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離れたところからずっと見ている

「逆に不調になるってことは、どこかしら負担になっているやつがあったりとか、許容量以上に頑張りすぎちゃっているとかがあると思うんですが、いかがでしょう…」

憧れの人にこういうことをコメントに書くのは少し気が引ける思いがする。でも彼女は誰に対してもそういうことを言葉にしていたから私もやることにした。
"彼女のようになりたい"とかそんなんじゃない。"彼女だから言葉にする"のだ。

私は、自分の心に従って動くことに慣れていない。でも、noteは自分の意志で始めた。マイナスなことが多いので、文章にしていくのはとてもつらいことだけれど、今のところはやってよかったなと思えている。

声を出すことを趣味にしている。一時期それをお金にしていたこともある。
背中を押してくれたのは、憧れの人だった。

その人は、note上で自分の声を披露していた。凛とした、艶のある声―言葉を操る仕事をしている彼女は並々ならぬこだわりを持っていた。
言葉・録音・仕事の姿勢・文章など、思いつく限り挙げてみるとこんなものだが、継続させるための努力を怠らない人でもあった。
私は声と文章が大好きで、毎日そのnoteをチェックしている。つぶやき日記とかちょっとしたエッセイとか、彼女の投稿が一番の楽しみになっていた。
基本毎回スキを押しているが、実はある投稿だけスキを押すことができないでいる。

それは、彼女の実績に関することだった。

私は元来、他人の功績に対して嫉妬心を抱いてしまう。本来であれば、顔見知り(その人の場合はネット上で知り合ったから顔を知らないけど…)が何かすごいことを達成したとき、素直に「おめでとう」と祝福することがセオリーだ。
noteで文章化するにあたって自己啓発系の本を読んだりネット検索したりして自分と向き合ってきたので、今回も自己分析をしようと思う。
何故嫉妬をしてしまうのか、それは相手のスキルが自分と同等のレベルだからだと思う。私のスキルは他の人と比べてまだまだレベルが低い。だが彼女は自宅でやっているとはいえ、既に「プロ」として様々な案件に携わっている。「お金を貰う時点でプロ」という考えがあるのなら、私もプロなのだ。
しかし、彼女のスキルは私よりも技術が上だ。それは自分が一番知っている。現に「やりたい!」という思いだけで始めた企画も元は彼女のアイデアだったし、数は向こうが圧倒的に上回っている。
彼女の技術が上だと思っているのであれば、必然的に私の技術もそれなりだということが言える。かなりネガティブにはなるけれど、ある意味自分のスキルに自信があることになるのではないだろうか。

そんなことを考えていると、憧れの人からコメントが来た。

「多分そうだと思いますが、お世話になっている先生から『そもそもが悪いとどうしても負担はかかっちゃうよ』と言われました。ハンデがあるので、もしかしたら根本的に治していかないといけないかもしれませんね。許容量は超えていないと私は思っていますが、私がそう思っていないだけで知らずにキャパシティが限界になっていたかもしれませんね!」

違う…私が言いたいのはそんなことじゃない。
私が言う許容量は「頑張り方」の問題だ。一日でやるとかではなく、何日かに分けてやるとか、そういう意味で言ったのだ。
受け取り方は人それぞれ違うとはよく言うが、汲み取ってくれないショックが心全体を支配する。
どうして分かってくれないの!―そう思いながら、すぐにコメント返しした。

「私が言った許容量とはそういうことではなく、フル稼働する時間を考え直すという意味です。今まで一日3時間使ってやっていたことを、二日で1.5時間ずつやってみるとかにしたらいいかなと思いまして…稼働できる時間を少なくした分、日数を増やすことで合計時間は変えずに済むとか、いろいろ方法はあると思います。ハンデを持つことって大変ですね…自分の身が商売道具になるのでそれを治療するという選択肢を入れるのは良いと思います!」

こういうとき、普通の人って同情をするものなのだろうか?
体調不良をテーマにしたつぶやき日記のコメントには「早く良くなってください!」「お大事にね」と書かれていたが、私はやり方に無理があったからそうなったとしか思えない。現に親からはそういう風に言われて育ったし、そもそも同情自体に慣れていない。

私だって本当は、彼女の快復を心から祈っている。
それを口にすればいいだけの話なのに、紡ぐ言葉は私自身が苦しめられてきたものばかりだ。
私がそれを言う度、彼女は言葉でそれを跳ね返した。場合によっては糧にするかもしれない。事実、「ノー練習だけど」と前置きした上で披露した表現はとても酷いもので、私が知っている彼女じゃなかった。アドバイスの意味でダメ出しをコメントに書いたら、彼女から返信が来てちょっとした応酬になったことがある。その結果、noteテキストでネタにされた。最も「良い形で」ネタにされたのだが、屈辱だった。

もしかして私は、彼女のことが苦手なのかもしれない。
"憧れ"だから自分から近寄ってしまうのだろうか。せっかく仲良くなれたのに、自分が嫌になったから縁を切るというのが人間として許されない行為なのかもしれないと、私は思う。
でも、私には眩しすぎた。彼女は無知であることと研鑽が必要であることを承知の上で、いろんなことを学び、吸収しようとしている。「仕事で必要だから」と言っているが、その選択を見せつけられることに苦悶を感じてしまうのだ。

憧れを抱くことって、こんなにも心が傷つくものなんだね。

だから私は、こちらから近づかないことにした。憧れの人に対して苦手意識を持つことは、許されないことなのかもしれない。でもそうしないと、自分の心が軽くならない。
その点、Twitterのミュート機能って便利だ。フォローを解除せずに、心がしんどくなる投稿を目にすることができなくなるのだから。苦手な人とはいえ、一度仲良くなったからにはその関係を続けなければならない。こちらの都合で縁を断ち切ってしまうと、失礼になると思うからだ。

でも私は、これからも彼女の投稿を見続ける。
フォロー解除はしていないので、タイムラインにはキラキラと輝く投稿が川のように流れる。目が潰れるまで、ずっと。

だって私は、彼女のファンなのだから―

苦手な憧れの人へ。終始貴様は誇り高くあってくれよ。私はずっと見ているから。

本作品は、清世さん主宰企画「第二回絵から小説」参加作品です。

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