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「体罰・すべての被害者たちへ捧ぐ」 第7話・怪談長編小説(note創作大賞2024・ミステリー小説部門応募作品) CW


スキー旅行


私たちは無事に冬休みを迎えた。駅前で待ち合わせ、それぞれ好きなお菓子や飲み物を買い込み、六人、いや七人でバスに乗り込んだ。紀香と彼氏、私と信玄、バナ先輩の横は空席があり、通路を挟んで幼なじみが座っている。もちろん、その空席にはヨウコ先輩が座っていた。
 
紀香と彼氏にヨウコ先輩のことを紹介したことはなかったが、ふたりとも感がいいのでなんとなく察知していた。バスの中は、例の不気味なメモの話で盛り上がった。
 
「これで、マキさんとホソカワもつながったってわけか」と、バナ先輩が納得したように言った。
 
大堀先輩とホソカワが親密な関係にあるのは明らかだった。マキも大堀先輩と『仕事』とやらで繋がっている。しかし、マキとホソカワの関係性を証明するものが、これまでなかった。紀香が拾ってくれた一枚のメモのおかげで、すべてがつながった。さらに、他のいわくつき教師たちも絡んでいることが、棚から牡丹餅ぼたもち式に浮き彫りになった。
 
「ヨウコは、気づいていたんだ」
 
バナ先輩は空席を見つめ、悲しげに言った。
 
『スキー場まで15分』と書かれた赤い看板が雪に埋もれて、下の方が見えなくなっていた。大通りでバスを下車した私たちは、街とは比べ物にならない雪深さに少々気後れしていた。
 
それぞれにバックパックを背負い、スキーケースを肩にかけ、スキー靴の入ったバッグを手に持っていた。紀香の彼氏を先頭に、一列に並んで歩道のない真っ白な雪道をひたすら上に向かって進んでいた。『15分』というのは車で15分だということに気がついた頃には、辺りは猛吹雪だった。みんな無言で必死に坂道を登った。
 
早朝に入ったであろう除雪車のタイヤ跡の上から、パウダー状のサラサラとした雪がどんどん積もっていく。いちばん最後尾の私は後ろを振り返ってはいけないと思っていた。なぜなら、背後に冷たく凍りついた感覚を感じていたからだ。雪山ではこういう感覚になることがよくある。振り返らずに、ひたすら前を向いて目的地まで辿り着くのが賢明だ。
 
30分くらい歩いたところで、ようやくスキー場と一体になったホテルが見えてきた。さっきまで背後に感じていた凍りつく気配がフッと消えた。既に、ヨウコ先輩はホテルの入り口に立っていた。バナ先輩がヨウコ先輩に手を振ると、ヨウコ先輩は一瞬微笑んだが、すぐに不快な顔をした。おそらく、私の背後から去った気配に気がついたのだろう。
 
「思ったより、いいところだな」
 
ヨウコ先輩の幼なじみは、思ったことを素直に口に出す人だ。ホテルの入り口から、紀香の彼氏のおじさんらしき男性が出てきて、私たちを迎え入れてくれた。おじさんの後ろには、着物姿の従業員風の若い女性がひとり立っている。
 
「電話1本くれれば、マイクロバスで迎えにいったのに」
 
全員、もっと早く教えて欲しかったと思った途端、幼なじみがそう言っていた。一瞬緊張が走ったが、おじさんが大笑いしてくれたので全員ホッとした。フロントで受付を済ませる間、その従業員の女性はずっとおじさんの横に立っていた。
 
(なんか、暗い雰囲気の女性だな)
 
奥の部屋から紀香の彼氏のおばさん、つまりおじさんの奥さんが出てきて挨拶をしてくれた。明るくて優しそうな奥さんが、私たちを部屋まで案内してくれるらしい。おじさんの横に立っていた従業員の女性が荷物を運んでくれるものだと思い込んでいたが、私の勘違いだった。不思議に思って振り返ると、そこにはおじさんひとりしか立っていなかった。
 
「ゆっくりしていってね」
 
奥さんは男子三人を大部屋に、女子三人を八畳部屋に案内してくれた。当然、ヨウコ先輩は私たちと一緒だ。部屋に入ろうとした瞬間、隣の部屋から清掃道具を持った従業員がふたり出てきた。年配と若手の女性従業員と思わず目が合ってしまった。軽く会釈すると、ふたりとも笑顔で挨拶してくれた。
 
私は目を見開いていた。若手の従業員の女性は、ついさっきおじさんの側にピッタリとくっついて立っていた女の人だった。混乱する私にヨウコ先輩が一言こう言った。
 
((そういうことだよ))
 
((どういうことですか?))
 
