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永遠のフラクタル

れいちゃん、お誕生日おめでとう。
もし、きみがこちらの世界にいたら、6歳。
このまえね、おねえちゃんの学校に用事があって行ったのね。
流れで4月からPTAを引き受けることになっちゃってさ、新旧の役員さんたちの顔合わせがあったわけね。そこで、ハッと気づいたの。
れいちゃんって、もしかして今年、新1年生になるはずだったんだって。
いつも「今、れいちゃんがいたら…」と妄想をめぐらせているくせに、なぜかその発想はなかった。きみが0歳のときに通ってた保育園の同級生が今年1年生だという事実を知って、やっと気づいたのよ。
わたしとイアンが、あおちゃんのときみたいに、また新入生の親として入学式に参加する……という未来予想図は、わたしの脳裏からスパッと切り落とされてしまっていたみたいなんだ。

すごくショックだった。
ピリッと着慣れないスーツなんかをまとって、入学式に参加しているわたしたちがいたかもしれないという想像が、ゼロだった自分に。
そして、わたしがシングルママとして奔走した0歳児から保育園卒園までの歳月と同じだけの年月が、きみが不在になってから経過したという事実に。
それでずんずん考え込んでいくと、すぐにモヤモヤ霧がかかって
オレの妊婦生活も出産も、まったくもって時間の無駄だったじゃん!
みたいな思考が一瞬よぎった。ひどいよね、れいちゃん。
絶対そんなことないって、知っているくせにね。

ここまでが昨日のネガティブなわたし。

でも心配しないで。
ポジティブなわたしも、いつもちゃんといるんだよ。
顔の出し加減が、そのときどきで変わるだけ。
モヤモヤぐるぐるしながら電車にのって仕事の打ち合わせに行って
帰ってきた地元の駅で、なぜかいつもは手にしないフリーマガジンが目に入って持ち帰ったの。
それで家に戻ってなんとなしにめくってみたら、素敵な言葉に出会った。
すこぶるすんごい級で素敵なやつ。

「フラクタル」  =自己相似性

自分がてんで文系だからかもしれないけれど、魅了されるのはいつも数学とか物理学みたいな世界。
そこに、そこに、どうしても真理があるように感じられてしまうから。
つまりは、きみに近いってこと。

自然界には、部分のなかに全体が反映され、全体のなかにも部分が反映されれているという自己相似性、「フラクタル」と呼ばれている性質が内在しています。たとえば、樹木の形の基本は、大きい枝から小さい枝、さらに葉脈に至るまで、すべてY字形の分岐の連鎖でできています。私たちの肺のなかの血管も同じです。(中略)
時間に関していえば、静かにリラックスしているときの私たちの心拍は、速くなったり遅くなったりゆらいでいますが、その変動のパターンは、時間の長さに関係なく、たとえば3分間のなかにも1時間の変動と同じパターンが含まれています。これらの事実から、時間の流れのなかにもフラクタル性があると考えれば、移ろいゆく有限の時間のなかに永遠が投影されているような気がしてきます。……

  佐治晴夫さんの連載エッセイ「宇宙のカケラ」SALUSより

ってことは、人生のどこを切り取っても、そこには同じ変動パターンとしての「ゆらぎ」があるはずで、わたしが今この瞬間に思い起こすきみの不在は、過去に存在したきみの余韻をそのまま内包する“永遠”みたいなもの
ってことになるんだろうか。

すごくない!?

わたしが感じている今この瞬間という時間に、きみが存在したゆらぎが、同じパターンとして存在しているということ。
うまく言えないけれど、なんかなんか、これまで以上に、見えない「不在」の内にある「存在」を感じられた気がしたんだ。
愛おしさを内包するゆらぎのパターン。
わたしの“今”に存在しつづける永遠のフラクタル。

もしかしたら、まるで理解がまちがっているかもしれないけれど、
きみはわたしの永遠のフラクタル。
そんな気がするの。

ハッピーバースデー♪ 
れいちゃん。

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