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インドネシア グルメ 2

プンチャック峠の茶店

ジャカルタからバンドンに車で行くと、行程の真ん中ほどで、プンチャック峠に差し掛かります。プンチャックとは「頂上」という意味ですからここが一番標高が高いというわけです。標高が高いので朝晩いつも霧が出て、紅茶の栽培の適地になっています。
一休みしてお茶を頼むとガラスのコップに金属の取っ手を嵌め込んだ器に暖かい紅茶が出てきます。驚くのは、飲むと普通の紅茶ですが、その香りが素晴らしく甘い香りなのです。
そこで取れたお茶の葉だと思いますが、香りと実際に飲んだときの差が大きく、今まで経験したことにないお茶でした。
その施設は、お土産物売店、レストランの複合施設でかなり大きな建物でした。

インドネシアのレストランで最もポピュラーな料理はサティ(串焼き)と云って、串刺しにする肉の種類によって、サティアヤム(鶏)、サティカンビン(ヤギ)、サティアンジン(犬)などが有ります。細長い鉄の炉に炭火を入れて、日本の焼き鳥屋さんと同じ風景ですが、焼きあがった後に、ピーナッツバターのようなソースをベッチャリかけてきます。
一度でいいから、塩か醤油でやってほしいと思いました。
お祝い事のある家では、ヤギを一匹、中庭で解体して近所の人や親戚を集めて盛大なサティカンビン パーティーを行います。勿論、ヤギはメッカの方角に頭を向け正しいやり方で屠殺されます。これでこのサティは「ハラール」(清められた食べ物)に昇格しました。

最高級インドネシア料理店「オアシス」

ジャカルタには、誰に聞いても、「インドネシア料理ならあそこ」というお店がありました。「オアシス」は、レストランというよりは料亭で、1戸立ちのお屋敷がそのままレストランになっています。私も7年間で3回ぐらいしか行ったことはありません。

完全予約制で、いつも満席です。
門を入って車寄せで降りると玄関の間から緩やかなガメラン音楽が流れてきます。5人ほどの少人数編成のガメラン楽団が音を控えて演奏しています。この店のバックグラウンドミュージックはこれと客席にやってくる3人ほどのインドネシア歌謡の流しスタイルの2種類で、こちらはリクエストに応じてチップが必要です。
本場のバリ島のガメランはリズムが際立って緩急がありますが、こちらは常に眠たげなベースであまり主張しない抑えた演奏です。
玄関の右に「トペンの間」があり、席の支度が整うまでアペリチフを飲むバーになっています。
トペンは木彫りのお面のことで各地の伝統的なお面が数十個壁にかかっています。
その日のメニューはコース料理1種類で全てお任せです。こちらも伝統的な料理を自分で決めるほどの知識はありませんので、それで納得です。
席についてさてお料理が来ると、突然、民族衣装で正装した10人ほどの少女が中年の小母さんに引率されて現れます。
それぞれ一人が料理一品を盛り付けた大皿を右の手の平に乗せて、それを耳の辺りに高く掲げて一列に並んでいます。
客の前で最初の1皿から1人前を取り分けてくれるのは、先頭にいる小母さんで、客の全員に盛り付けると次の女の子が2番目の皿を差し出します。
こうしてショウアップされた前菜は終わります。
その後、いくつかのお料理が続きますが、前菜の印象があまりにも強烈で後は何が出たか覚えていません。

食後、庭に出て記念撮影などしてお開きになります。
この店では、お客さんは古い貴族の館に招待されてきたという感じの演出になります。

フランスとイギリスとオランダ

かって植民地であった、ヴェトナムとシンガポールとインドネシアを比べてみて、それぞれの宗主国の植民地統治の有り方が見えてきます。

ヴェトナムの宗主国フランスに対してヴェトナム人はノーを突きつけて独立します。
あまりいい関係であったとは思えません。
でもハノイに行ってみれば、かなりレベルの高いフランス料理店が町中に散らばっており、現代のベトナム料理にもフランスの影響は感じられます。
つまり政治的には失政だったかもしれませんが、文化的なものは色濃く残ったわけです。

次にシンガポールを統治した英国は、自分たちの統治を将来継承する優秀な中国人を、ケンブリッジ、オクスフォードに留学させてリー・クアン・ユーのような立派な統治者と旧宗主国との良好な関係を残しました。
上下水道のようなインフラを見てもしっかりしたものが残っています。
英国は世界中の植民地経営を行ってきたプロだったといえます。

インドネシアを350年支配したオランダは何を残したのでしょうか。
インドネシア中探してもオランダ料理の店をみつけることはできません。
(私もアムステルダムのレストランに一人で入ったことがありますが、量がとてつもなく多いという以外に料理には何の印象も残りませんでしたが・・)
ジャカルタの水道は問題が多く雨が降れば急に水の出がよくなるという具合で、完全に煮沸しなければ飲用には適しません。
(大統領の官邸周辺だけは、英国のテームズウォーター社(旧ロンドン水道局)が改良工事をしたと聞きました。)
下水処理にいたっては、その当時は完全な地下浸透式で、下水道というものは有りませんでした。

オランダのあと、3年間だけ占領した我が大日本帝国の残したものは、隣組制度、独立に対するさまざまな支援、そして日本人に対する好意的な国民感情などでした。

(このあたり、やや手前味噌になりました。)

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