私はわかっているのに認めたくなかった。心のモザイクを作動しそうになっていた。
 
((あんないい奥さんがいるのに))
 
私は、心からがっかりした気持ちでそう言うと、
 
((だよね…))
 
ヨウコ先輩は、目を伏せて言った。
 
和室用の大きな机を囲んで座り、紀香にヨウコ先輩のことをはじめて詳しく説明した。紀香はまったく驚くことなく、バナ先輩が見えるようになって良かったと言ってくれた。そして、ヨウコ先輩の分のお茶もいれてくれた。安心した私は、フロントと廊下で見てしまった出来事も、紀香と幼なじみに打ち明けた。
 
「幽霊と生き霊って、お互いに見えるの?」
 
幼なじみの目のつけどころはいつも面白い。みんなで一斉にヨウコ先輩の座っている方向をみると、
 
「「私には見えるけど、向こうに見えるのかはわかんない」」
 
私が通訳すると、みんな感心して頷いていた。
 
そんなことはすっかり忘れ、みんなでスキーを堪能した。スキーが苦手な紀香を、彼氏が一生懸命サポートしていた。信玄とリフトに乗った私は、改めてクリスマスの贈り物のお礼をした。信玄がムーンストーンのついた素敵な指輪をプレゼントしてくれたのだ。
 
『17歳までにシルバーリングを贈ってもらうと、幸せになる』
 
16歳の私はそんなジンクスがあるのは知っていたが、特に意識していたわけではなかった。ただ、実際にもらうと嬉しいものだった。半透明の美しいムーンストーンを身につけると、心の安定性を高めることができ、健康・幸運・恋の成功を導いてくれるらしい。月が大好きな私は、ムーンストーンという石の名前の響きが気に入った。見る角度やタイミングによって、輝きが違って見えるのが特に魅力的だった。
 
「どうやってサイズを測ったの?」私は好奇心を持って尋ねた。
 
左手の薬指用にと思ったらしいが、私の薬指には少し大きく、左手の人差しにピッタリだった。
 
「ストローの袋で測ったんだ」と、信玄が照れくさそうに言った。
 
寒い冬なのにドーナツショップでわざわざ冷たいオレンジジュースを注文したのは、ストローの袋が欲しかったからだとわかって、私は微笑ましく思った。
 
夜は、一階のレストランで豪華なジンギスカンをご馳走になった。紀香の彼氏のおじさんがサービスしてくれたのだろう。奥さんもお手製の白菜の漬物を振舞ってくれた。あの若手従業員も何度か配膳にきた。
 
すっかりお腹がいっぱいになった私たちは、温泉に入る前に卓球で一汗かくことにした。バナ先輩と幼なじみのペアが優勝した様子を、ヨウコ先輩が嬉しそうに見ていた。
 
「卒業までに解決できるかな…」
 
バナ先輩が自信なさげに呟いた。幼なじみが、そんな先輩の肩をポンと叩いて励ました。
 
「俺たちが引き継ぐんで、安心してください」と、信玄がバナ先輩を勇気づけた。
 
「これ」
 
バナ先輩が、例のヨウコ先輩の日記を手渡してくれた。私に続きを書いてほしいそうだ。ちょっと躊躇ちゅうちょしたが、このままうやむやにしたくない気持ちが勝ったので、受け取ることにした。日記を続けることで何か発見があるかもしれない。私はそこにいるみんなに向かって力強く頷いた。
 
「合宿行きたくないな」
 
温泉につかりながら、紀香がため息まじりに言った。
 
「いっそのこと、数人で退部しない?」
 
私がそう提案すると、紀香はためらった。
 
「部活辞めたら、彼とすれ違いになっちゃうし…」
 
紀香の家は厳しく、彼氏を作ることが禁止されていた。部活帰りにしか彼に会うことができない紀香は、彼との時間が合わなくなることを恐れていた。紀香にとって、部活はある意味彼と一緒にいるための口実なのだった。
 
