【日記】公共圏

8月1日(木)

中心地では大きな祭の前夜祭。暑くて開けていたベランダから、幼い声と野太い声が聞こえ、聞いていると、自転車くらいの速さで遠のいていった。

街の祭を楽しめることが、羨ましいと思った。羨ましいなら自分も行けばいいと言われるかもしれないが、自分が行っても楽しくないから、「楽しめる」のが羨ましいのである。楽しむことが可能である、ということに疑いが無い他人が羨ましいのである。

大規模な祭は最大公約数の楽しみの場で、そこで楽しむことが可能な他人は、得だと感じている。たくさんの他人と過ごす分、人間関係の可能性が広そうだし、メジャーなものが楽しい他人は大抵の催しが楽しいかもしれないと仮定すれば、楽しいことを数珠繋ぎに出来るでしょう。

話は変わって、理論的に直接繋がるかどうか自信が無いが、祭の帰りと思われる賑やかな声を聴いた時、学生劇団のことを思い浮かべた。

公共圏、という言葉があって、それは考えも見た目も生活環境も違う他人たちが交流出来る圏内のこと。その際、例えばマナーや作法、共通の話題といった、広いコードが採用される。

私にとって学生劇団は公共圏だったと思われる。演劇を作ることがコード。演劇を作る圏では、マナーや作法に則りやりとりしても堅苦しいと露骨に言われない。詳しく言えばマナーや作法でやりとりできるから、楽。

演劇やアニメ、映画の話題も楽。昔から筋書きや人物の名前、舞台の名前が自然と頭に入る。他の人が見てるだけでは拾えなかった設定を察することも出来るし、ま後々わかるでしょとなんとなく着いていって、そしてわかる。見るのが得意。

だが、演劇や映画やアニメについてはそれだけじゃ駄目。媒体への愛情がないと話にならないようだった。

私は演劇が好きだったか? 疑わしい。

私は劇団員が好きだったか? 彼ら彼女らの関わり方とは違ったとは思う。彼ら彼女らがマナーや作法を超えた圏に突入して、親しみや愛情でやりとりをしていて、その絆が公共圏に進入していたのか? まるでオゾン層の穴から射し込む紫外線のように。

あの頃はマナーと作法が安らぎだったし、今もそうだ。だが、愛情と親しみが、例えばお金や能力のように、得たいのしれないものに力を持たされてやしないか? と疑いを持つようになってからは、紳士淑女、善男善女には不信を持ちながら相槌を打った。楽しいことも助けられたこともあったはずなのに禍々しい気持ちに押し退けられつつあった。

私は必要だから、愛情と親しみを抱きたい。

どこまでも、私はおかしいが、まだ紳士淑女善男善女がおかしいと思っている。まだ諦めきれない。私が必要に駆られて以外に愛情と親しみを抱く可能性についてもである。

だが、苦しい。助けてくれる他人が現れればいいと思う。

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