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〝書くこと〟のジレンマ

考えていた。なにをnoteに書こうかなって。

「書きたい」と思って始めたnoteだけれど、はじめてわりとすぐに、「あれ、どうして書くんだっけ?」がよぎった。自分でも意外だったけれど、〝書きたい〟という衝動は、思っていたより簡単に、単なる〝ネタ探し〟にすり替わる。

〝書くこと〟によって自分がある意味、浄化されるのは知っている。アウトプットすることで思考も感情も整理されるし、そのおかげで新たな方向性が見えたりすることもある。だから、ただ〝書くこと〟が目的なら、公開せずに原稿を書きためればいい。だけれど公開するのは、他者にも何かしらかかわってほしいという欲求が自分のなかにあるからだ。

そんなことは職業柄もじゅうじゅう承知しているはずで、むしろ読み手こそを意識して書かなくてはならない、という構図が前提になるのが商業出版。著者の意図を汲みながら可能なかぎり読者の共感を引き出す文章を書く…のがふだんやっている仕事だから、「商品としてこう見せるために、こう書く」みたいな割り切りは、つねにある(もちろんスキルが及ばないこともあるけどね)。だけど著者さんの本としてではなく、自分ごととして書きはじめてみると、わりと、様子が違うんだ。へえって思うくらい。

きっと、〝自意識〟ってやつがムクっと起き上がってくるせいなんだな。

自発的にはじめた〝書くこと〟は本来、内側からわきあがってくる〝内発性〟とイコールなはずだった。でも読み手を意識すると、内発性からすこしずつ逸れていって、ちょっと別物に仕上がってしまう。書くことで表現したいという純粋性は、わりとすぐ俗性を帯びてしまうってことなのかな。まあ、誰かに読んでもらうってことは、そういうことなんだ(という原点に立ち返ったわけか)。

仕事で書いているときは、自意識はほぼゼロで、そのかわり自己満足度は高め(笑)。読者にとっての対象は、わたしではなく著者さんだから、その著者さんをいかに素敵に見せるか、みたいなことを意識して書くのはとても楽しい。もちろんわたしの解釈が間違っていることも少なからずあるけれど、それでも対象となる人を自分なりに咀嚼して演出するのは、すごく楽しくて、だから仕上がった際の満足感も高い。

そのかわり、書いたものへの執着はまったくないから、あとから読むと、自分で書いたとは思えないことも多い(だって、著者さんの著書なんだもん)。でも自分のこととなると、脚色のあんばいが見定められなくって、なんか気持ちがわるいんだ。

(なーんて、ただ続かない言い訳のようだけどブツブツ…w)

で、頭んなかぐるぐるをやっていて、あっというまに3週間あいちゃった。もともと継続が超苦手なのは自覚しているけれど、わりと単純な穴に、落ちるものだなと。われながら。

そんなぐるぐるのさなかに、そのぐるぐるにさらに拍車をかけてくれたのが、このドキュメンタリー。

相方さんから「観ておくべし」とおすすめされたもの(↑のリンクは字幕がないけれど、Netflixの本編には日本語字幕ありますです)。

原題の〝social dilemma〟は「社会的ジレンマ」で、心理学用語みたい。Wikiさんによれば「社会的ジレンマ(social dilemma)とは、社会において、個人の合理的な選択が社会としての最適な選択に一致せず乖離が生ずる場合の葛藤(ジレンマ)を言う」のだそうな。

日本語バージョンでは、もうちょっと怖いタイトルがついていて、『監視資本主義 デジタル社会がもたらす光と影』(どよよーんって感じだね苦笑)

Facebook、Twitter、YouTube、Instagram、Tiktok、Googleなどなど、どれもお馴染で、何かしら使っている人が多いと思うけれど、このドキュメンタリーで警告されているのは、「中毒になる/依存する」というような次元ではなく、自分が自発的に(主体的に)選んでいると思っている、いわばアイデンティティ形成にもつながる個々人の行動選択が、いつのまにかこれらのプラットフォームが生み出す「自分像/未来像」へと誘導されている、という点。

まあ、楽観的なわたしからすると「ちょいと大げさなんでないの?」と思ったりもするのだけれど、たぶん、そうとうに真摯に考えるべきことなんだと思い直せるのは、この警告がソーシャルメディアのプラットフォームの作り手側にいる人たちからのメッセージだから。

Googleの検索エンジンとつくった人とか、Gmailをつくった人とか、Facebookの「いいね(Like)」機能をつくった人とかが続々登場して、自分たちがつくったものに対する「懸念」を、ちょっぴり及び腰で、でも真剣に語っているのだ。

われながら自覚がなくてショックだったのは、ソーシャルメディアの世界では「ユーザー=顧客」だってこと。自分がユーザーであるのは自覚していたけれど、顧客だって、意識してなかったんだな(って鈍すぎか!?)。

てなわけで、ようは「自分とは何者か?」という自分的ジレンマ=〝書くことのジレンマ〟に、ぐるっと回ってたどり着くわけなのでした。

人間にはそもそも誰かとつながりたいという欲求があって、それは脳のドーパミンの分泌にも直結しているそう。だから「いいね」をたくさんもらえるとうれしいのは、本能的に承認欲求が満たされるから。だけれど、「いいねの数=価値がある」わけじゃないのは、知っている。

でも、子らたちの世代は、ちゃんと伝えてあげないと、価値の本質を見誤ってしまうことが多々ありそうなのは予想できる。

「いいね」の数があなたの価値じゃないよって。

社会学者の宮台真司さんみたいに「いいねがつかないほうがまともだと思え」と言ってくれる人がいると、このわたしですら救われる気がするもんな。それだけ、知らず知らずの間に、社会が誘導する価値に、ソーシャルメディアが提示する価値の括りに、はまってるってことなんだ。

だから、いちおう自称〝書き手〟としての自分は、承認欲求を超えたところの価値を、うまく言葉に落とし込む努力をすべし、という結論にたどり着いた(いまのところ)。

ジレンマを意識しながらも書きつづけることで、見えてくることも、きっとある、と信じておこう。とりあえずw

となるとやっぱり、自然とか、身体性とか、がどうやったって大切になってきそうな気配。次世代の子らたちに必要不可欠なもの。そして、わたし自身が埋もれずにもがきつづけて、検証すべきこと。

=生きものとしてのわたし。という視座。


photography by Kabo



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