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重荷を背負い込む

ついつい、シマニシ科研株式会社福島工場落札の資金調達を引き受けてしまった私はその日のうちに大阪に飛びました。

私の話を聞いてくれた友人の中には、「面白い俺にも出資させろ。」という人と「まだ今なら止められるからこの話断りなさい。」という人に分かれます。
でも私の腹は決まっていました。そのとき私は、59歳で36年勤務した繊維会社の子会社の社長をしていましたが、この先何年も会社に居られるわけではありません。
日本人の60歳台はまだまだ引退するには元気がありすぎてあと20年近く何をして過ごすかはまだ何も決まっていませんでした。
この零細企業の経営に関与しよう、そのための訓練はダメ子会社の再建で充分積んできた筈ではないのか!
問題は2つ有って、私自身まだサラリーマンをやっているので、すぐには経営に参画できないという事と、友人の出資を仰いだとはいえ自分が1銭も出さないわけには行かないということです。私の家内に老後の資金を全てつぎ込むことをなんと説明するか悩みました。

1995年1月の阪神・淡路大震災の時、私の一期上で高級住宅地の芦屋にマンションを購入した先輩が入居して2ヶ月目にその新築マンションは1階部分が坐屈して、全室電気・ガス・水道が使えなくなり、建直すしかなくなりました。
ローンはまだ始まったばかりです。これに比べれば私の投資はまだまだ幸運といえましょう。
こんな言い訳を家内は案外すんなりと納得してくれました。
家内はあまり金銭的な欲のない人です。本当に助かりました。

無事に落札の手続きは完了しましたが、肝心の嶋西さんが企業活動を再開しません。落札資金の半分は謂わば私の個人的な借金です。

「早く営業再開してください。借金は返さなくてはいけません。」
「うーん!私も74歳になって今更という感じも・・・・」
「冗談じゃなくこのお金は私の個人的な借金ですから、貴方は借用証書と担保を私に入れてください。」
「今のところ担保を差し入れる目処は立っていないのだけど・・・」
「では、福島工場は一旦私の名義で登記しますがよろしいですか?」

というようなやり取りがあって、最終的に福島工場は私のものになってしまいました。
私は、まだサラリーマンをしながら、巨大な(と云っても、2万平方メートルの敷地に建屋2棟と巨大な原料倉庫、製品のタンク群がある程度ですが)生産工場を背負い込むことになりました。
とにかくこの工場を稼動させて利益を上げないといけません。前途を考えると暗澹とした気持ちになりました。小なりといえども会社を運営するには、経理、営業、工場管理のできる人達を揃えなくてはいけません。

愉快な東レ大阪ラグビー部

今まで私は、なるべく会社名や個人名を出さないでこのnoteの原稿を書いてきましたがここだけは、実名で書きます。
あまりにも楽しかった「東レ大阪ラグビー部」の古き良き思い出のために!
私が新入社員として就職した会社は東洋レーヨン株式会社(現・東レ株式会社)でした。
入社後2ヶ月ほどの研修期間があって、大阪事務所に配属されました。大阪府高槻市にある独身寮に入ります。
当時の「東洋レーヨン」の人事採用基準は国公立大学からは体育会系運動部のレギュラークラス、私立大学からは成績優秀なエリートを採ることになっていました。
「まあ東大なんかに入学できたのなら成績は悪くても頭が悪いと云うことは無いのではないか!?」という訳です。
大学ではアイスホッケー部の第1ディフェンスをやっていた私は174cm、75kgのターザンのような体型でした。
週末、独身寮の中庭で日向ぼっこをしていると同期入社で広島大学ボート部主将の東君がやってきて、

「明日、日曜日に会社の中之島寮で飲み放題のすき焼きパーティーが有るけど来る?」

と云って来ました。
新入社員の週末は暇です。参加費無料というので、勿論参加することにしました。
東君は、背筋力200kg以上有って、マイク・タイソンのような筋肉を誇示していました。
当日、会場につくと大広間にすき焼き鍋が8個ほどセットされており、30人ぐらいの人が参加していました。
会社の寮ですからお肉はほとんど原価、お酒も格安でしたが誰がお勘定を払うかは謎のままでした。
お酒は1升瓶でお肉もお替り自由で信じられないような量が胃の中に消えてゆきましたが、2時間ほど経過した時に主催者が立ち上がって、

「皆さん、充分にすき焼きを食べましたか?」

と大声で聞きました。すっかり出来上がっていた私達は、

「充分頂きました。ごっつあんでーす!」

と一斉に唱和します。

「それでは、皆さんは本日をもって東レ大阪ラグビー部の部員になりました!」
「来週の、日曜日は三井グランドで練習しますから必ず参加してください。」

と宣言しました。要するにここで無料ですき焼きを食べた人は、自動的にラグビー部員になっていたのでした。
「東洋レーヨン」では各工場にはラグビー部がありましたが、営業の中心の大阪事務所にはラグビー部が無く、当時大阪事務所在籍の、北海道大学ラグビー部主将、神戸大学ラグビー部主将、慶応大学のロック、一ツ橋大学のフッカー、関西の高校ラグビーベストイフィフティーンになったスクラムハーフとバックローセンターなどのラガーがなんとしてでも東レ大阪のラグビーチームを作るために仕組んだパーティーなのでした。

リクルートされた者達は、柔道部4人、空手部、相撲部、ボート部、アイスホッケー部、野球部など、ラグビーではなくて、実業団柔道大会なら決勝までは行けそうな面々でした。

「うーん! 試合中に乱闘にでもなれば近鉄や新日鉄にも負けそうに無いな。」

と云ったら、

「ラグビーは紳士のスポーツです。そんなことは絶対に起こりません!」

と厳しく注意されました。

それでも、スポーツ界の各分野で鍛えられた面々です、体力、気力、闘争心、協調性は備えています。最初にラグビーのルールを教えられます。

1.このゲームはボールを相手の陣地にタッチしたら得点できます。
2.前には投げられませんが蹴ることは出来ます。後には投げられます。
3.相手のボウルは腕力で奪う事はできます。奪ったボウルは、近くのラグビー経験者に渡してください。 

以上です。

物凄く簡単なルールを教えられて、翌日にはもう練習試合といういい加減さです。
つまりラグビー部のOBが集まって試合がしたくて人数を揃えるために「すき焼きパーティー」を仕組んだのでした。
それでも平均体重100kgを超えるフォワードは結構強力で大学の2部リーグのチームとなら互角の勝負でした。
試合の後は勿論二次会で大酒盛りとなります。
これは私がモスクワ駐在員で抜けるまで続きました。
大阪事務所に帰任してもまだチームは健在でした。
東レ大阪ラグビー部は私の第2の青春時代でした。

新シマニシ科研を立ち上げる。

サラリーマンをしながら新会社を立ち上げるにあたって、東レ大阪ラグビー部のOBを頼る以外ありませんでした。ボート部の東君、ラグビー部の小玉君、東君が呼んできた経理の経験者の3人です。
東君は東レを中途退社して宅地建物取引主任の資格を取って不動産業者を開業していました。

「お金がないので無給のボランティアでお願いしたい。交通費と仕事の後の1杯は支給する。」

という無茶苦茶なお願いに、「やれやれ、話を聞かなきゃ良かった。」と言いながら承知してくれました。
まずは工場の再開です。東君が福島へ行って工員さんを3人雇いました。
こうして私を除く6人で会社をスタートさせました。

2001年4月2日、会社の前途には暗雲が垂れこめていました。


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