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「体罰・すべての被害者たちへ捧ぐ」 第8話・怪談長編小説(note創作大賞2024・ミステリー小説部門応募作品) CW


悪夢


誰もいない教室の中に般若のお面をつけたコダマがいる。教壇の上からコダマが私の成績表を床に落とす。ヒラヒラと床に向かって落ちていった成績表を慌てて拾おうとすると、コダマはゲラゲラと笑いながら私の指を踏みつける。
 
「痛いっ」と、私は叫ぶ。

般若のお面をかぶったビキニ姿の女子生徒たちが突然現れ、私をあざ笑っている。コダマは女子生徒の体を触りながら、ヨダレをたらして高笑いしている。そして、彼女たちが持つ三宝さんぼうの上に置かれた成績表を鷲づかみにし、ひっきりなしにそれらを撒き散らしている。床は見る見るうちに白い成績表で埋め尽くされる。
 
(夢だ)
 
明晰夢めいせきむであることに気がついた私は、コダマを睨みつけて大声で叫んだ。
 
「嘘つき」
 
すると、ビキニ姿の女子生徒たちのつけた般若のお面がドロドロと溶け出した。コダマは大きなため息をついたかと思うと、自分の般若のお面に手をかけ勢いよくはずした。なんと、お面の下も般若の顔だった。素顔も般若と化したコダマは右手に聖書を持ち、左手を振りながら、長くて暗い廊下へと消えていった。床にはペシャンコの黄色いカーネーションの花が落ちていた。
 
後味が悪い夢を繰り返し見続けた。
 
暗い廊下の先にプカプカと浮く監禁部屋を眺めている夢の中の私。監禁部屋のドアがバタンと閉まり、私は閉じ込められた。鍵が背後でガチャンとしまったと思った瞬間、目の前にコダマとホソカワの生首が浮かんでいた。大きな大きな顔面だ。ふたりともニタニタと笑いながら私の方を見ている。風船のようにどんどん膨らんで、パンッと割れる。そこで目覚めた。
 
さらに激しい暴力の夢の場合は最悪だった。
 
審判用のユニフォームを身にまとったホソカワが一人、体育館で佇んでいる。私は気づかれないよう祈る。くるっと振り返ったホソカワは私をギロリと睨みつけ、胸元のホイッスルに手をかける。突然、けたたましい音が鳴り響く。阿修羅のような六本の手にはバスケットボールが乗っている。三面ある顔のうちのひとつがコダマの顔に早変わりする。ものすごい勢いでボールが飛んできたのを皮切りに、暴行を振るい続ける。コダマが笑いながら言う。
 
「ホソカワさんなら、僕のことをわかってくれますよ」
 
目が覚めると全身に汗をびっしょりかき、しばらく動悸がおさまらない。耳鳴りが、ホソカワのホイッスルの音のように聞こえていた。コダマの転任後も悪夢を見続けることになるとは、思ってもいなかった。
 

若手刑事


部活の説明会が行われる教室には、笑顔の新入生たちが座っていた。何も知らずに、楽しい部活動を夢見て集まってきた彼女たちが不憫ふびんでならない。私には彼女たちが入部するのを止める権限はないが、後輩をいじめることは決してしないと心に誓った。
 
大堀先輩は去年と同じように、楽しく和気あいあいとした部活であると、偽った説明をしている。一方で、窓際にいるホソカワはしかめっ面をして、黙り込んでいた。そんな様子を傍観しながら、素朴な疑問がわいた。なぜ、ホソカワは新入生の前でわざわざ不機嫌機な態度を見せるのだろう。さらに、その様子を目の当たりにしているにも関わらず、なぜ新入生たちは入部するのだろうか。
 
去年の自分を振り返っていた。私がバスケ部に入部した当時、コダマの体罰はすでに始まっていた。ホソカワもまた暴力を振るう教師であることに気づいたが、私は心のモザイクを作動させてしまった。暴力やイジメが日常化すると、それが悪であるという基本的な感覚が麻痺し、判断力が鈍くなる。そして、次第にすべてが自分のせいだと思い込むようになる。自己否定が進むことで、不当な行為を受け入れてしまう。
 
