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「体罰・すべての被害者たちへ捧ぐ」 最終話・怪談長編小説(note創作大賞2024・ミステリー小説部門応募作品) CW


虚無感


パトカーの赤色灯が、桃色の夕焼け空を照らしていた。
 
若手の岡島刑事が中心となって、事情聴取と現場検証が長時間に渡って行われた。教頭室の奥の部屋、そう、コダマのあの監禁部屋に部員がひとりずつ呼び出されていた。
 
私は恐怖と不安でパニックになり、足の震えと冷汗が止まらなかった。あれ以来、密閉された空間が怖くてたまらないのだ。中に入れずに廊下で立ち尽くしていた。
 
シワだらけのヨレヨレのコートを着ている岡島刑事は、パイプ椅子に浅く腰かけている。挑発するような態度で両腕を組み、あごを天井に向け、コダマとホソカワを混ぜ合わせたようなうす気味悪い笑いを浮かべていた。一方で、若手の岡島刑事は深刻な表情で姿勢正しく座っていた。私は今を逃せばもう二度とチャンスは巡ってこない気がした。
 
話したいことが山ほどあったが、なぜか言葉が出てこなかった。
私は震える足を支えることができず、その場に座り込んだ。廊下に立っていたヨウコ先輩が、そっと私の肩に手を置いてくれた。ヨウコ先輩の冷たいはずの手に温もりを感じたような気がした。
 
もう部活に行かなくていい。誰にも殴られない日が突然やって来るなんて思ってもいなかった。なんとも言いようのない虚無感が襲ってくるのを感じた。これまで張り詰めていた緊張の糸がプツっときれてしまったかのように、体に力が入らない。
 
顔の上に無数のピンクの薬をのせたホソカワが、突然ムクっと起き上がる。夢の中の私は「この男はもう死んだのだ」と、みんなに伝えようと必死に口を動かす。何度も、何度も声を出そうとするが、声が出ない。ピンク色の蝶々が、目の前をフワフワと飛び回っている。
 
汗びっしょりで、悪夢の世界から飛び起きた。相変わらず体に力が入らず、めまいで頭がフワフワしていた。
 
ついに、私たちは決断をした。バナ先輩、幼なじみ、信玄、ヨウコ先輩と一緒に警察署の建物を見上げていた。私は緊張でまた足がすくんだ。
 
(今日、ぜんぶ話そう)私は心の中でそう誓った。
 
大きな窓と机と椅子だけがある殺風景な部屋に通されると、まるで自分たちが取り調べを受けるような気分だった。刑事たちが永遠にやって来なければいいという思いと、早く話したいという気持ちが葛藤していた。
 
カチッ、カチッ。
 
時計の音が鳴り響く。私はコダマに閉じ込められた忌々いまいましい監禁部屋を思い出していた。バナ先輩は、ピンクと黒の日記をお守りのように強く握りしめていた。
 
「お待たせしました」と、若手の岡島刑事は丁寧に挨拶をした。
 
ホソカワと談笑していた父親の岡島刑事とは、似ても似つかない。
 
(本当に親子なのかな)
 
窓辺に立つヨウコ先輩を見ると、ゆっくり頷いた。バナ先輩が若手の岡島刑事に日記とメモを渡すと、深々と頭を下げ、卒業証書のようにそれを丁寧に受け取った。
 
窓の外から、車のクラクションの音が微かに聞こえてきた。窓から差し込む穏やかな陽の光がポカポカと心地よく、ここが警察署であることをしばし忘れていた。
 
「言葉になりません…」
 
日記を読み終えた若手の岡島刑事が、もう一度お辞儀をしてからそう言った。そして、あの気味の悪いメモを見た瞬間、顔を歪めた。
 
カチッ。カチッ。
 
「実は…」
 
しばらく沈黙が続いた後、若手の岡島刑事はゆっくりとした口調で語り始めた。ホソカワと父親の密な関係を、当初から疑っていた刑事は、個人的にあれこれ調べていたらしい。捜査中であるためこれ以上の詳細は言えないが、自分を信じて日記とメモのコピーをとらせてほしいと頼んできた。全員で一瞬顔を見合わせた。私はヨウコ先輩の方を見た。
 
