下痢をして寝込むことがあってから、誰も叔父さんに手出しが出来なくなりました。

第二次大戦も終わりに近くなって、ある朝、「全員、第一装軍服で営庭に整列!」という号令で起こされました。
叔父さんは何かピンと来たといいます。
軍隊では、食事も、トイレも、着替えもすべて早い方がいいのです。下着のボタンは全部止めないで上着のボタンだけ掛けて真っ先に並びました。
「ここから列の前半は本日輸送船に乗船して帰国する。」
「あとは第2次の輸送船に乗る。」
ということになって、叔父さんは帰国しました。
結局、第2次の船は来ず、残った人は捕虜となってシベリアで強制労働させられることになりました。そのように私の叔父さんは要領よく強かに生き延びてきました。

その時期、日本人は誰もが一生懸命に生きてきました。三井物産に就職した父は、生まれつきの勤勉さと明晰な頭脳を活用して三井物産木材部のなかで重用され正社員の資格を獲得していました。
終戦まじかの昭和19年には、40代で課長職になっていました。
三井物産の課長は大変な高給取りで、「ボーナス1回分で家が一軒建つ」といわれていました。
金釘流の筆跡も書道家・長谷川流石先生に師事して見事な字を書くようになりました。
俳句を初めて、石井赤城と号しました。戦後、趣味で始めた骨董品、日本刀の収集もこのころ始めたと思われます。
このころが正輝の人生の中で最も幸福な時期であったと思われます。

木材部の仕事

三井物産木材部は、北海道の材木を仕入れて材木商に卸していましたが、仕入れのやり方は豪快で木の生えている山ごと買い取って木材を切り出し冬期は橇に積んで麓に下ろし(橇の通る道を木馬道といった)、近くに川があれば筏を組んで集積地に運びました。
近くを川が流れている山は高値で取引されました。
正輝は、地主に挨拶してから巻き尺を手にして買い取る山をスパイラル状に登山し、道々木々の幹の太さを記録しながら頂上に至ると、その山に生えている樹の種類と伐採後の石高(材木の体積)を正確に推計することが出来ました。
それぞれの樹の種類ごとの相場と石高を掛けて山ごとの材木価格を計算します。
麓の地主の家に戻って酒を酌み交わしながら徹夜で価格交渉をします。
すなわち山の土地代金は材木の代金に含まれていました。
腹巻の中には当時珍しい百円紙幣が入っていたといいます。
山ごと木材を仕入れたため、三井物産は膨大な山林を抱え込むことになります。
戦後の財閥解体でばらばらにされた三井物産の山林は、三井農林㈱が引き継ぐことになり今日に至っています。
正輝は一貫して材木部に所属し最終的には名古屋支店木材部に在籍していました。
木曽の檜、杉を扱う名古屋支店は木材部門の中核でした。
もうすぐ終戦というとき、正輝にシンガポール支店転勤の辞令が出ました。当時、日本から東南アジアに向かう船は連合軍によってほとんど沈められていましたから、「死ね」と云われたのと同じことです。
すでに4人の子持ちであった正輝は仕方なく退職願を出して長年お世話になった三井物産を退職します。
当時、三井物産の辞令は国家の戦時動員令と同じ強制力があり、辞任以外に転勤を拒否する方法はありませんでした。

戦後の疎開生活

名古屋にはゼロ戦で有名な中島発動機㈱の工場があったため、米軍のB29爆撃機による徹底的な空襲を受けました。終戦直後、焼け野原となった名古屋では食料も手に入りません。
そこで一家上げて岐阜県高山市に疎開しました。
骨董趣味の縁で高山市馬場町の広田骨董店の離れを借りることが出来ました。
高山市には6年ほど居て、世の中が落ち着いたころ名古屋に帰ってきました。
子供は6人に増えていてにぎやかな引っ越しです。
私は小学校5年生の新学期から名古屋市立鶴舞小学校に転向しました。
人に故郷はと聞かれると名古屋と答えますが、高山市は第二の故郷として今も懐かしさを感じています。

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