私があれこれ考えているうちに、説明会は終了した。ホソカワはひと言も発することなく、頭を上下に揺らしながら猫背で体育館へと歩いていった。大堀先輩は嘘を並べ立て、新入生の心を掴んでいた。
 
「このバカどもが!」
 
新入生に見せつけるように、ホソカワが二年生と三年生の部員に対して手当たり次第に殴る蹴るの暴行を働いていた。新入生は呆然ぼうぜんと立ち尽くしていた。

「一年、よく聞け。お前らはこんなクズになるなよ」
 
「はいっ!」
 
出来次第では二年生と三年生を押しのけてレギュラーになる可能性があることを、ホソカワが一年生に説明している。目の奥は決して笑ってはいないが、ニヤニヤと調子のいい笑顔を浮かべていた。去年は先輩が優先だと言っていたのに、知らず識らずのうちに下剋上げこくじょうの指導方法に切り替わっていた。ふと大堀先輩の方を見ると、両手の拳を震わせながら立ち尽くしていた。
 
((心配だから見にきたよ))
 
((ヨウコ先輩!))
 
思わず声に出してしまいそうになり、私は慌てて口をふさいだ。
 
((私の時と同じ))と、ヨウコ先輩が暗い声で言った。
 
ヨウコ先輩も、一年生ながら早くもレギュラーの座を掴んだのだった。その際、先輩や同期からの嫉妬や妬みによって酷く当たられたらしい。そんな彼女の様子が心配だったと、バナ先輩が言っていた。ホソカワは、ヨウコ先輩の孤立する姿を楽しむが如く試合に出し続け、暴力を振い続けた。それでも、ヨウコ先輩は期待に応えるべく、懸命に戦い続けたという。
 
ホソカワは、新入生の女子に早速目をつけた。彼女に素質があるのは誰の目にも明らかであった。案の定、ホソカワは彼女を抜擢ばってきし、その才能を磨くという名目で毎日のように暴力を振るうようになった。そんな状況を目の当たりにしても、退部する新入部員はひとりも現れなかった。
 
私は、辞めたいと嘆く部員に対して一緒に辞める提案を、地道に続けていた。そんな気持ちとは裏腹に、ホソカワはときどき私を二軍のメンバーとして起用するようになった。しかし、コートに立つや否や、わずかな時間で引きずり出され、激しい暴行を加えられるようになった。
 
「クズが」と、ホソカワが暴言を吐く。
 
なぜ私を使うのかはわからなかった。何か作戦があるのだろうか。理由なきただの気まぐれなのかもしれない。
 
「嬉しい?」
 
信玄が尋ねてきた。正直なところ、二軍になることを嬉しいとは思えなかった。なぜなら、殴られる機会が増えただけだからだ。私は常にどうやって安全に辞めるかを考えていた。
 
「あれ?あの人…」
 
信玄が指差す方を見ると、岡島刑事の運転手をしていた若手刑事が、ひとりで職員玄関から出てきた。手帳に何かをメモしている。自転車置き場の前にいる私たちの視線に勘づいたのか、こちらを見た。視線をそらす間もなく目が合ってしまったため、私は諦めて会釈した。
 
「こんにちは。ちょっといいですか。確か君たちは部室荒らしの時、ここにいましたね」
 
あの時、バナ先輩と私たちがここから見ていたことを、この若手刑事は気づいていたのだ。渡された名刺を見て、私は眉をひそめた。
 
「岡島さん…」と、私が呟くと、
 
「あっ、はい。父なんです」と申し訳なさそうに答えた。
 
ホソカワと怪しげな談笑を交わしていたあの岡島刑事は、この若手刑事の父親だったのだ。
 
「俺たちに何か?」と信玄が厳しい口調で話を切り出した。
 
若手の岡島刑事は、ホソカワのことをそれとなくいくつか質問してきた。私は洗いざらい話してしまいたいという衝動に駆られていた。しかし、あらゆるリスクを考慮すると、どうしても打ち明けることができなかった。
 
