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孤高の求道者

私は40年勤務した繊維メーカーを64歳で退職しますが、その5年前に不思議な縁で次の新しい仕事に巻き込まれていきます。例のガンさんが持ち込んだ「絶対に二日酔いしない水」につられて飛鳥山のシマニシ科研株式会社を訪問しました。

薄暗い魔窟のような事務所で、その人はニタニタ笑っていました。

シマニシ科研株式会社社長、嶋西淺男氏は大正15年(1926年)和歌山県に生まれ,第二次世界大戦終戦直後の混乱の中で大阪薬専(現大阪大学薬学部)を卒業しました。住友商事大阪本社に就職しましたが実家が水害に遭ってその再建のため退職し昭和26年から10年ほど薬局を経営します。その後、昭和38年からは数社の顧問をしながら鉱物科学の研究生活に入ります。昭和46年に株式会社五大鉱業常務取締役(研究担当)となり、大洋漁業などとの共同研究を行いますが昭和50年に退社して無機化学の研究を続けていました。

嶋西氏と「バーミキュライト」との出会いは、当時終戦直後の日本で世界の情報に飢えていた人達によく読まれていた「リーダーズダイジェスト」1948年7月号に載っていた「鉱石中一番の変り種」という記事でした。
その頃日本ではバーミキュライトは全く役に立たないダメ鉱石という評価でしたが、世界では保温性、断熱性、保水性、通気性などに着目した研究が活発に行われていて、日本における研究は遅れていました。
また「バーミキュライト」は多種類のミネラルを含有し、それらミネラル自体或いはその酸化物が生体内触媒として有効な働きをする事も新鮮な知識として嶋西氏の知的な興味を刺激しました。30年に亘ってその研究に没頭することになります。

神の水

調べれば調べるほど「バーミキュライト」は奥深い不思議な鉱物でした。嶋西氏はどんどん引き込まれていきます。当時「バーミキュライト」は原子炉の冷却排水の処理に使われるイオン交換体の原料として研究が進みますが、
嶋西氏が開発した物は、「焼成バーミキュライトを硫酸で溶かして多種類のミネラルを抽出する」というもので、「シーマロックス」と名付けられました。
「バーミキュライト」は花崗岩の風化体でありその中の黒雲母が70種類近い多種類のミネラルを含んで居ることから、「シーマロックス」は単なる廃水処理用途から、微量要素肥料として魔法のような効果を表す「液体肥料」や戦後、農法の変化によって不足しがちになった栄養素の「ミネラルサプリメント」としての飲用分野、お風呂に入れると温泉効果が凄い「入浴材」など次々に活用の間口が広がっていき、昭和60年(1985年)にシマニシ科研株式会社を設立して本格的な事業展開を目指します。

バブル経済の真ん中で!

会社は出来ましたが工場建設には先立つものが問題でした。
この「天然ミネラル群溶液」は本当に優れた発明であることを信じて疑いませんでしたが、嶋西氏の構想は将来タンカーで世界中に輸出することも視野に入れているほど雄大でした。
工場建設地は世界的にも優良なバーミキュライト鉱脈のある福島県中通り地方に決めましたが年間数百トンの製造設備には何億というお金が掛かります。
工場建設は、1986年に始まりますが着工までには一寸したゴタゴタがありました。工場用地の取得、年間数百トンの生産能力を前提とした工場建設には数億円の資金が必要で最初スポンサーに名乗りを上げた会社は工場建設資金の膨張に怖気ついて、中止を提案します。
其処に現れたのが、七海グループ会長の安田氏でした。
七海グループはバブル経済の絶頂期に最も活躍した会社です。会長の安田さんは飛島建設の総務部長時代に大手都市銀行から3000億円の資金を調達して会社を飛び出し、小糸製作所や蛇の目ミシンの株の仕手戦に参入し蛇の目の副社長にまでなった人ですが、同時進行で福島県いわき市で一大リゾート開発を考えていました。
そのリゾート開発はゴルフ場、競馬場、ヨットハーバー、温浴施設、観光ホテル、中には鮭が釣れる釣堀まで有るというものですが、バブル経済の最盛期にはそれぐらいのことは普通のプロジェクトとして誰も疑わない時代でした。
工場建設資金で行き詰まっていた嶋西氏に安田会長がこう云い放ちます。

「お金のことは任せて、研究開発に集中してください。貴方の新工場のミネラルは福島のプロジェクトで全部使うので他所に販売する必要はありません。」

確かに、淡水プールに「シーマロックス」を入れれば。海水魚の鮭でも育ちます。
3000億円の資金を運用する安田さんにとって、新工場建設の5億円は毎日呼吸のように出入りする金額でしかありません。1986年、会社設立の翌年、シマニシ科研株式会社の福島工場は完成します。
七海グループのバックアップのお陰で「シーマロックス」のプロモーションは大いに進展しました。海外の環境フェステバルに参加して汚水処理の実験を披露したり、メキシコ国立大学のイランゴバン教授との提携が発表されました。

嶋西社長にとって、会社の経営に煩わされず研究開発に集中できる最も幸せな時間が過ぎます。しかしながらこの状態は長続きしませんでした

突然、バブル崩壊

シマニシ科研福島工場の操業開始から5年後に、日本経済を熱狂の渦に巻き込んでいたバブルは崩壊します。安田会長の七海グループも破綻に追い込まれます。3000億円貸し込んでいた大手都市銀行は債権回収に狂奔し始めます。
安田会長はこれ以上の援助は出来ないことを宣言して、今後は独立採算で経営するように求めますが、今まで販売にあまり熱心でなかった付けがここで顕在化します。

そのとき、札幌の産廃業者のY氏が新しいスポンサーとして登場しますが、資金注入を約束して社長に就任したY氏は、バブル崩壊の後遺症で北海道拓殖銀行の破綻に巻き込まれて資金注入の約束を果たせなくなります。社長のY氏、会長の嶋西氏、顧問になっていた安田氏の間で新しい軋轢が生まれて1999年会社は清算することになります。

福島工場の争奪戦

会社が清算すると、弁護士が管財人として任命され、資産の処分と債権者への補償を仕切ります。財産と云っても福島の工場だけですから、この工場の競売が行われました。
Y社長派も嶋西会長派もこの工場は手に入れたいと思いました。
複数の応札があって嶋西派が1番札を獲得します。
ここで、何故か私が登場します。
1999年10月に嶋西氏とガンさんが私の自宅を訪問します。
福島工場争奪のいきさつを説明した後、

「競売で1番札は取れましたが、1週間以内に入札の金額を用意しないと権利は流れます。しかしこの金額を調達する目処が立っていません。1億円弱の資金調達をお願いできますか?」

と言い出します。競売に札を入れておいてその金額を用意してなかったという話にあきれてしまいましたが、その頃、「絶対に二日酔いしない水」のヘビーユーザーであった私は、

「サラリーマンの私にそんなお金がある筈はありませんが、私の友人には金持も居ますので聴いて見ましょう!」

と云ってしまいました。

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