((信じよう))
 
ヨウコ先輩の口調は、今までになく力強かった。
 
もうすぐ何らかの結果が出るので報道が出るのを待っていてほしいと言いながら、刑事がコピーをとり終えた日記とメモを返却してきた。私の心の中に沈んでいた虚無感に、少しだけ光が差したような気がした。外に出ると、観光客が楽しそうに歩いているのが目に入った。
 
数日後、予期せず呼び出され、私たちは再び警察署を訪れた。
 
「これは、これは」
 
目の前に現れたのは、若手の岡島刑事ではなく、父親の岡島刑事だった。
 
「君たち、なんか企んでいることでもあるのかい?」
 
どうやら、我々を疑っているらしい。ホソカワが殺された日、私が進路相談室を訪れた証言があると言ってきた。
 
「大堀さんですか?」
 
険しい表情をした信玄がそう言うと、刑事の右眉毛が上がった。信玄が知っていることに驚いたようだ。私たちは、ぴったり一時間後に解放された。私は暗い雰囲気に飲み込まれないように、外に出るまでなるべく息を止めていた。
 
「くそーっ!」
 
バナ先輩が叫んだ。なぜ自分たちが疑われなければならないのか。言いようのない苛立ちが胸の中に渦巻いていた。
 
「待ってください!」
 
若手の岡島刑事が後ろから追いかけてきた。疑いの眼差しを向ける私たちの様子を敏感に感じ取った刑事は、言い訳せずすぐに謝ってきた。捜査一課ではない父親が、勝手に私たちを呼び出したことを知って追いかけてきてくれたのだ。
 
「ごめんなさい。信じてください」
 
刑事が嘘をついているようには思えなかった。バナ先輩、ヨウコ先輩、幼なじみ、そして信玄も同じ気持ちだっただろう。
 
「お父さんのことを信じていますか?」
 
バナ先輩は厳しい質問を投げかけた。
 
「いいえ…」
 
若手の岡島刑事は、ホソカワと父親の間に何かあることをずっと疑っていたが、あのメモを見て確信したそうだ。詳しいことは教えられないが、報道を待ってほしいとのことだった。私たちは信じて待つことにした。
 
雲ひとつ無い晴れ渡った空が、かなり高く見えた。私は依然として、フワフワする感覚に包まれていた。
 

真実の報道


『犯人は未成年!』
 
ついにニュース速報が流れた。自分たちの校舎の写真や映像が報道されているのを目にしても、まだ実感がわかなかった。生徒たちは当然ながらショック状態に陥っていた。ところが、あまりに大きな問題に直面したため、その衝撃に耐えきれず、あえて普通に振る舞う者が多かった。沈黙に耐えかねるかのように、大袈裟おおげさにふざける者もいた。何事もなかったかのように登校することで、生徒たちは自己防衛を試みているように見えた。一方で、学校関係者や教師たちは動揺を隠せず、まるで地に足がついていない様子だった。特にやましい気持ちがある教師たちは、心ここに在らずの状態だった。
 
『体罰、児童福祉法違反の疑い、悪の組織との関連、部室荒らしへの共謀きょうぼう、薬物取引、女子高生斡旋あっせんへの関与か?』

各メディアが競うように、現役高校教師の衝撃的な死について報じている。それと同時に、被害者であるホソカワの数々の悪事が明るみになった。
 
強盗に鍵を渡し、部室荒らしをサポートしたのはホソカワだった。大堀先輩やマキをはじめとする生徒たちを利用し、集めた女子高生を他の教師たちに斡旋あっせんする一方、エクスタシーを含む薬物や女子高生の下着の販売も手がけていた。頭痛薬や鎮痛剤などと偽って女子高生に怪しい薬を飲ませていたそうだ。彼女らの意識を朦朧もうろうとさせる目的で使用していたのだ。ホテルがわりに自分の車を安価で提供していたという事実には、寒気がした。やはり、大堀先輩がヨウコ先輩に渡した例のピンク色の頭痛薬で自殺したというのは、ほぼ虚偽の発表であると私たちは感じていた。
 