「もし伝えたいことがあったら、いつでも連絡してください」と、若手の岡島刑事はにこやかに笑って言った。
 
その爽やかな笑顔からは、特に危険を感じなかった。
 
(この人なら、打ち明けてもいいのではないか)
 
確証などないが、そんな気がした。しかし、あの怪しげな岡島刑事がこの人の父親であることが、私の中で歯止めになった。
 
「あのっ…」
 
蚊の鳴くような声でそう言った私に気がついた若手の岡島刑事が、振り返った。
 
「やっぱり、なんでもないです」と、私は葛藤を抑えて言った。
 
若手の岡島刑事はにっこり笑ってこう言った。
 
「ゆっくりでいいですよ」
 
そして、礼儀正しく一礼してから、静かにドアを開け、車に乗り込んだ。私は走り去る車を黙って見つめることしかできなかった。バックミラーに映る私たちの顔は、どんな風に見えたのだろう。
 
「話したかったんでしょ?」
 
信玄が私に優しく問いかけた。
 
「うん…。でもバナ先輩に聞いてからの方が…」
 
若手の岡島刑事の名刺がお守りがわりになるかもしれないと感じた。今は慌てず、バナ先輩たちと綿密に計画を練ることが大事だと思った。私はできるだけわかりやすい日記を書き続けていた。
 
「ホソカワのことを?」
 
ピザを持った手を震わせながら、バナ先輩と幼なじみが興奮ぎみに同時に声をあげた。信玄と私の思い出のレストランで、バナ先輩たちと落ち合っていた。やはり、彼らも岡島刑事と若手刑事が親子関係にあることを少し警戒した。ただし、これがチャンスであることは間違いないと感じていた。近くで私たちを見つめているヨウコ先輩はいたって冷静だった。

「日記、進んでる?」とバナ先輩が私の様子を伺った。
 
手がかりが少ないことに、先輩は少々苛立ちを感じているのかもしれない。卒業してから、不思議なことに再びヨウコ先輩の姿が見えなくなってしまったそうだ。
 
「「最近自由が効かないの」」
 
ヨウコ先輩も何か異変を感じているらしい。私はできるだけ細かい気づきを日記に記すようにしていることを伝え、バナ先輩たちと別れた。
 


進路相談室


「行きたくないな」
 
私はため息まじりに独り言を言った。進路相談の担当はなんとホソカワだった。行かない理由を必死に探したが、思い浮かばなかった。信玄が後押ししてくれたので、とりあえず教室の前まで行ってみることにした。時間をつぶすため、進路相談室の前でしばらくウロウロしていた。突然、ガラッとドアが空いたので、とっさに柱と壁の隙間に隠れた。すると、同期の部員が泣きながら出てきた。
 
「本気なんだな」
 
後から出てきたホソカワが、恐ろしく低い声で彼女にそう告げた。目が異様につり上がり、なんとも恐ろしい顔をしたホソカワは、泣いている彼女を置き去りにして室内に戻っていった。ひとり涙をぬぐう彼女に、私は声をかけることができなかった。しかし、隠れ続けることもできずに立ちすくんでいた。一瞬目が合うと、怯えた様子の彼女は私の前から走り去った。今は進路相談に行くべきではないと思った。
 
練習前、ホソカワは一列に並ぶよう、私たちに指示した。
 
「アイツが二度と戻ってくることはない」
 
さっきよりも更につり上がった目でこちらを睨みつけながらそう言った。退部した部員は成績優秀で、進学に向けて勉強するため退部届を提出したのだった。私は彼女の勇気に心の中で拍手を送った。彼女が辞めたいと思っていたことを、私は知らなかった。できることなら、彼女と一緒に辞めたかった。
 