「そっか。そうだよね」
 
私は、それから定期的に部活を辞める意思を募るため、部員に声をかけてまわった。みんなで辞めればなんとかなるかもしれないと思っていたが、部員たちは行動を起こすこと自体を怖がっていた。現に、辞めると言い出した部員が、ひどいイジメにあったのを何度か目撃している。
 
男子の大部屋に集まって、誰かが持ってきた懐かしいボードゲームをして遊んだ。ヨウコ先輩は窓際に座ってみんなの様子を眺めながら、たまに頭を押さえる仕草をしている。
 
((頭が痛いんですか?))
 
そう尋ねた私に向かって、
 
((うん。あの日、最後の日、コダマとホソカワから殴られた後、すごい頭痛と吐き気だったの))
 
((先輩、話せるようになったんですね。前は…))
 
神社で鍵を見つけて日記を読んで以来、今まで言いたいのに言えずにいたことが、少しずつ言えるようになってきたらしい。
 
((大堀先輩からもらった頭痛薬は効いたんですか?))
 
((ううん、それがぜんぜん))
 
その薬は頭痛に効くわけでもなく、なんだかフワフワ、グルグルしてよくわからない状態になったらしい。それはヨウコ先輩のお母さんも証言していた。部屋で日記をつけている途中に吐き気がして具合が悪くなり、そこから記憶が途切れとぎれになったという事実を、日記の最後の部分の乱れた文字が証明していた。だが、刑事と学校側は、恋愛関係で悩みを抱えていたヨウコ先輩が薬を飲んで自ら命を絶ったとでっちあげ、嘘の発表をしている。
 
((大堀さんが薬を渡してきたんですよね?))
 
((そう。よく効くからって言われた気がする))
 
元マネージャーも、大堀先輩が薬を渡したのを既に証言してくれた。ホソカワの車で見かけたあの変なピンクの薬と、大堀先輩にもらったピンクの薬が同じものだったと仮定する。だが、その薬は一粒で致死量になるのだろうか。警察と学校の発表も実に怪しいものだった。一粒で亡くなるような薬を女子高生が入手できるわけがない。果たして、一粒で亡くなる薬なんて存在するのだろうか。大堀先輩はなんのために頭痛薬だと偽ったのだろう。引き継いだヨウコ先輩の日記に、自分の体験を加え記録し続けることを改めて心の中で誓った。
 
夜中、ゾクゾクとする寒気で目が覚めた。このスキー場に登ってくる時に感じたのと同じ気配がした。すると突然、金縛りになり体が動かなくなった。部屋の中はなぜか猛吹雪だった。体は動かないが、目だけは開いていた。恐る恐るゆっくりと壁の方に目を向けると、大きな穴が浮きあがってきた。
 
次の瞬間、顔色が真っ青で髪の毛が乱れた女性が穴の中からゆっくりと出てきた。現代のような着物ではなく、明らかに昔の時代の着物を着ていた。私は目を合わせないように必死で視線をそらした。その女性はみるみる間に老婆の姿になり、憎悪に満ちた目で私の方を見つめ、地獄の底から聞こえてくるような冷たい声でこう言った。
 
「邪魔するな」
 
((返事をしちゃだめ))
 
ヨウコ先輩の声がした。ハッと我に返ると、金縛りがとけて体が自由に動くようになった。再び急いで壁を見ると、さっきの大きな穴は消えていた。
 
((ありがとうございます))
 
そう言って窓側を見ると、ヨウコ先輩の姿もなかった。しばらく呆然としていたが、また眠気が襲ってきたのでそのまま眠ることができた。
 
夢を見た。
 
学校の用具室の前の薄暗い廊下に一人で立っている。誰もいない。私は自分の教室に向かって歩く。
 
教室に着くと、見知らぬ同級生がたくさんいて、みんな深刻そうな顔をしている。コダマが大声で怒鳴っている。コダマに殴られたヨウコ先輩を友だちが介抱している。駆け寄るバナ先輩。こちらをゆっくりとふり返ったコダマは、世にも恐ろしい般若のお面を被っている。
 
