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いのちの選別はしません。できません。


ここのところ、“切り捨て”という言葉が頭から消えずにいた。

どうしてそんなことを考えていたかというと…たぶん、ふたたび小池さんが都知事になったからかな。

(もう、またがっかりよ…)

だけどいいの。誰が都知事さんになっても、わたしの生き方は変わらない。というか、日々更新していくしかないのだ。自由と光と愛をめざして(なーんてね、でもまじ)。

でも、なんだか“切り捨て”の気配を肌が感じていて、ぞわぞわしていたら、政治家の誰かが、末恐ろしいことを言った。いのちは選別すべきで、それこそが政治だ、みたいなこと。

バリッと言語化するならば、これは“優生思想”というやつ….。

そう、すごく怖いやつ。イヤなやつ。こういう考え自体をまるっと削除してしまいたいと思うけれど、たぶんわたしの奥底にも皆無だとは言い切れない、ひとの存在に優劣つけるあれですわ。

コロナさんはたしかにやっかいだけれど、でもせっかく社会の成熟のチャンスが与えられているというのに、この国は逆行まっしぐらなのかもしれない恐ろしい予感がして、悲しくて残念で、怒りがわいた。

withコロナでも inコロナでもなんでもいいけれど、世界中が同じウイルスに対峙するなかで、「だれもが生きものの一員である」というステージに立っていることを再認識できたような気がして、なんだかちょっと高揚した。

つまりは、朝起きてお散歩してお掃除して、ご飯つくって食べて仕事して活動して寝て、また起きて…という暮らしが何より大切で、それを淡々とおこなうなかに、きらっと輝くしあわせがある。というか、そうした暮らしそのものが、ひとのありようだったんだったと、肌で思い出せた気がしたの。

そして直接は会えなくても、他者も同じようにそんな暮らしを営んでいるんだと思いを馳せることで、互いがゆるやかにつながっていると実感できる。その感覚を得られたことが、とてもうれしかった。

“世界”とか“宇宙”とか“生きもの”という視座からすると、ひとひとりひとりの存在はフラットで、だけれど唯一無二で、比類ない存在でしかない。

もちろんネガティブな意味ではなくポジティブな意味で、“ただ在れる”ことの奇跡を、みんなで共有できるフェイズに突入した気がして、世界の境界線が消え去ったような、そんな錯覚さえおぼえて、一瞬うれしかったんだ。

でも、じょじょに、分断も浮き彫りになった。

“社会”という視座では、生き延びれるひとと生き延びれないひと、みたいな括りが生じざるを得ない構造が、隠せなくなった。もちろん、それは個々人の責任としてではなく、社会のシステムの問題として、だ。

日本社会の構造が、ぜんぜん、ひとにやさしくない、ということも残念ながら露呈した(まえからわかっていたけれど、よりはっきりと)。そして本来、社会をまっとうに機能させるためにこの国を動かすポジションにいる人たちが、自分とは違う考えなのかもしれない、ということもわかった。

誰もが生きものの一員として、安全な場所で起きて食べて活動して寝て…という暮らしが守られる土壌であるべく機能しなくてはいけないのが“社会”であるはずなのに、そうなっていない。

困っているひとを助けない仕組みになっている(なんで?)。

そんなときに、政治家がいのちの選別を語った。やばすぎるよ。

さらには、自民党がダーウィニズムを誤用した4コマ漫画なんかをつくて改憲をプッシュしていると知って、辟易するのを通り越して、怖くなった(テレビ見ないから、今ごろ知ったのね…)。

ダーウィンの『種の起源』を読んだのはもうずーっと遠い昔なので、すっかり忘れちゃったけれど(ちゃんと読めてたかどうかも謎)、そこで説かれた進化論が、都合よく解釈されたり誤用されてたりしてきたという負の歴史は、周知の事実だと思っていた。

その誤用が優生思想につながって、歴史上恥じて二度と繰り返してはいけないことがいっぱい起こった。ナチズムとか日本の優生保護法とか、本来あってはならないことが、“優劣をつけられる”という人間の傲った認識のもとにおこなわれた。そして、それらが完全なる間違いだったと認めて、受けとめて、後悔して、反省して、二度とやらないこととしてすでに知っているのが、今のわたしたちのスタンスであるはずなのよ。

そもそもダーウィンという人が説いたのは、きっともっとシンプルな原理で、「生物は絶えず小さな変化をしている」みたいなことだったはず。“進化”という訳語が、なんとなくうがった価値観を取り込みやすいのかもしれないけれど、この小さな変化こそが“環境適応”とか“自然淘汰”と言われる内実であって、だからこそ地球にはこんなにも多様な生物が同時に共生できるんだよ。ってことを言いたかったんじゃないかな。この多様性のすごさを見てよって。

そこに多様性はあれど、優劣はない。

という解釈は、敬愛する生物学者の福岡伸一さんが翻訳したこちらをお子①用に買って読んでのこと(ちなみに)↓


人間は傲りやすいから(弱いからかな)、すぐ優劣つけて安心したくなる。自分と違うものや未知なるものに恐怖を抱くのはしぜんなことだと思うけれど、少し立ち止まって見つめ合って、その“違い”を互いを知って触れてみれば、恐怖はたちまち消えてしまう。そこには、こんなにいろんな違いがあっても一緒に生きられるんじゃんという希望しかない。

コロナさんがわたしたちに突きつけたのは、生の前提としてあたりまえに“死”がいつも目の前にあるんだよ、ということだった気がする(現在進行形だけれど)。逆説的には、その“死”と表裏一体のわたしたちの“生”が、いかに奇跡かってことでもある。

たまたま偶然にも、“いま”という、この時代に生をうけて生きている人たちの奇跡の数々を、いったい誰が選別できるっていうんだい。おばかじゃないの!

(ごめんなさい、書いてたら怒り炸裂した)

そうじゃなくて、誰が誰より優れているとか、損得とか、目先のちっぽけな価値基準は捨て去って、この世界に生をうけたひとがみーんな、あたりまえの暮らしができるように尽力するほうが、よっぽど理にかなっていると思うのよ。

わたし、間違っているのかな。

選別なんて発想はサイアクで、それを口にした人の弱さと傲りの露呈でしかない。ものすごく恥ずかしいことなんだよ。だってきっと、自分は“選別されない”と思い込んでいるのだろうから。

わたしはきれいごとを並べがちで正論に陥りやすいのかもしれないけれど、これはゆずれないよ。声を大にして言います。

いのちの選別はしません。そもそも、できません。

そう思うでしょ?


 Photography by Kabo



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