『被害者の死により真実が謎に包まれている』などと、メディアはさまざまな憶測を交えた面白おかしい記事を好き放題に書いていた。ホソカワが殺人事件の被害者でありながら加害者であった事実は、世間の関心を一層強く引いた。
 
どのテレビ局も『主犯格の少女Oの殺害動機は、性被害への強い恨みか?』という見出しを使い、朝から晩まで報道していた。特に注目されたのは犯人像だった。主犯格である大堀先輩の実名はもちろん、犯罪に関わったマキたちの実名も伏せられていた。しかし、彼女たちの私生活は、マスコミの手によって赤裸々に暴かれた。
 
若手の岡島刑事は、ヨウコ先輩が亡くなった頃からホソカワを密かに追跡していたのだった。ホソカワが大堀先輩を利用し、女子高生の斡旋あっせんをしていることも突き止めていた。証拠のメモで明らかになった数名の教師らは、懲戒ちょうかい免職処分を受けた。しかし、父親である岡島刑事の関与については証拠不十分であると、言い逃れているようだ。ヨウコ先輩の死の謎も公には解明されなかった。
 
「こんなの、解決じゃない」と言って、バナ先輩は唇をみしめた。
 
高架下の小さなカフェのテーブルの上に置かれたグラスの水が、電車が通る度にわずかに揺れた。若手の岡島刑事は、更なる真相解明を誓った。私とヨウコ先輩は、そんなふたりの様子を、大きな窓ガラス越しに見守っていた。店内から微かに聴こえてくるジャズの音に乗って、コーヒーのほろ苦い香りが漂ってきた。
 
釈然としないまま、時だけが無情に過ぎていった。体罰がなくなった学校生活が嘘のようだった。何事もなかったかのように平静を装うみんなの姿が不気味に感じられた。三年生になった私は、一見平和的な学校生活に馴染めず、不思議な空間に迷い込んだかのようなフワフワした気持ちのままだった。何をしていても自分が自分ではない感覚に始終襲われた。哀しみという名の怒りが、胸のあたりでグルグルとループしているのを感じた。
 
話しかけても、心ここにあらずといった顔で遠くを見つめる紀香と私の仲は、なぜか疎遠になっていった。特に何か大きな原因があったわけではないが、彼女の興味は私にはまったくないように思えた。風の噂で、紀香が彼氏と別れたことを知った。部活もなく、恋人と一緒に帰宅することがなくなった彼女は、厳しい母親の待つ自宅に放課後すぐに帰宅する日々が再びやってきたのだろう。
 
何かを思い詰めているような顔をした信玄とも、会える日が徐々に減っていった。お守りに貸してくれた時計が、再び信玄の腕にあるのを見るのが悲しかった。ある日、信玄が廊下の端に姿を見せたので、私は話ができるチャンスだと思い急いで彼の方へと近づいた。しかし、私に気づかない様子の信玄は、クラスの女子たちと何か話しながら教室に入って行った。後夜祭ですれ違った信玄の首元には、いつか私に貸してくれたミリタリードッグタグが光っていた。ふたりで何度も歩いたポプラ並木を、今はひとりでバスターミナルに向かう。そんな味気ない日々が繰り返される。色とりどりだった景色が、突如とつじょとしてモノクロに変わったような気がした。私はひとり、その場に取り残された。
 
寂しさを紛らわすように、私はヨウコ先輩と廊下で落ち合い、一緒に時間を過ごした。
 
((あのね…))
 