夢の中の私は、自分が夢の中にいるのだと気がついた。
 
次の瞬間、私は体育館に立っている。今度はヨウコ先輩がホソカワに殴られている。ボールで思いきり殴られたヨウコ先輩を、マネージャーがトイレに連れていく。私も後を追ってトイレに駆けつけると、大堀先輩が怪しげな薬を差し出している。蝶々の絵柄のピンクの薬が私の目に飛び込んでくる。
 
「飲んじゃダメです」

 そう叫ぼうとした私は、苦しくて声が思うように出ない。自分の感情ではない悔しさや無念の思いが、心の中にどんどん入ってくるような感覚がする。
 
こちらをふり返った大堀先輩が笑っている。だが、目線は私の後ろを見つめている。私もつられて振り返ると、そこには色とりどりの下着を持ったホソカワが笑いながら立っている。その横に誰かがいる。
 
(誰?)
 
白い手袋・黒い手帳・ヨレヨレのコートのすそが見える。
 
そこで目が覚めた。私はびっしょり汗をかいていた。しばらくの間、頭の整理がつかない私は天井を見つめていた。天井の木目の模様の線を、あみだくじのようにして目で追った。何度かあみだくじを繰り返していると、だいぶん落ち着いてきた。最後のあみだくじを終えた先に、ヨウコ先輩の姿が見えてホッとした。
 
((ヨウコ先輩の夢を見ました))
 
((ごめん。私が見せたの))
 
((そんな気がしました))
 
((最後に見えたの、たぶん刑事ですよね?))
 
ヨウコ先輩は、黙って頷いた。
 
翌朝、朝食の後、フロントでチェックアウトをした。おじさんの横には例の女性従業員の生き霊がまだ立っていた。
 
(あっ、あの着物)
 
なんとその生き霊は、昨晩壁の穴から出てきた老婆の幽霊と同じ着物を着ていた。
 
「ありがとうございました。また来てね」
 
奥さんの異常に明るい声が聞こえてきたので、振り返った。昨日は気がつかなかったが、よく見ると奥さんの目の奥は笑っていなかった。奥さんの背後で、従業員用のエレベーターのドアがチンと音を立てて開いた。中には腰の曲がった昨夜の老婆の幽霊が立っていた。どういうことかと思わず探究しそうになった。「邪魔するな』という言葉を咄嗟とっさに思い出した私は、深追いをしないほうが無難だと自分に言い聞かせた。
 
入り口のガラスドアを丁寧ていねいに拭いている若手従業員の姿が見えた。彼女、すなわち、生き霊とおじさんの間には、男女の関係があるのはほぼ間違いないだろう。ただ、古い着物を着た老婆とこのホテルにも古からの因縁があるようだ。私はその気味の悪いエネルギーに引っ張られないように気をつけた。刺さるような複数の視線を背中に感じつつ、扉を開けた。ヨウコ先輩と目があったので、私は力強く頷いた。
 
ホテルの外に出て新鮮な空気を吸うと、気分が少し楽になった。背後に感じる気配を受け取らないよう、必死に前だけを向いて山を降りた。バナ先輩から受け継いだヨウコ先輩の日記が、私のバックパックの中で揺れていた。



 最悪の合宿


合宿所に向かう電車の中で、紀香と私は深いため息をついた。束の間の楽しい冬休みはあっという間に過ぎ去り、とうとう合宿の日が来てしまった。ホソカワのバンに乗らなくて済んだのは、不幸中の幸いだった。駅でバスに乗り継ぎ、ようやく合宿所に到着した。すでにホソカワの車で到着して着替えを済ませていた先輩たちは、着いたばかりの私たちを威嚇いかくしてきた。
 
「遅い。急いで」
 
着くやいなや、体育館で特訓だと言われた。ストレッチも満足にできないまま、いきなりダッシュを要求された。気味の悪いことに、なぜかホソカワだけが機嫌が良かった。
 
「明日は遊園地だな」と、ホソカワが左の口角を上げて言った。
 
今日の練習が滞りなく終われば、明日は半日休みにして遊園地で自由に過ごさせてやると言い出した。そう言いながらも、もちろん練習中の暴力や暴言は当たり前のように行われた。機嫌が良い時でさえ平気で暴力を振るうホソカワが、この上なく不気味で恐ろしく感じた。おかしなもので、毎日暴力を振るわれ続けると、心も体も麻痺して、『殴られて当然』という感覚が芽生えだす。心のモザイクが作動したまま壊れかけていた。
 
