kio aoyama

フリーランスのライター。書籍の企画編集もわりと。第1子を未婚で出産してシングルマザーを…

kio aoyama

フリーランスのライター。書籍の企画編集もわりと。第1子を未婚で出産してシングルマザーを6年ほどやったのち、イギリス人のパートナーと出会ってすぐ第2子が生まれるものの、生後7か月で突然死に遭遇する。痛みやグリーフと共生する暮らしを試行錯誤で実践中。

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毎日、あたらしい人になる

と、いうタイトルで、かなーり前にブログを書いていました。 そのときは、シングルマザーでテンパってて頑張ってて、「何かやらなくちゃ、おおおおおー!」とむっちゃ焦ってて、ちょっと背伸びして、こんなタイトルのブログにしたのを覚えてる。でも、いまは背伸びも何もなく、ただ日々これを実践しようと生きているような気がする。 新型コロナさんがやってきて、なんだか人間は生命活動の原点に立ち返ったかのような方向性をともなって、変化の波にふわっと乗っかった。おかげで、世界がより遠くまで見渡せる

    • 意味はみつけなくていい。

      というのは、いつからか遠い昔に抱いた、わたしの人生訓。 意味を見つけられると安心できたりもするんだけれど、 そもそも、わたしたちの存在も現象も、 意味ありき、じゃない。 存在そのものが、ただ在るようにある、というだけのこと。 そういうと刹那的に聞こえるかもだけれど、 楽観的アナーキズムとでも言うのかな。 唯一感じられる/信じられる〝いま〟を生きるためには、 意味は、たぶん、そんなに重要じゃないんだ。 だから、人生の〝意味〟をふりかざす論はあんまり得意じゃない。 意味は

      • 愛の証明。

        れいちゃん。 昨日今日、おねえちゃんとちっさな旅に行ってきたの。 たった1日だけれど、いろいろ感じたひとときだった。 そしてね、 ごめんねだけれど、きみのことを すっかり忘れていたの。 これまでほぼ毎日考えていたのに、 さっき、東京に戻ってきて思い出した。 きみのこと、考えてなかったなって。 不思議ね。 でも、それももう、わるくないよね。 きみがこの世界に来るまえ つまりはわたしが妊娠していたころ すごく怖かったのを覚えている。 きみをちゃんと愛せる自分になれるんだろうかっ

        • 他者論

          他者によって自分の未来が確定しないこと——。 幸にも不幸にも、それが他者論の核心。by旧友さん わたしにとっては、子という存在に出会ってはじめて得られた感覚。 だから、 親になったりパートナーシップという関係性を構築してこそ得られる 特権的なものであるような気もするの。 でもね、本質的にはきっとそうでもない。 誰もが誰かにとっての「他者」であるという事実。 そこは変わらないから。 きみが傷つくと、わたしにも痛みが走る。 わたしにとって遠く離れた存在である他者の痛みもまた 誰

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        毎日、あたらしい人になる

          永遠のフラクタル

          れいちゃん、お誕生日おめでとう。 もし、きみがこちらの世界にいたら、6歳。 このまえね、おねえちゃんの学校に用事があって行ったのね。 流れで4月からPTAを引き受けることになっちゃってさ、新旧の役員さんたちの顔合わせがあったわけね。そこで、ハッと気づいたの。 れいちゃんって、もしかして今年、新1年生になるはずだったんだって。 いつも「今、れいちゃんがいたら…」と妄想をめぐらせているくせに、なぜかその発想はなかった。きみが0歳のときに通ってた保育園の同級生が今年1年生だという事

          永遠のフラクタル

          〝書くこと〟のジレンマ

          考えていた。なにをnoteに書こうかなって。 「書きたい」と思って始めたnoteだけれど、はじめてわりとすぐに、「あれ、どうして書くんだっけ?」がよぎった。自分でも意外だったけれど、〝書きたい〟という衝動は、思っていたより簡単に、単なる〝ネタ探し〟にすり替わる。 〝書くこと〟によって自分がある意味、浄化されるのは知っている。アウトプットすることで思考も感情も整理されるし、そのおかげで新たな方向性が見えたりすることもある。だから、ただ〝書くこと〟が目的なら、公開せずに原稿を

          〝書くこと〟のジレンマ

          可能性を可能性のままに

          っていうのは、すごくむずかしいかもだぞと最近感じている。 きのうは保育園時代からのママ友企画により、ママ3人でわが家で懇談会。 テーマは、子らたちの中学をどう選択するか。 中学なんてまだ先じゃん、と思っていたのだけれど、ランドセルのなかに公立中学校のパンフレットを発見し、ということはそろそろ考えておけということなのか→何もわからん!→しばらく放置→ママ友から声かかる→懇談会の開催が決定したのだ(はい)。 可能性は可能性のまま寝かされていても意味がない。しかし、どんな可

          可能性を可能性のままに

          どんな社会になっていたい?

          また膨大なテーマだけれど、ぼんやり考えてみてもいいんじゃないというオーダーが頭のなかにやってきた。この先の社会がどんなふうになっていてほしいんだろうって、いま考えておくことが大事に思えてきたのだ。ちなみに、世界じゃなくて「社会」ね。 コロナさんのおかげで、野生性とか身体性みたいなものに回帰できたような気がして嬉しかった一瞬があったのだけれど、その体感を大切にしつつも、この先の社会をどうしていきたいのか、どうかたちづくりたいのかということにも意識を向けていく必要があるんじゃな

          どんな社会になっていたい?