「引き止めてきます」と言って、先輩たちは体育館を飛び出していった。
 
ホソカワの機嫌をとるつもりなのだろう。至極冷酷な顔をしていたホソカワは、より過激な暴力を振るい始めた。普段のホソカワの体罰には独自のリズムがある。勝手な理屈だが、バスケがうまくできない罰として『愛のムチ』と言う名の体罰を行うのだ。しかし、この日は愛のムチという名目も忘れ、ただ無差別に暴力を振るっていた。
 
しばらくすると、先輩たちが首を横にふりながら暗い表情で戻ってきた。
 
「ダラダラするな」
 
先輩たちに話をさせる時間も与えず、ホソカワは殴りつけた。
 
「バカにしやがって。見てろよ」
 
ホソカワは投げ捨てるようにそう言うと、側にあるパイプ椅子にドカンと腰掛け、うなだれていた。特に激しく殴られた大堀先輩は、ホソカワの隣に立ち涙ぐんでいる。そんなふたりの様子を、ヨウコ先輩が厳しい表情で見ていた。
 
((見て))
 
ヨウコ先輩がそう言って指差す方向を見ると、大堀先輩がホソカワの手を握っている。ヨウコ先輩の日記に記されていたように、ふたりの距離はかなり近い。先日、私も確かにこの目で目撃した。ふと、視界に入ったマキの口元が笑っていた。
 
(マキは、あのふたりのことをどこまで知っているんだろう)
 
いずれにせよ、今回のことがきっかけで、部活を辞めてはならないおきてが部員の心により一層埋め込まれたような気がした。この日を境に、大堀先輩も気分次第で部員に八つ当たりする日が増えていった。
 

修学旅行


秋の京都、奈良、大阪、東京は、普段見ている地元の景色と違って新鮮だった。教科書に出てくる数々の歴史的な建物を訪れ、ご当地の美味しい季節の食べ物をご馳走になった。部活もせずにただひたすら毎日ゆっくりと過ぎていく時間を堪能するのが嬉しくて仕方がなかった。永遠にこの時が続いてほしいと思えた。心なしか、みんな自然と穏やかで優しくなっていた。
 
信玄と待ち合わせ、夜のテーマパークを一緒に巡った。人気のホラーアトラクションに乗ることになり、私たちは数日間のそれぞれの思い出をとり止めなく語り合った。
 
暗い室内にはさまざまな仕掛けがあり、かわいらしいお化けのキャラクターが怖い音楽に合わせて動いている。お化けの声に誘われてふと目線を向けると、本棚の横に立っている人がこちらを見ていた。キャラクターに紛れて人が立っていたので、私はゾッとした。
 
(係員があんな場所に立つわけがないよね)
 
今度は、その誰かが私たちのすぐ後ろの席に座っている気配を感じた。平日の夜のテーマパークは、ほぼ貸し切り状態で空いていた。私たちの後ろには誰も乗っていないはずだ。かわいらしいアトラクションとは裏腹に、その誰かの気配はズシンと重たい感覚がした。明らかに仕掛けではなかった。楽しんでいる信玄には言えず、自分の心の中にしまっておくことにした。
 
行きは飛行機だったが、帰りは寝台列車だった。ゆっくりと進む列車の速度がさらに遅くなれば、部活をしなくていいのにと何度も思った。信玄と列車の連結部で立ち話をしていると、また信玄のクラスの女子がものすごい目つきで睨んできた。
 
「気にしなくていいからね。あの子、もしかしたら大堀先輩と仕事してるかも」
 
信玄がおそるおそる打ち明けてくれた。
 
パシャッ。

科学教師がニタニタ笑いながら写真を撮っていた。修学旅行には専属のプロのカメラマンがいて、欲しい写真はプロから購入する仕組みになっていた。科学教師が各行事で熱心に撮っている写真やビデオが公開されることは一度もなかった。この教師が他校で盗撮事件を犯したにも関わらず、本校に転任してきた噂は事実であろう。コダマの転任劇を見た後は、そんな噂も特に信憑性が高く感じた。
 