『殴られているうちが花だ』
 
ホソカワのもうひとつの口癖だ。殴るのは気にかけている証拠だと、とんでもないことを平気で言う。現に、部員たちの間では、殴られた者は出世したという暗黙の了解が生まれていた。大堀先輩は最近ますますピリピリしていて、同期の中でも仲間割れが見られた。
 
(ヨウコ先輩がいたら、違っただろうな)
 
私がそう思っている間も、誰かが変わるがわる殴られていた。怪我人が続出している。不意に私の頭めがけてボールが飛んできた。
 
「ちゃんと受けろ」と、ホソカワが怒号を飛ばした。
 
ボールのキャッチミスは、ボール攻撃の刑にされる。ありったけのボールを頭や体にぶつけられるのだ。ホソカワが素早くボールをぶつけられるように、マネージャーは次々にボールを手渡していた。打ちどころが悪いと、軽い脳しんとうのような感覚を起こして吐き気がした。
 
(ん?)
 
『軽い脳しんとうを起こして、吐き気がする』
 
(これだ)
 
ヨウコ先輩は、あの日、コダマとホソカワから時間差でひどい暴力を受けた。その後、激しい頭痛と吐き気を訴えていた。脳しんとうによる死亡率は一般的には低いとはいえ、毎日暴力を振るわれている上に、その日は二度も強く頭を打たれたのだから、深刻な結果になる可能性は否定できない。
 
ただ、警察も自死だと決めつけているので、どう証明すればいいのか見当もつかなかった。とにかく思ったことや気づいたことを、日記につけるようにしていた。日記の存在が見つかるとまずいので、合宿中は信玄に預けてきた。鍵は自分の部屋の机の引き出しの中に隠してある。
 
「脳しんとう?」
 
信玄が電話の向こうで一瞬驚いてから、納得したようにこう言った。
 
「有り得るかも」
 
明日、バナ先輩にこのことを詳しく話しておいてくれると言ったので、安心して電話を切った。
 
「何してんの?」
 
背後から大堀先輩の声がした。
 
まるでデジャブのような光景に鳥肌がたった。ヨウコ先輩がスキー場のホテルで見せてくれた、あの夢の中に再び自分が立っているような錯覚を覚えた。気分が悪いと伝えて走り去ろうとした時、
 
「頭痛薬あるよ」
 
大堀先輩は笑いながらそう言った。私は恐怖で足がすくんでいるのがわかった。自分も頭痛薬を持っていることを伝え、お礼を言ってその場を走り去った。背中に感じる視線が痛かった。
 
夕食後、彼氏に電話をしたり、好きな人の話をしたり、音楽を聴いたり、それぞれが楽しい自由時間を過ごしていた。
 
「ふざけるな」
 
先輩たちがそう言いながら部屋にドカドカと入ってきた。憤慨ふんがいした顔つきでこちらを睨みつけている。断りなく部屋中の電気を消すと、
 
「明日の集合は、予定より2時間早める」
 
まだ午後九時にもなっていないというのに、強制的に消灯時間になった。普段と違う環境に興奮して眠れない部員たちが、布団の中でヒソヒソと話をしていた。隣の部屋から壁を叩く音がした。先輩たちが怒っているのだ。
 
「辞めたい」
 
誰かが呟いた。だが、実際私が退部を募っても、誰も賛同しないことはわかりきっていた。
 
(ヨウコ先輩、何してるかな)
 
真っ暗な空間で、私はそんなことを考えながら眠りについた。
 
朝の練習を終えた私たちは、持参したお気に入りの私服に着替え、遊園地に行く準備をしていた。
 
「ちょっと集合」
 
ジャージ姿の先輩たちがノックもせずに部屋に入って来て、そう言った。脇にはそれぞれバスケットボールを抱えている。ひとりだけ性格のいい先輩が、後輩に対する言葉遣いに気をつけたほうがいいと、大堀先輩に忠告した。
 