          大切な感覚の磨き方

          先日のこと。 お子①は学校から帰ってくるなり宿題を済ませて、近所のクラスメイトの家へ向かう。いつもどおりiPadと水筒とキッズフォンを小さなトートバッグに詰め込んで、マスクを付けて、お買い物スタイルで玄関を飛び出していく。その姿は何度見ても愛らしい。 そしてふだんは、18時ちょっと過ぎには息を切らせてルンルンの様相で帰ってくる。 でもその日は、帰ってくるなり神妙な顔でこう言った。 「いまアメリカは戦争みたいになってるんだって」 「え!?」 一瞬、面食らって、わたし

          大切な感覚の磨き方

          命日のすごしかた

          昨日はお子②の命日でした。3年目。 そうか、意外とそんなに経ってないな。まだ3年なんだね。でもやっぱり、もう3年、という気も。たぶん毎年、そんな心境の繰り返しかもしれない。でも悲しみは確実にうすれている。うん。よいことだ。 ふだんは、この時期にお子②のメモリアルデイとして、大切なみんなを自宅にお招きする会を催していたのだけれど、今年は考えあぐねたすえに、おこなわないことにしました(さみしい…)。でも、リラックスして訪問してもらえないと意味ないしね。だから、またあらためて、

          命日のすごしかた

          悲しみを吹き飛ばせ。

          じぶん。 8月は、やっぱりまだすこし、つらいのだ。どうしても、悲しみがぶり返す。 そう、今日はちょっとだけグリーフの話。 それでも救われているのは、たぶん、われらのお子②に思いを馳せて胸をチクンと痛めているのが、じぶんだけではないと、知っているから。 もちろん、それぞれに痛みの度合いはちがうだろうけれど、わたしではない誰かが、彼を思って胸をぎゅっとさせてくれている。 その事実が、わたしを救ってくれている。 ふだんはもう、悲しくなったりしないし、できるだけ悲しみには

          悲しみを吹き飛ばせ。

          だって、人間だからねえ。

          「どうして、思い出すのもつらいことなのに、語りつづけるんですか?」 「そりゃあ、だって、人間だからねえ」 高校生のときの修学旅行。胃が痛くなるほど緊張して訪れた広島の地で、ぶしつけな質問が口を突いてでてしまった17歳のわたしに、被ばく者のおばあちゃんが言った。 もう25年も前のことだから、あのおばあちゃんはもう、天国かな。お名前はたしか…佐伯さん。うちのお子②と遭遇したかしらんね。 (もしやと思って検索したら、ヒットした。ちょっと感動) 8月6日、午前8時15分。広

          だって、人間だからねえ。

          もしもし留守電さん

          今日は、ちょっと(かなり)親ばか投稿。 先日、ひさしぶりに外での打ち合わせがあって、帰りの時間がお子①の下校時刻ぎりぎりかもな…という状況だった。だから、「君が帰宅する時点でわたしはいないかもだから、ひとりで過ごしててね」という旨は事前に伝えてあった。 予定どおり打ち合わせはちょっと長引いて、最寄り駅から自転車をかっ飛ばして玄関のドアを開けると、お子①が小さなバッグを片手に靴を履いて、めそめそしてた。 あれ? どーした。ごめんよー。 とっさにそんな声が出てしまったけれ

          もしもし留守電さん

          頼ること、甘えること。

          ひとに頼ったり、甘えたりするのがへたくそです。 とくに恋愛関係では、ものすごく苦手でした。 だから、たいがいお別れの理由は「だって、おまえ、ひとりでも生きていけるだろ」だった。きっと相手から見ると、甘えてこないし、可愛げがなかったんだろうな。 うん。そうだね。ひとりで生きていけるかもしれない。 じぶんでもそう思っていたので、なっとくだった。 でも、もちろん、もう一面のわたしもいた。いつでも誰かに甘えたいけれど、甘え方がまるでわからなかった。よくある括りだけれど、長女

          頼ること、甘えること。

          カブちゃんたちの観察日記

          いつも気負いすぎな気もするので、今日はちょっとお気楽バージョン。 なんといってもnoteの目的は、超苦手なわたしの継続力を高めるためでもあるので(ほんとか!) カブちゃん。 ことカブトムシ4匹がわが家にやってきたのは、コロナさんつながり。 お子①の学校が休校になってすぐの頃に始まったNPOカタリバさんの毎日のとりくみ——zoomで朝の会からはじまっていろいろなプログラムを提供してくれてまた夕方の会で終わるというもの——に気が向いたときだけ参加していたお子①なのだけれど

          カブちゃんたちの観察日記

          いのちの選別はしません。できません。

          ここのところ、“切り捨て”という言葉が頭から消えずにいた。 どうしてそんなことを考えていたかというと…たぶん、ふたたび小池さんが都知事になったからかな。 (もう、またがっかりよ…) だけどいいの。誰が都知事さんになっても、わたしの生き方は変わらない。というか、日々更新していくしかないのだ。自由と光と愛をめざして(なーんてね、でもまじ)。 でも、なんだか“切り捨て”の気配を肌が感じていて、ぞわぞわしていたら、政治家の誰かが、末恐ろしいことを言った。いのちは選別すべきで、

          いのちの選別はしません。できません。