ヨウコ先輩は時おり、私に何かを言いかけてはやめた。私はそんな先輩の様子に気づかないふりをしていた。その先の言葉を聞いてしまったら、取り返しがつかないように思えたのだ。真実と向き合うことに恐怖を感じていたのかもしれない。
 
正直なところ、私はこの頃の生活をよく覚えてはいない。思い出そうとしても思い出せないのだ。不思議なことに、ヨウコ先輩も私もコダマとホソカワのフルネームが思い出せなかった。記憶の片隅に何か重要なことを忘れているような気がするのだが、それが何かはわからない。思い出そうとすると頭痛がする。さらに、バスケで負傷した古傷が痛み、いつも違和感があった。それはまるで、時間の感覚が失われているような感じに近かった。
 
その代わり、私は相も変わらず悪夢を見続けた。不快な体罰の夢を繰り返し見る。白黒の夢の世界で、私は罪悪感と恐怖に包まれた。
 
部活に遅刻して殴られる夢。試合の道具をホソカワの車にとめどなく詰め込む夢。洗濯機の中でグルグル回るゼッケンをひたすら眺める夢。バスケのシューズの紐が上手に結べない夢。テーピングをせずに走って転ぶ夢。コダマのゴミ屋敷の埃を吸って咳き込む夢。みんなから離れてひとり湖で泳ぐ夢。水面下にはたくさんの死体がある。信玄が私に愛想を尽かして睨みつけている夢。紀香に電話をかけたいのに、うまく電話できない夢。
 
終わりのないループのような夢の中で、自分が夢を見ていることを幾度となく認識した。ようやく目覚めても、フワフワとした居心地の悪い感覚が消えることはなかった。
 
どのくらい時が過ぎたのか…。正確には覚えていない。それは永遠のようにも感じられた。陰気な学校生活がまるごと異次元に放り込まれたようだった。そんな感覚は、生前のホソカワを見たあの日からコダマが殺される現在まで、果てしなく続いていた。
 

再び神社にて


コダマのセンセーショナルな死にショックを受け、まだ呆然としている自分がいた。ホソカワの死後、私は長らく日記をつけていなかった。机の引き出しにそっとしまっておいたヨウコ先輩の日記を取り出そうとして、ハッとした。
 
(日記がない)

*****
 
○○○○年四月八日
 
コダマが死んだ。

*****
 
そう書き加えたいだけなのだが、どういうわけか日記が見当たらない。部屋の中をひっくり返して探した。使い慣れた自分の部屋が他人の部屋のように感じられた。愛着を持っていたはずの物が、ただの物体に見える。信玄とお揃いで買ったおもちゃの人形が、こちらを向いて悲しそうに笑っていた。なぜかクリーニングの袋に入った私の制服が、ドアにかかっている。窓の外を見ると、そこにはもう祖父たちの姿はなかった。
 
(確か、最後に持っていたのはバナ先輩だったはず)
 
ヨウコ先輩がひと足先に向かったあの神社に、私も急いで向かった。
 
バナ先輩が運転する車で、幼なじみと信玄がやってきた。あの頃とは何かが違う。大きな何かを失ったみんなは、以前とは異なる瞳をしていた。彼らはうつろな目でボーッと遠くを見つめている。この近辺の映像がニュースで絶え間なく報道され、神社も頻繁に映っていた。コダマの遺体が発見されたチャペルが近くにあることを誰もが意識しながら、沈黙を守ったまま目的地へと向かった。
 
バナ先輩、幼なじみと信玄は、異常に無口だった。鳥居を一基ずつくぐり抜け、ゆっくりと上を目指した。最後の鳥居をくぐると、私はふと後ろを振り返った。すべての鳥居の笠木かさぎがピタリと重なっている。いちばん下の鳥居の中に見える景色は、別の次元に通じているような気がした。春先の冷たい風がそっと頬を撫でる。振り返って神社の方を見上げると、依然として無言で足取りが重いみんなの後ろ姿が見えた。
 