「たるんだ精神をたたきなおしてやる」
 
大堀先輩によると、三年生が引退してから私たち一年生が勘違いをして思い上がっているという。そこで、遊園地を取りやめて、全員で体育館100周を決行するとのことだった。
 
遊園地行きは自分たちの意思ではなく、ホソカワの提案であったことを、ある部員が再確認した。すると、大堀先輩はその部員を睨みつけ、ホソカワとは話がついていると冷たく言い放った。
 
全員無言で私服を脱ぎ、再びジャージに着替える間、ひとりを除いた先輩たちが仁王立ちで一年生を見下ろしていた。着替えが終わると、体育館まで走って移動するよう命令された。
 
体育館に到着すると、ホソカワが鬼の形相で立っていた。手にはストップウォッチを持っている。
 
「お前ら、俺の好意を断ったんだってな。」既にホソカワの怒りは頂点に達している様子だった。数人の一年生が訂正しようと試みたが、諦めざるを得なかった。なぜなら、遊園地行きを拒否したのは一年生だと、大堀先輩が虚偽の報告をしたからだ。ホソカワは、極めて乱暴かつ冷酷な口調で、
 
「よーい。スタート」と、言った。
 
私は息苦しくて仕方なかった。喘息が出てきたので、殴られるのを覚悟で少し休んだほうがいいと思った。コースから外れて、真ん中におぼつかない足どりで歩いて行き、仰向けになって倒れた。マネージャーが、苦しんでいる私を冷ややかな目で見ていた。
 
肺の中からゼーゼーと妙な音がする。喘息が治らない。みんなが走る振動が身体中に伝わってきた。天井を見たまま、私は寝転び続けた。
 

卒業式と終業式


バナ先輩はステージの上で卒業証書を左手に持ち、右手を振っている。生徒たちはそんなバナ先輩を見て、いっせいに盛り上がった。女子の声援もおこった。ヨウコ先輩は、定位置の後ろの角に立って微笑んでいる。
 
「学校では会えなくなるけど、連絡し合おうな」
 
バナ先輩はそう言って、幼なじみと一緒に帰っていった。
 
(寂しくなるな)
 
私はふたりの後ろ姿を見つめながらそう思ったと同時に、無性に心細くなった。
 
数日後は、自分たちの終業式だった。おしゃべりで明るい男子が、机の中に隠し持ったレコーダーを私に見せてこう言った。
 
「式の後、コダマは恒例の長いイジメスピーチをすると思うから、今度こそは証拠をとろうと思ってる」
 
私と菜々子の監禁事件の後、クラスの男子たちはたびたび話し合いをしていた。今日こそは証拠が欲しいところだった。
 
体育館では終業式がとり行われており、校長が春休みの注意点などを説明していた。校長が一息つくと、お別れのシーンに相応しい悲しげな音楽が流れ始めた。
 
「残念ながら、今学期で退任または転任される先生方をご紹介します」
 
教師たちがゾロゾロとステージに上がっていく。その中にコダマの姿があった。コダマはなんとも不気味な微笑を浮かべながら、バナ先輩の真似をして生徒たちに手を振っていた。すると、体育館中に大きなブーイングが巻き起こった。
 
私は、こんなにもコダマのことをよく思わない生徒がいたことに、驚きを隠せなかった。
 
(だったら、なぜもっと早く…)
 
それが正直な私の気持ちだった。
 
校長は静かにするように促し、お別れする教師たちの紹介を始めた。コダマの紹介になると、再び大きなブーイングが巻き起こった。校長や教頭はブーイングを阻止しようとしたが、体育館はしばらく騒然としたままだった。
 
「皆さんがお世話になったコダマ先生は、この度、兼ねてからのご本人のご希望でもあった、K高等学校への転任が決定しました。これからの更なるご活躍をお祈りして、拍手でお送りしましょう」
 
(ありえない)
 
毎日暴言と暴力を繰り返し、監禁事件まで揉み消してもらい、更には自分が行きたかった理想の高校へと転任させてもらえるなど受け入れがたい。しかも、なんの謝罪もなく。私は校長の言葉にいらだちを隠せなかった。同級生たちも複雑な表情で黙って座っていた。
 
