可能性を可能性のままに
っていうのは、すごくむずかしいかもだぞと最近感じている。
きのうは保育園時代からのママ友企画により、ママ3人でわが家で懇談会。
テーマは、子らたちの中学をどう選択するか。
中学なんてまだ先じゃん、と思っていたのだけれど、ランドセルのなかに公立中学校のパンフレットを発見し、ということはそろそろ考えておけということなのか→何もわからん!→しばらく放置→ママ友から声かかる→懇談会の開催が決定したのだ(はい)。
可能性は可能性のまま寝かされていても意味がない。しかし、どんな可能性の数々が眠っているのかもつねにon the process で、何が出てくるかはいつまでたっても未知だとも言える。その状況のなかで、子らにどんな可能性を見て、どう開花させるかを見極めながら、あるいはどの可能性に焦点を当てるかを見定めながら、最良の選択肢を探していくという作業は、わりと気が遠くなるほど至難の業なんじゃないか…という気がしている(こうやって書いてるだけで、頭がぐるぐるするわ)。
本人が選択肢を調べ上げて「おいらがやりたいのはこれだぜ!」と言ってくれればいいけれど、小学3年のお子①がそんなことを言ってくれるとは思えない(今後また違ってくるのかもだけれどね)。だから、いまの彼女に何の可能性を見るのか、どの可能性にフォーカスするのか、しかもそれ以外の可能性の芽も摘んでしまわないように細心の注意を払いながら、その先にどのような選択肢がつらなっているのかをリサーチする…のは大人の手腕にかかっているとも言えるってことで(ほお)。
…ということで、当面はわたくしがお子①の〝可能性〟と〝選択肢〟について吟味しなくてはならないわけなのだ(そゆことだよね、きっと)。
ふたりとも頼れるママ友で、世の情報から遠ざかっているわたしに、いつも貴重でピンポイントな情報と知恵を授けてくれる。
だから、重要な情報収集はほぼつねに他力本願(苦笑)。
でも選択そのものは、自分でやらなきゃならない。有意義な情報や知恵を、どう生かすのか。判断は己の手にかかっているんだよなあ(あたりまえだけど)。
それでも、信頼できる誰かが、大切な視点と視座をもって情報を授けてくれると、道はだいぶクリアになる。
子らのキャラはそれぞれ三者三様でぜんぜん違うから、同じ道を選ぶことはなさそうだし、同調することもなさそうなんだけれど、それでいて〝教育〟をどうとらえるか(といってもわたしのレベルは到底そこまで追いついてないけれど)どうコミットしていたいか、という土台部分を、それぞれの感覚を尊重しながらも共有できる安心感がありがたくて。
これが真のコミュニケーションってやつだなあ。
なーんて、頭のはしっこで思いながら、ママ友ふたりの話を聞いていた。
自分の人生については、まあ波が来たら乗ってみるし〜流れるままにいくさ〜みたいなスタンスだけれど、自分じゃない誰かの人生を左右する選択が自分にかかっているのかと思うと、わりと心臓がバクバクっとする。
それが〝親〟って感覚なんだろかね。自分のことじゃないから、てきとーにできないの。
「親が与えられる最低限の教育は学歴だから」とスパッとポリシーを掲げて小学校受験をやりとげたママ友もいて、それはそれで、ひとつのあり方だなと思う。「これからの時代、学歴なんか意味ないよ」と言ってしまうのは簡単だけれど、もしお子①がわたしとは違う価値観の世界を自ら選択するようなことがあった場合、学歴もまだ価値あるものになりえるんだろうと思う。
だからつまりは、親(わたし)が大切にしたい、これからの時代に価値あるものと信じたいビジョンに、子を引き連れていく覚悟があるか、というのが第一のミッションということになるのかもしれない。
わたしの価値観に準じて判断していいですか? きみの選択肢を。
いまは、まだココ。
というわたし自身は、小学校受験も、中学受験も、大学受験もやって、ずーっと私立に通った身だ。とくに中学に進学する時点では〝受験〟という選択肢しか目の前にないと思い込んでいて、公立の存在をよく理解していなかった子ども時代だった(いまもよくわかってないけどね)。そして中学受験はけっこう苦しかった。母が苦しんでいるのも目に見えてわかった。
だから受験しなくていいなんて、さぞかし気がラクだろうと思ってお子①を公立小学校に通わせたわけなんだけれど、公立というのは、学びが平等に与えられる場ではあるけれど、子が安心して帰属できるコミュニティと呼べるには、稀薄すぎる関係性しか育まれないのかもしれない、という現実を目の当たりにしたコロナ禍であったわけで。
だから、お子①の人生にもっと積極的にコミットしてくれる大人がいる環境をみつけられたらいいな、というのが、現時点の総括になるのかな。その選択をしようとすると、受験というのも、やはり視野に入れる必要があるということになってくる。
でも、どの選択肢が正しいか、あるいは正しかったかは、教育にかんしてはどれも断言できない。学校選びだけで人生が決まるわけじゃないしね。でもけっこう拘束時間は長いしさ。とか、まだ途上にあるものを見極めながら、と同時に見極めたからといって正しいかどうかはつねに定かでなく、いつも別の可能性を探りながら、結果的に「これでよかった」と言える状況を重ねていくしかない、という。その結果がいつ出るかっていうのも、ぜんぜん未知数なんだ。
わたし自身の結果だって、「出てますよ」とはまだ言い切れない途上であるわけだしね。
そんな選びようのないようなプロセスを、プロセスにありつつ選んでいかないといけない。ゴールのない旅路だわん。
だから、とりあえずはわが意思を信じて、お子①を偉そうに引き連れて伴走するしかないっぽいぞという心境でございます。
ま、わたしが楽しめるかどうかで選んでもいいかなってさ。
可能性を可能性のままに。
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