手水舎ちょうずやで清め、願い石の方に目をやった。すると、そこには爽やかな笑みを浮かべた若手の岡島刑事が立っていた。
 
「よく来てくれましたね」
 
刑事は少し痩せたように見えた。出世して岡島警視長となった彼の父親の数々のスキャンダルと、教育委員会の体罰隠蔽いんぺいの真相がついに公になった。しかし、コダマの事件のニュースに埋もれながら、静かにかつ手短に報道された。各ニュースが別々に報道されたため、それぞれの事件がまったく関連性がないかのように扱われた。それは、極めて意図的に見えた。
 
岡島警視長がホソカワと共謀きょうぼうし警察幹部への女子高生の斡旋あっせん、薬物の黙認、学校で起こった数々の体罰や事件をもみ消していたことを、息子の岡島刑事が上層部に報告したことですべてが明るみになった。父親が犯した罪であるにも関わらず、冷たい視線が息子である岡島刑事に向けられた。
 
その後、居心地の悪い警察官の職を離れ、現在は兼ねてから興味があった子ども支援センターに勤務しているという。幼い頃から、あからさまに兄ばかりかわいがる母親と、家庭を一切かえりみない乱暴な父親に強制され、その期待に応えるため警察官を目指すしかなかった。過去の呪縛じゅばくから逃れるきっかけを探していたのかもしれないと、岡島元刑事が教えてくれた。ときどき、酒に酔った母親は、元刑事のことを「あの女の子供」と呼んだらしい。父親と愛人の間にできた子供が元刑事だったのだ。優しくて綺麗な実母は病気がちだった。
 
「どうやら僕は孤児院からひきとられた子供らしいです」
 
いつになくお喋りな岡島元刑事の笑った顔が切なかった。ヨウコ先輩と私の体罰問題については、ようやく再捜査が行われることが決定したそうだ。ホソカワを殺めた大堀先輩やマキたちが、どんどん供述を始めたというのは周知のことだった。これで、やっとヨウコ先輩の自殺の謎が解明されるに違いない。
 
「もう少し早くすべての証拠を掴めていれば、第二の被害者を出さずに済んだかもしれません…」願い石に何かを願う信玄の後ろ姿を見ながら、元刑事が呟いた。
 
すると、また意識が遠のいていくようなフワフワとした感覚が私を襲った。ヨウコ先輩が、左後ろからそっと支えてくれた。
 
((第二の被害者って?))
 
((…))
 
ヨウコ先輩が黙って私を見つめている。
 
(まさか…)
 
信玄が手を合わせながら願い石の前で涙を浮かべていた。バナ先輩がこちら側に近づいてきて、
 
「ふたりとも、ごめんな」と言った。
 
再びフワフワする感覚が私を包み込んだかと思うと、まぶたの裏に鮮明な映像が見えた。それは色彩感覚を失った私の目に、再びあらゆる色合いが戻ってきた瞬間だった。
 
体育館の高い天井が見える。床に仰向けに横たわる私の意識が遠のいていく。部員が泣いている声がする。ホソカワがマネージャーから受け取ったボールを脇に抱えて立ち上がる。床の上の私は動かない。すべてのことがスローモーションのように見える。救急車のサイレンの音がはっきりと聞こえる。窓の外の青空に浮かぶ白い雲が、自由に飛び回る蝶々の形に見えた。
 
ヨウコ先輩が私の肩にそっと温かい手を置いて言った。
 
((今まで言えなくて、ごめんね))
 
スーッと一筋の涙が私の目からこぼれ落ちた。


 

公園のカラス


重機がものすごい勢いで赤レンガのビルを解体していく。新幹線ホームの工事が急ピッチで進んでいた。当然ながら、信玄と私の姿はもうそこにはない。ふたりの名前が刻まれたあのベンチは、いったいどこへ行ったのだろうか。

