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【#音楽#とは】テキスト化された音楽

大学院の講義(2019年1月時点)で作った資料です。主に、小説の中で音楽はどのように書かれていたかをレポートにしました。「音楽を言葉で説明することは、音楽そのものを表すことができず、終わったものにしてしまう」と言う講師の本に、「言語優位」かつ「言葉で説明してくれなきゃ分からない」という理由で危機感と不安、不満、敵対心を持ってしまった私は夢中になって受講しました。その集大成です。一部、加筆修正してあります。

 このレジュメでは、音楽と言語の関係について議論したい問いや題材をまとめる。

 音楽のことを語っているテキストは膨大ながら、それらのほとんどは音楽を使って違うことを語っている。その代表例として筆者は小説を挙げる。そして小説は、音楽の認識を狭めるような手伝いをしてきたように考えられるのである。小説の中で書かれてきた音楽の遍歴を辿っていけば分かる。
 斎藤美奈子の『文学的商品学』に、『いかす! バンド文学』という章がある。この章では、小説の中で「音楽」がどのようにして表現されていたのかがまとめられている。大江健三郎の『われらの時代』では、演奏する人の身体的な感覚(例:ドラムを打つときの手応え)や演奏する人を見ている人の視点(例:楽器を弾く腕の筋肉の様子や、どれだけ汗をかいているか)を描写することによって。大沢在昌の『新宿鮫』に出てくるバンドは、オリジナルの歌詞(多くはそれを歌うボーカリストの心理とリンクしている)をそのまま載せることによって。
 しかし、大江や大沢の小説の例は、「音」の表現ではなく、「音楽」を通した人物の心情の表現になっていると斎藤は指摘する。大江の例は「音量を消したテレビの画面」と表現し、大沢の例はメロディが分からないので音楽として読者が想像していない、と斎藤は指摘している。
 斎藤が著作の中で唯一「音楽的な小説」とするのが、芦原すなお『青春デンデケデケデケ』である。しかし、この小説も「音楽」自体を表現しているというよりは、作中で多用される擬音語と、人物の讃岐弁の台詞によって「小説自体が音楽的である」ということなのだ。
 斎藤の指摘から、小説は人物の心理の表現に音楽を使ってきたという筆者の理解の他、音楽の分野と曲名を記号とし、その音楽に密着した文化概念を隠喩とするという、諏訪淳一郎の『パフォーマンスの音楽人類学』で説明されていた「文化相対主義」で音楽を捉えることによって残る問題である思考停止とも言える行いをしている、と筆者は指摘する。村上春樹はジャズ、高橋源一郎はビートルズ、村上龍はロックンロールやキューバ音楽、歌謡曲、フォークソング、山田詠美はソウルミュージックや黒人音楽、江國香織は童謡、クラシック、ジャズ、洋楽など手広い。さらに江國は、洋楽においてはビリー・ジョエル、キッス、エルビス・プレスリー、ローリングストーンズなど幅広い。これらの作家の音楽の使い方は、小説の時空間で流すBGMのような使い方だ。曲を知っている人だけが曲名の記号に反応して記憶の中で流すという、ある意味、パフォーマンスを誘発するような使い方である。しかし、最終的には登場人物のキャラクター設定、生活の雰囲気や心理的な落としどころに回収されてしまうため、結局はそれらの記号は音楽として独立しないで、作家性や作品のテーマなどの別のものに吸収される。最近の例では、燃え殻の『ボクたちは皆、大人になれなかった』で、宇多田ヒカルの『automatic』という、小説ではいささか珍しいJPOPが登場する。だが、曲自体の表現ではなく、小説の舞台である時代性の風刺と主人公のノスタルジーの起動装置という役割しかない。
 また、よりパフォーマンス的だったのは又吉直樹『火花』である。熱海湾に面した祭り会場の祭り囃子の描写がある。書き出しの一行が和太鼓の律動、甲高い笛の音が響くといった、音楽による身体感覚の描写である。主人公の漫才師が祭り会場で漫才をやっているシーンで、その祭りの観客を振り向かせなくてはならないという状況のなかでも、音楽は否応なく身体を震わせるという、音楽の捉え方としては『パフォーマンスの音楽人類学』にあった「器官なき身体」に近いと言えそうである。しかし、祭り囃子には主人公の漫才を邪魔するものという書き換えがされてしまい、小説の中では、いわゆる「終わったもの」になっている。
 このようにテキストの最たるものと言える小説では、音楽の捉え方を狭くしていると言える。

 では小説ではなく、音楽により近いテキストならばどうか。例えば、音楽理論や音楽時評、アーティストや演奏者のインタビューというのが真っ先に浮かぶが、それらは音楽が鳴り響く時空間について語ってはいない。
 音楽が鳴り響く時空間を記録しているものに一番近いと考えられるのは、音楽雑誌やネット記事に載っているライブレポートが挙げられる。アーティストのライブの様子を始まりから終わりまでを言葉で記録したものだ。しかし、それも音楽というよりは、観客の盛り上がりやセトリと呼ばれる演奏曲のプログラム、演出、パフォーマンスの内容、MCの記述が中心である。

 現在は、スマートフォンがあれば特定の曲を人に直接、聞かせることが出来る。よって、音楽自体を言葉で伝えようということは、諏訪の述べる通り不可能であることは元よりとしても、その努力すら必要がなくなるのではないだろうか。高橋源一郎の小説『「純文学」リストラなう』では、現代の音楽の聴き方について、こう書かれている。モバイルに入れておいた曲を再生できるプレイヤーどころか、動画サイトやストリーミングといった、ネットサービス上の特定の場所にアクセスし、曲を引っ張り出して来るということが出来るのだという。つまり、音楽も音楽の周縁にあるものも説明する必要はもはやなく、音楽そのものを直接聞かせてしまうことが出来るのだ、と解釈できる。
 それなのに何故、音楽の周縁にあるものを語るテキストがたくさんあるのか? また、音楽の周縁にあるもの語ることが、なぜ時々、音楽自体を語っているような論調になってしまうのか? それらがこの項での問いである。


参考文献


 斎藤美奈子(2004)「第六章 いかす! バンド文学」『文学的商品学』株式会社 紀伊國屋書店

 諏訪淳一郎(2012)『パフォーマンスの音楽人類学』勁草書房

 高橋源一郎(2018)「「純文学」リストラなう」『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史戦後文学編』講談社

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