ステージで生徒会長に花束をもらうと、コダマはスター気取りで握手を交わした。不愉快なつくり笑顔をこちらに向け、悠々ゆうゆうとステージを降りてきた。再びブーイングの嵐が沸き起こった瞬間、コダマは持っていた花束を高らかに掲げた。悪寒が走った。
 
鳴り止まないブーイングが、まるで自分を見送る拍手かのように振る舞っている。勝ち誇った笑みを浮かべるコダマの姿が空恐ろしかった。コダマは何やら独り言を言っている。口元の動きをよく見ると、「ありがとう」と言っている。正気の沙汰ではない。
 
(この体罰教師をこのまま許していいものか)
 
いよいよ最後のホームルーム。おしゃべりで明るい男子は赤いレコーダーをセットした。ドアをガラッと開け放ち、花束を抱えたコダマが堂々と教室に入ってきた。入り口の側の生徒が開けっぱなしのドアを恐る恐る閉めた。
 
「はっ、はっ、はっ。諸君、見たか」
 
満面の笑みを浮かべながら教壇の前に立ち、したり顔でこちらを見下ろした。普段よりもさらに汚い黒縁のメガネが顔にめり込んでいる。フケだらけの髪を何度もかきあげ、頭上に掲げた花束を教壇の上にガサツにのせた。黄色いカーネーションの花が、床にボトリと落ちたのが見えた。他のクラスの生徒たちがドアの小窓からのぞいているのをコダマは意識している。たっぷりと間をとってから、静かな口調で語り出した。
 
「イエス様はおっしゃったのです」
 
自分は多少不器用だが潔白で、神に選ばれた存在である。誠心誠意現実と向き合い、いかに困難な道もひたむきに生きてきた。そんな自分には必ず神のご加護があると信じてやまない。そして、ついにこれまでの努力が身を結んだ。コダマ流の自分勝手なキリスト教を説いている。
 
つまり、コダマは善人であり、悪人の生徒たちにこれまでさんざん苦しめられてきた。しかし、神様を信じて進んできたので、自分はノアの箱舟に乗って安息の地へと導かれるのだということだった。
 
「神様は僕を見捨ててはいなかったのです。信じるものは救われる。僕は君たちを許す心を持っているのですよ。アーメン。これが僕から君たちに贈る最後の言葉です」と言って、聖書を頭上に掲げた。

本当にコダマの私物の聖書なのかは疑わしかった。私たちは全員無言で微動だにせず座り続けた。空いた口が塞がらないとは、まさにこのことを言うのだろう。コダマが沈黙を破り、さらに続けた言葉に身震いがした。
 
「そうか、そうか。いや、ありがとう。諸君からそんな感謝の言葉をもらえる日がやってくるとは思ってもいなかった。君たちも完全なる悪人ではなかったというわけだ。まあ、素直に受け取ってあげるとしよう」
 
コダマの耳には幻聴でも聞こえているのだろうか。誰も何も言ってはいない。その後もコダマは自分勝手に喋り続けた。やがて、体育館と同じように不気味な笑顔で手を振り、ドアを乱暴に開け放った。花束を高く掲げながら退場するや否や、きびすを返して教壇めがけて足早に駆け寄ったかと思うと、大切そうに聖書を握りしめ再び廊下へと消えていった。私は完全に呆気にとられた。床の上の黄色いカーネーションがコダマに踏みつけられ、ペシャンコに潰れていた。
 
「こんなもの、証拠にならない」
 
普段は明るくおしゃべりな男子がレコーダーを床に投げ、悔しそうに捨て台詞を吐いた。無言でうつむいている彼の姿がまぶたに焼きついた。
 
クラス全体が言いようのない虚しさに包まれた。進路によってクラス編成があり、大半が別々になった。私は、また明るいおしゃべりな男子を含む他数名と同じクラスになった。その後も、ときどきこの日の悔しさを彼らと語り合うことはあったが、コダマの名前を口に出すことは次第に減っていった。ただ、私はその後もコダマの悪夢に悩まされ続けた。


第8話へ続く

Kitsune-Kaidan

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