不可思議な事件として騒がれたコダマの殺人事件は未解決のままで、世間の関心は次第に薄れつつあった。たまに報道される続報は、特に進展のないリサイクルだらけのツギハギの情報ばかりだった。

街の中心にある大きな公園内の緑の芝生に座ってくつろぐ恋人たち。ベンチに腰掛けて仕事の合間に休憩をする会社員たち。大きな買い物袋を両脇に抱えて笑顔で歩く海外からの観光客。スケーターたちが一生懸命トリックの練習をする横で、ダンスの練習に励む若者たち。選挙カーから手を振って演説している政治家の騒音が、すべての雰囲気を壊しながら走り去っていった。

『ユートピアを創造しよう!』

 そう書かれた怪しげなカルト団体のポスターの前で、大きな目をさらに見開いた子が不満そうに言った。

 「ふんっ。何がユートピアさ」

 その子は、紫色のスニーカーで何度か地面を蹴り、颯爽さっそうとロングボードに飛び乗ると、向こうに見える赤いテレビ塔を目指した。

海の青みたいな色をした少し長めのボブヘア。ヘッドフォンから微かに聞こえてくる流行りの音楽。背中には大きな白いバックパック。ロングボードを持った私服姿のその子は、バナ先輩を大きな目で見下ろしていた。

 「こんにちは」

 ベンチから立ち上がって挨拶するバナ先輩に、軽く会釈したその子は、天使と悪魔が同時に笑ったような顔をして言った。

 「まずは、アレですね」

 ソフトクリームを嬉しそうに食べるその子を見ながら、バナ先輩は懐かしい思いに駆られていた。風に乗って運ばれてきた香ばしい焼きとうもろこしの香りが、ふたりを優しく包み込んでくれた。

 最後のひと口をパクッと食べ終えたその子に、バナ先輩はピンクと黒の日記帳を手渡した。その子はペコっとお辞儀をすると、食い入るように日記を読み始めた。

 ガーガー、ゴーゴー。

 ベンチに座ったまま、ロングボードに足をのせ、ふたりは無言でそれを左右に動かした。何度も、何度も動かした。地面とウィールが擦れる振動が、心地よいリズムを生み出していた。まるでふたりを乗せるゆりかごのようだった。

 「ボクはダブル体罰じゃなかった」

 その子は申し訳なさそうに言った。バナ先輩は、その子の心の痛みがとうもろこしのにおいに乗って遠くに消えればいいのにと願った。そして、首を左右に振って言った。

 「どんな体罰も、苦しいことに変わりはないよ」

あの時、コダマの悪事を大人たちが隠蔽いんぺいせずにきちんと暴いていれば、転任先の高校でその子が被害にあうことはなかった。服装が自由なその校風にヨウコ先輩が憧れていたことを、バナ先輩はよく覚えていた。もし、ヨウコ先輩が第一志望通りにその高校に入学していたら、コダマやホソカワと出会うこともなかっただろう。

「コダマはボクのことを目の敵にしていたんだ」と、その子は言葉を押し出すようにして言った。

テレビで報道されるニュースを見て、その子はコダマの過去の悪事を知った。自分と同じような体罰の経験をした生徒たちがいることに憤りを覚えたとともに、孤独から解放された気がしたそうだ。

 「ひとりで悩まないで」

 アナウンサーがそう言うと同時に、画面に電話番号が表示された。今までそんなものは絶対に信じなかったし、誰かが助けてくれるわけがないと思っていた。「信じてたまるか」とすら思っていた。電話をかけたことが万が一コダマにバレたら、大変なことになるに違いない。更なる被害を想像すると、不安で押しつぶされそうになった。その気持ちを押し隠すようにしてただ黙って耐えてきた。しかし、コダマはもうこの世に存在しない。その事実がソッとその子の背中を押した。何度も躊躇ちゅうちょしたが、ついに勇気を出して問い合わせた。

