見出し画像

私のルーツ2

父、石井正輝の続き

さて、私の父は、終戦直前まで長らくお世話になった三井物産を退社し、岐阜県高山市でやはり木材に関係する仕事に関わっていました。
城山木材という会社を作って社長になりました。
後に斎藤氏、桐野氏と組んで飛騨合板㈱というベニヤ板の会社を作りますが終戦後しばらくして退社して名古屋に戻ります。

世の中が落ち着いて来て、旧三井物産系のベニヤ板製造会社「東洋プライウッド㈱」が設立され正輝はそこの営業部長としてお呼びがかかって居ました。

東洋プライウッド㈱は、当時日本最大のベニヤ板製造会社であり、南洋のラワン材を名古屋港に荷揚げし、ベニヤ板に加工していました。

おりしも、戦後大流行したパチンコ台の釘を打つボードとしては、温度湿度で変形しないベニヤ板に勝るものはなく、爆発的に売れていました。
ベニヤ板といっても、13枚の薄板を木目を90度ずらしながら尿素樹脂のノリで熱圧着したもので、天然の木材の何倍もの強度がありました。

(ちなみにコリントゲームの台を垂直に立てたパチンコは、名古屋の正村商会の発明品で名古屋がパチンコ産業の中心地でした。)

55歳の定年で東洋プライウッド社を退職後は、自宅で木材取り扱いの「石井商店」を開業しました。三井物産が財閥解体で小さくなったといいますが、戦後急速に再統合の動きもあり大三井物産の力はある程度温存されていました。
三井物産の課長時代に可愛がった部下の人が幹部社員になっていたこともあって、年に何度かは「石井商店」に仕事が回ってきていたようです。

重要文化財「備前長船」

暇になったので、趣味の日本刀収集も本格化し、「日本刀剣美術保存協会」の名古屋支部長を勤めたりしていました。
中には、無銘ながら正宗の小刀、重要文化財に指定された備前長船の大刀など十数振りが刀箪笥に収まっていました。

個人の家に重要文化財があると何が起こるかというと、毎年1回地元の消防署から「所在確認」の人が来ます。(つまり近所で火災が発生したときには、重要文化財を最優先で持ち出す義務が消防署にあるということで、どこにあるかを毎年確認に来るのです。)

父も、何やら得意顔で年末には、一升瓶を数本、消防署に届けたりしていました。

ある時、消防署から刀箪笥を金属の板で囲って防水仕様に出来ないかと言ってきましたが、古いものでしたが、刀箪笥そのものにも骨董的な価値があるので無理とか言ってもめたりしていましたが、その後突然、我が家の前に消火栓が設置されたのにはびっくりしました。

早すぎた父の死

昭和34年の1月ころから、食事の好みが突然変わりました。夏みかんなど酸っぱいものが好きでしたが、もういらないと食べなくなりました。自分でも異変を感じて赤十字病院に検診に行き、そこで胃がんを宣告されました。手術をしましたが、ガンは胃の壁を付きぬいて転移していて、取り切ることは出来ませんでした。

翌年の2月、大学受験で東京に行った私に付き添ってきてくれたのが最後の旅行となりました。

春も過ぎ、梅雨も終わりに近い6月の中ごろに、父は逝きました。

その時、「振り米ということもある」と一言漏らしました。

東北地方の古い御まじないで、貧しい家で病人が出ると、当時は貴重品であった白米を竹筒に入れて耳元で振って、病人を元気付けたそうです。

家族も初めて聞く言葉でした、心にしまい込んで家族にも話してなかった、貧しくつらい幼少期の記憶がひとかけら吐き出されました。

苦しい生い立ちから、よく努力して這い上がり、戦争に翻弄されながら奮闘してきた一生でした。享年61歳。

(合掌) 






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?