転任してきたばかりの国語教師が、私の苗字を見て一瞬顔がこわばったことがあった。偶然にも、私の従兄弟が通っていた高校から転任してきたそうだ。
 
「アイツらとは、けっこう仲良かったよ」
 
常に冗談ばかり言っているその教師はなんとなく浮いていた。しかし、生徒の人気を獲得すべく常にひょうきんに振る舞っていた。私の従兄弟をアイツらと呼ぶことと、生徒と仲が良いという表現を使うことに違和感を感じていた。私はなるべく気にしないように努めた。ところが、国語教師はことあるごとに馴れ馴れしい態度で接し、私をバカにするので面倒に思っていた。
 
親戚の集まりで再会した従兄弟たちにその教師のことを尋ねると、彼らは驚いた。その教師と仲良くしたこともなければ、アイツらなどと呼ばれたことはなかったそうだ。その国語教師は、今とはまったく風貌ふうぼうや性格が違い、かなり怒りっぽい性格だったようだ。頻繁ひんぱんにカツラが風で吹き飛び、そのたびに生徒たちにからかわれる可哀そうな存在だったと、従兄弟が教えてくれた。
 
本校ではカツラを使用せず正々堂々とした態度だったため、私は少々面食らった。ある日、いつものように冗談を言いながら、私をバカにしてみんなの前でからかってきた。
 
「先日、従兄弟に会ったので、先生のことを聞きました」
 
私は大きな声でそう言い返した。すると、真っ赤になってしばらく黙り込んだ。そこからは、不本意にからかわれることがなくなり、むしろ異常に気を遣ってくるようになった。しかし、国語教師の目の奥には怒りの塊が見えるため、なるべく関わらないようにしていた。教師たちの転任には、裏の事情がやたらと隠れているようだ。
 
あっという間に過ぎ去った楽しい修学旅行から帰宅した私は、久しぶりにヨウコ先輩に会いたくなった。用具室の前に立ち、ガラスケースの中に飾られたバスケ部の記念写真を眺めた。写真の中でボーッと立つ、目のつり上がった真顔のホソカワは不気味だった。申し訳程度の金縛りとボッコリの後、ヨウコ先輩が現れた。
 
「前から気になっていたんですが。どうして、ボッコリはバスケットボールの形なんですか?」
 
私がボッコリの理由を尋ねると、ヨウコ先輩は少し困った顔をした。はっきりとは覚えていないらしい。病院で意識が無くなる瞬間、バスケットボールが原因だということを忘れてはいけないと思ったそうだ。
 
「娘さんは、強く頭を打ったようです」
 
枕元で主治医とお母さんが話しているのがうっすらと聞こえていた。まったく覚えがないと答えるお母さんに向かって、主治医が検査の結果を伝えているのが、ヨウコ先輩には聞こえていたのだ。
 
「娘さんは、脳しんとうを起こしていたと思います」
 
コダマに殴られたあの日、ヨウコ先輩は遠のく意識の中で、ホソカワにもボールで殴られたことを強く意識しながらこの世を旅だったそうだ。
 
共感、怒り、切なさ。いろいろな感情が混ざり合い、私の目の奥から涙となって流れ出た。
 
「バナ先輩には?」と、私は泣きながら聞いた。
 
ヨウコ先輩は黙って首を横に振った。ヨウコ先輩の希望で、後日私からバナ先輩に伝えることになった。
 
「お前なんかもういらん」
 
ホソカワの冷たい声がした。腰にすがりついて泣きじゃくる大堀先輩をひきずりながら、ホソカワが階段を降りてきた。
 
「あんなに頑張ったのに!」と、大堀先輩がわめいている。

ふたりに見つからないように、ヨウコ先輩が用具室のドアの後ろに私をそっと隠してくれた。突然、ホソカワは大堀先輩を床に押し倒した。そして、ドスドスと足音を立て、いつものように猫背で頭を上下に揺らしながら歩いていった。
 