古い時計台近くのカフェで子ども支援センターの担当と待ち合わせた日、その子は緊張で朝から腹痛をこらえていた。コダマと出会って以来、子供の頃に父親に受けた虐待ぎゃくたいの記憶が蘇り、極度の緊張をすると謎の腹痛が起こるようになってしまったのだ。窓際の席に座っていた岡島元刑事は、その子を見るなりその場にスッと立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。優しく微笑む顔を一目見た時、その笑顔が嘘ではないと思えた。直感だった。初めて信じてもいいと思える大人ができた時、心臓の周りを覆っていた氷が溶けた感覚がした。岡島元刑事からバナ先輩のことを聞いて今に至る。

 日記に書いてあったことが、自分の体験とほぼ同じだったという事実に、その子は愕然がくぜんとしていた。実は、その子以外にも被害者が相当数いた。しかし、みんな怖くて言い出せず、能面のような顔をして日々を過ごしていたそうだ。明るい校風だった学校の雰囲気がたちまち灰色の世界に変化したのを、その子は見逃さなかった。

 「ボクも続きを書きたい」

 バナ先輩はニッコリ笑うと、金色の小さな鍵をその子に渡した。その子はその手をそっと押し返した。バナ先輩は首をすくめて、ピンクのフェルト製の小袋に鍵を大事そうにしまい、ポケットに入れた。

 「じゃ、また」

 その子は大きな白いバックパックの中から柔らかそうな木綿のスカーフを取り出すと、日記をふんわりと包んで大事そうにしまった。紫のスニーカーで道路を蹴ると、軽やかにロングボードに飛び乗り、帰っていった。

ヨウコ先輩と私はそんな光景を少し離れたところから見守っていた。私とヨウコ先輩のふたり分の苦しい思いがびっしり書かれたあの日記が、また新たに動き出すことに希望を見出していた。バナ先輩の後ろからヨウコ先輩がいつものようについていく姿を見届けながら、

(忘れない)私は心にそう誓った。

カーカーカー。

信玄と私が初デートでこの公園を歩いていた時のことを思い出した。木の上で羽を休めるカラスたちが、まるで笑っているかのようにいっせいに鳴きだした。私は少しだけ怖い気がして弱気になり、彼らの方をふと見上げた。すると、お気に入りのコートを着た私の肩にカラスのフンが落ちてきた。一瞬、ふたりの間に沈黙が流れた。私は、恥ずかしさよりもおもしろさの方が勝って思わず笑ってしまった。信玄も隣で笑いを堪えるのに必死だった。それは、ふたりの緊張が一気に解けた瞬間だった。

カーカーカー。

カラスは私たちと一緒に笑っていた。

(あの時も、『とうきび』のいい香りがしていたっけ)


 

エピローグ

 

赤レンガのビルの解体工事の音が街中に響き渡っていた。都会の真ん中、緑に囲まれた古い教会の片隅にある孤児院の庭から、子どもたちのにぎやかな声が聞こえてくる。こぢんまりとしたレンガづくりの門をくぐると、そこには花壇が現れる。春先には白くて可憐なスズランの花が咲き、訪問者を出迎えてくれる。その向こうには大きな白樺の木が見える。木の下には『寄付』という立派なプレートのついた古いベンチが置いてある。そのベンチに座って熱心に本を読んだり、絵を描いている子どもたちの姿が見える。

「誰にも見つからないようにベンチにふたりの名前を刻むと、願いごとが叶うんだってさ」と、男の子が照れくさそうに言った。男の子のスケッチブックには、真っ赤な鳥居の絵が描かれている。

何重にも重なった赤い鳥居の下を若い男女が歩いている。その先には大きな石が見え、その上にはキラキラと輝く星の絵が描かれ、星の光線がみんなに降り注いでいる。男の子の手には赤いクレヨンがべっとりこびりついている。その手で鼻を拭うと、男の子の鼻の先が真っ赤になった。

