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ピラミッド クライマーズ

インドネシアに7年間出向して、無邪気に頑張った私に本社が出した辞令で、鈍い私にも判りました。つまりこの会社が運営されているルールは実は昔からあったのですが、その方面に鈍感な私は今頃気がついたのでした。
当社の覇権は、生産技術系、工務技術系、研究開発系で争われていて、補欠として営業系、総務経理系、加工技術系、経営企画系がありました。人事採用も新卒採用は、120人理科系、80人文科系というのが私の同期です。
その頃、本社の社長は日ごろ、

「会社の中心は完全な製品を世に送り出す工場に有り、営業は押し込み販売か、叩き売りしか能がない」

と云っていましたので、営業の人間は技術系の上司と仲良くやるしか道は無かったわけです。
しかしながら、私は今さらこの方程式に反抗するとか寄り添うとかする気持ちをなくしていました。
新しく赴任した食品包装フィルム、工業用フィルムを生産する当社の子会社に全力で没入しようと決めていました。

子会社いじめ

インドネシアから帰国して、転勤先の子会社に顔を出しました。
この会社の社長席は本社の土浦工場の工場長の天下り先です。前のジャカルタの合繊メーカーが滋賀工場のナイロン製造部長の天下り先であったように生産技術系の人達には落ち着き先が用意されています。工場長、製造部長だった人が営業について何か自分の意見が有るわけではありません。

「フィルムは初めてですが販売についてはお任せいただいても大丈夫です。」

と一発かますと、

「極めて優秀と聞いています。よろしくお願いします。」

と自然体の反応がありました。この人を喜ばせてあげたいと本当に思いました。

最初のトラブルは、本社が月に一回、子会社の経営状況をヒアリングする日に起こりました。本社には子会社を管理する関連事業本部という部署が有り、毎月本部長が乗り込んできて経営状態を報告させます。
業績が思わしくなければ、聞くに堪え無いような罵倒が始まります。
その月は可も無く不可もない結果で無事に終わりましたが、その後、本部長と鞄持ちでついてきた部長格の担当者を接待することが慣例化していました。
当社の本社は大阪府高槻市の主力工場の中にありました。田舎ですから接待と云ってもその辺の居酒屋ぐらいしかありません。
接待側は、社長、工場長、経理部長それに営業責任者の私でした。
日本橋の親会社の本社ビルに入っている子会社の場合は、銀座、六本木など場所には事欠きません。
大阪の片田舎、高槻市の居酒屋での接待には、本部長は最初から不満ありありで酒が入るにつれて些細なことを言い立てます。
当社の社長も工場長上がりですからそれを受け流すことが出来ず正面から反論します。

大事なことは、社長は生産技術系の元エリート、本部長は加工技術系の成り上がり者でお酒が入れば現在の地位に関係なく対立は先鋭化します。関連事業本部長といえども生産技術系の人の人事を左右できません。
本部長が途中で席を蹴って呼ばせたタクシーで滋賀県の自宅まで帰ってしまいました。
鞄持ち部長も勿論一緒に車に乗ります。この晩の会計担当者の経理部長が鞄持ちにそっとタクシー券を渡していました。
「上は上、事情はどうあろうと下同志は今後も仲良くやろうね」というわけです。

翌日、社長に会って云いました。

「本部長といえども社長に手をつけられないのは判っていますが、これからは業績で見返すしかありません。工場には無理を言いますが鬼になりましょう。」
「勿論、そうお願いしたい。」

これで私の計画は順調に滑り出しました。

営業部門の掌握

ジャカルタからいきなり来て大改革に着手するにはあまりにも準備不足です。
私の管轄する営業部門は、
大阪中之島の本社ビルの中にある営業部と名古屋、東京の支店営業部の三つに分かれていました。本社機能は高槻の本社工場の中にあるので4箇所を行ったり来たりして移動が大変でした。支店別の売り上げを見ると東京と名古屋の売り上げが思わしくありません。
1年ほど様子を見て、東京支店のトップの次長を大阪に移動させ、東京には私が移駐することにしました。名古屋には、東京の事務所で一番優秀な部員を移動しました。
大阪は私が1年居てやり方を全員が理解していました。私自身、東京に出て関東、東北、北海道の大市場を担当し、業界の会合にも月1回出席して業界の実態を体感してみたいと考えました。

物を貰って怒り出す人は居ない

次に私の部下は3つの営業所合わせて20人で、その内女性は6人でした。
部下全員から信頼される上司になるために、2つのアイデアを実行しました。

人事部から部下のプロファイルを貰って、女性の誕生日には必ず自腹でチョコレートを1箱クール宅急便で送りつけました。ゴディバは誰もが知る有名ブランドです。添えたカードには日ごろの精勤に対する感謝の言葉を自筆で書きました。
女性を掌握するのに1年は掛かりませんでした。
男子職員とは毎週帰宅時、会社から駅までにある居酒屋で一杯だけ飲むことにしました。
それが時には週3回に及ぶこともありましたが、もともと酒好きの私には負担ではありませんでした。。お勘定は私が一人払いです。私の給料を全部つぎ込んでもこの子会社を東レグループで一番優秀な子会社にする決意です。
毎週上司から奢られるのも良しとしない部下も居るはずです。
部下の精神的負担を軽くするために「宴会規則」を作って営業部に配布しました。

1.宴会は翌日の勤務に支障が出ない範囲で行う。自分にとっての適量をあらかじめ登録し
適量を越えないように管理する。その人の適量は社員有志で構成する適量小委員会で審査する。
2.お勘定はそのとき参加したメンバーの中で年収の一番高い者が一人払いする。

こうして毎週の宴会は滞りなく進行しました。また、飲み会には必ず私に声が掛かりました。
この事はやがて知られてしまいます。私が本社の関連子会社業績報告会で当社が行った発表の中で話題の一つとして報告しました。
そのあと講演依頼が3つ程来ました。

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