涙でかすむ私の目には、長い廊下の先にいる若手の岡島刑事の姿がうっすらと映っていた。
 

ホソカワの死


人気のない無機質なカフェで、バナ先輩は黙って私の向かいに座っていた。廊下のボッコリ現象は、バスケットボールで殴打されたことが死因のひとつであると、ヨウコ先輩が示唆しさしていることを打ち明けた。バナ先輩の目から、涙がこぼれ落ちた。拳の上に落ちたきれいな一粒の涙は、ムーンストーンのようだった。
 
「やっぱり、あの時部活に行くのを止めていれば…」と、バナ先輩は後悔の念を絞り出すような声で言った。
 
私たちは、時が近づいていることを知っていた。ただ、幽霊が言うことをいったいどうやって証明すればいいのだろう。それに、岡島刑事と学校側は、ヨウコ先輩の死因は薬による自殺であると断言し、その旨を公に発表している。教師の名前と怪しい価格が書いてあったあの不可思議なメモと日記の証拠、それに加えて私たちの体罰の被害を訴えれば、若手の岡島刑事は信じてくれるだろうか。私たちは、その時が来るのをもう少しだけ待つことにした。冷め切ったコーヒーを、バナ先輩が一気に飲み干した。
 
いよいよ、恐れていた進路相談室に行かなくてはならなかった。たび重なる怪我や毎日の体罰で体の調子が悪かった私は、部活を辞めずに『見学をし続ける』というストライキを、ひとりで決行することにした。
 
(部活は辞めない。でも、やらない)
 
そんな私の行動を見たホソカワは、首をふってため息をつきながら無視をしてきた。私の隣にいるマネージャーに向かって私への嫌味を言っていたが、黙って耐え続けた。しかし、納得がいかないことに、見学していても殴れた。もはやバスケのプレーになんの関係もなく、理由がなくても殴られるようになっていた。
 
引退時期を過ぎてもなお練習に来ていた大堀先輩からも、無視されていた。ただ、辞めずに見学を続ける私に対して、彼らがどうすることもできないのも事実だった。一年生がレギュラーに抜擢されたので、ユニフォームがもらえない部員たちは、ほぼ見学状態だった。
 
「もう死にたい」と、言っている部員がいた。
 
みんなの心の状態が日に日に悪化していると感じた。ネガティブな言葉を口にする部員に対して、紀香が嫌悪感を抱いていると聞いて驚いた。日頃は穏やかな性格の紀香がイライラする様子を見るのは意外だった。思い返せば、紀香はある一定の人に対して冷たく突き放すような意見を言うことがまれにあった。彼女の温厚な外見の下にある冷酷な心が垣間見える時は、気軽に踏み込んではならない秘密の領域のように感じていた。
 
コンコン。
 
私はしぶしぶ進路相談室のドアをノックした。事前に他の教師に相談すると、やはりホソカワの部屋へ行くよう勧められたので仕方なくやってきたのだった。少しだけ開いたドアの隙間から、にやけた顔をしたホソカワが覗いた。私の顔を見ると、一瞬で真顔になり、銀縁の眼鏡がキラリと光った。
 
「なんだ、お前か」と、ホソカワは面倒くさそうに言った。
 
進路相談の用紙を持っている私の手元を見ると、ぶっきらぼうに首を振って合図した。
 
室内は本と書類でごった返していて、座る場所など見当たらなかった。無論、ホソカワからも椅子を勧められることはなかった。本棚に入りきらない本が雪崩を起こし、床を埋め尽くしている。白いカーテンの後ろに誰かが立っているのがチラッと見えた。本人は隠れているつもりでも、腕のミサンガと赤いGショック、それに筋肉質な足が見えていた。
 
(大堀先輩だ)
 