隣にいた女の子が、男の子の赤い鼻をチラッと横目で見た。読んでいた聖書をパタンと閉じて立ち上がり、男の子に純白のハンカチを渡しながらこう言った。

「じゃあ、あの人が目覚めるように私たちの名前を彫ろうよ」

男の子は一瞬目を閉じて空を見上げた。再びゆっくりまぶたを開けると、女の子の顔を見つめてニッコリ笑って頷いた。ベンチの背もたれの裏には既にたくさんの名前が彫られていた。空いているスペースを見つけて、ふたりの名前をこっそり掘った。先生たちに見つからないよう、丁寧に慎重にミッションを行う。初めは震えていた男の子の指先が、次第にしっかりとした手つきに変わった。

そして、孤児院の隣にある病院の窓の下に足音を立てないよう静かに近づいた。ふたりでつま先立ちをしてそっと室内を覗く。そこには、いつもと変わらない光景があった。

病室内はすっきりとしている。ドアが正面に見えるが、いつもしっかりと閉じている。窓際にはベッドがあり、その向こうにはもうひとつ小さなドアがある。おそらくトイレだろう。ベッドの横には何やら難しそうな機械がたくさん置いてあり、息を吸ったり吐いたりするような音がしている。この音は何度聞いても慣れない。男の子は怖いと思う気持ちを、女の子に打ち明けてはいけないと思って我慢しているのだった。

ベッドの横に座って本を読んでいる男性が見える。背が高く、髪の毛は少しだけ癖毛くせげだ。いつもひとりぼっちなのにおしゃれをしている。まるで誰かに会うのを待っているようだ。今日はベースボールシャツを着て、ジーンズをはき、白い三本線が入った青いスニーカーをはいている。女の子も男の子もいつもよりも入念に男性の服装をチェツクしていた。すると、その男性はこちらに向かって微笑みながら、いつものようにこう言った。

「願かけ石がもう時期叶えてくれるよ」 

窓の外に見える白樺の木の枝に、スズメが二羽飛んできた。スズメは仲良く小さな虫を分け合って食べている。チュンチュンとおいしそうに食べている。

その男性は再び読みかけの本に目線を戻した。施設にやってきた頃、友だちができない男の子はひとりで庭をうろうろしていた。小石をポーンと蹴ると、小さな女の子が背伸びをして何やら病院の窓を覗き込んでいる姿が目に飛び込んできた。その日以来、ふたりで毎日同じ情景を眺めてきた。 

しばらくすると、ふたりの目がまんまるに見開いた。それはまるで、天から星の光線が降り注いで輝いているような光景だった。男性の向こうでベッドに横たわる、あの人の指が微かに動いたのだ。男性はまだ気がついていない。ふたりは魔法にでもかかったかのように瞬きもせず、一生懸命見つめていた。 

私はベッドの上で病室の真っ白な天井を見つめていた。天井の模様の線を目で追ってあみだくじをした。たどり着いた目線の先には、ふたりの子どもが見え、目が合った。なんとも純粋なキラキラした瞳だった。

私はいったいどれくらい眠っていたのだろう。どれほど多くの夢を見たのか、正確には思い出せない。窓の外からスズメの声が聞こえる。廊下からパタパタと忙しそうに歩く看護師さんの足音が聞こえる。病院の匂いがする。白いパリッとした枕カバーが頬に触れる。殺風景な病室の壁には、花の挿絵が入ったカレンダーがかかっている。『五月』の横に書かれた文章を、心の中でそっと読んだ。

『花の香りは 風にさからいてはゆかず 善き人の香りは 風にさからいつつもゆく 法句経』

 私はゆっくり指先を動かした。なかなか上手に動かせない。少しずつ指を動かして感覚を取り戻す。そして、本を持つ信玄の手に優しく触れた。

 風にのって、ライラックの甘い香りが漂ってきた。


Kitsune-Kaidan

 

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