私は左手に信玄とお揃いのミサンガと、信玄が貸してくれた黒いGショックの腕時計をつけている。それらが派手で生意気だとして、大堀先輩にやめるように言われていた。ところが、しばらくすると大堀先輩は色違いでまったく同じ時計を購入した。こういうところにも、彼女の怖さがあった。
 
推薦が欲しい学校名が書いてある用紙を手渡すと、チラッと見ただけで乱暴に突き返された。
 
「コダマ君から、お前のことはよく聞いている」
 
とっくに転任した教師の名前が出てくるのは不愉快だった。
 
「お前を推薦するような学校はない。悪いな」
 
私の成績表に目を通さないどころか、なんの質疑応答も無く、コダマを理由に推薦が却下された。カーテンの後ろでクスクスと笑い声がした。
 
嘲笑ちょうしょうするホソカワの顔が頭から離れない。悔しさと虚しさがぐちゃぐちゃに入り混ざった自分の感情の受け止め方がわからなかった。職員室へ行き担任に説明すると、一般入試で受ける方が無難だと言われた。
 
検討もせずにその場で推薦を却下されるなど、聞いたことはない。ホソカワ一人の権限で決定するというのも信じ難い。部活に関係のないところでも権力を振りかざすホソカワを憎む気持ちが増幅した。自分の心の中にずっと抑えていた怒りが巨大化したのを、まざまざと感じた。
 
感情の整理がつかなかった。いつもはしばらくすると落ち着くはずの怒りの感情が、今日はなぜかおさまらない。自分の悔しい思いや、いつも味方でいてくれることへの感謝や、大好きな思いなどをあれこれ詰め込んだ手紙を、信玄の下駄箱に入れた。こうして伝言をしあうことが私の心の支えだった。
 
(部活、出たくないな…)
 
そう思った私は、何やら得体のしれない心のざわつきを感じていた。その日も見学しながらマネージャーと一緒にボールを磨いたり、部員のスポーツドリンクを補充したり、さまざまな雑用をこなしていた。
 
ダン、ダン、ダン。
 
ホソカワがドリブルする音が聞こえてきた。突然ボールが目の前に現れ、私の視界が閉ざされた。誰かの悲鳴が聞こえた。再び目の前が明るくなり、天井が見えた。次の瞬間、ホソカワのつり上がった恐ろしい目が見えた。ほぼ同時に、再びボールが目の前に落ちてきた。
 
天井の色がどんどん薄れていき、視界がかすんだ。遠のく意識の中で、これまでの出来事が走馬灯のように去来した。耳の奥では微かに救急車のサイレンが聞こえていた。生きているホソカワの姿を見るのは、これが最後になるとは思いもしなかった。
 
ある日のこと、引退せず練習に参加し続ける大堀先輩の指示で、ストレッチとウォームアップが終わった。続いて、ドリブルやパス練習が終わった。ついに、練習ゲームが終了してもホソカワは現れなかった。見学する私の横を、男子バスケ部の顧問が横切ったかと思うと、代わりに部活終了の異例の合図を出した。掃除が終わると、いつものようにボールや道具を持った一年生が、週末の練習試合の準備のためホソカワの車に向かった。
 
ややあって、薄暗い校舎の長い廊下に彼女たちの悲鳴が響き渡った。言葉にならない彼女たちの悲鳴に導かれながら、職員駐車場へとみんな急いだ。私はフラフラする体でようやくみんなに追いついた。
 
空は、綿あめのような淡い桃色だった。
 
ピンク、赤、青、緑、水色、白、黒、黄色…。色鮮やかな下着に囲まれたホソカワが、車の後部に仰向けに倒れていた。例の蝶々の絵柄が入ったピンクの薬が、顔の上に無数に散らばっていたのが忘れられなかった。ホソカワの手には女子生徒のネクタイが握られていた。ネクタイのない首元を無意識に触る大堀先輩とマキの表情が凍りついていたのを、私は遠くから見つめていた。


最終話へ続く

Kitsune-Kaidan

  最終話(第9話)はこちら


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