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どんな社会になっていたい?

また膨大なテーマだけれど、ぼんやり考えてみてもいいんじゃないというオーダーが頭のなかにやってきた。この先の社会がどんなふうになっていてほしいんだろうって、いま考えておくことが大事に思えてきたのだ。ちなみに、世界じゃなくて「社会」ね。

コロナさんのおかげで、野生性とか身体性みたいなものに回帰できたような気がして嬉しかった一瞬があったのだけれど、その体感を大切にしつつも、この先の社会をどうしていきたいのか、どうかたちづくりたいのかということにも意識を向けていく必要があるんじゃないか、という気持ちに変化しつつある。この先の社会にどんなヴィジョンを描くのか、みたいなこと。

といっても、まだ頭のなかがとっちらかっているし、まずはこの先の社会がこんなふうになったらうれしいぞ、という像をざくっと挙げてみたいなと。いわば妄想ということになるけれど、妄想の域を突き破りたいという願いはわりと強くあったりもする。

もちろん、わたしなんぞがひとりでどうこうできるわけじゃないかもだけれど、考えるのは自由だもんね。世界は人間の範疇を超えているけれど、社会はなんてったって、わたしたち人間がつくるものだもの。だから考えて、何かしらの行動につなげていくのは、きっと義務であり権利であり、責任でもあるのかもしれない(とか急に偉そうだけど)。

今日はまずざっくりと、“こんな社会になったらいいな”を羅列してみようと思う。付随して浮かぶ疑問も。

いちばんに思い浮かぶのは、マジョリティが存在しない社会。みんながみんなマイノリティである社会だ。

多元的な社会っていうのと近いのかもしれないけれど、ちょっぴり違う感じというか…同じなのかもしれないけれど、誰かから見て多元的だというのではなく、主体的にみんながマイノリティなの。誰もが自分がマイノリティであると自覚できたら、そのままでダイバーシティなのにな、と思うことはけっこうある。自分の当事者性と他者の当事者性を、もっと気軽にシンクロさせられるような社会とでもいうのかな。

だから必然的に、誰もとりのこされない社会である。

もちろん、何気ない日常がそれぞれにあることを尊重できる社会でもあり。

おのおのの身体性やコンテクストの違いに互いにも気づける社会。

違いによって不自由がある場合は、不自由がある人の特異性を優先できる社会。そっちのほうがより多くの人にとって心地よいに決まっている。

街づくりも、建築物も、そうした発想がくまなく網羅されていると、より多くの人の自由度が増して気兼ねがなくなって、社会全体のハッピー感も高まるんじゃないかなと。わたしみたいないわゆる“健常者”にも(この括りも必要ないってことになるけれど)、ひとりでは気づけないことへ気づきがあって、つねに成長/成熟の要素が与えられる。それが社会としての(コミュニティーとしての)緩やかな絆や信頼にもつながる。見知らぬ他者とも、ちゃんと目と目が合うくらいのつながり感が、つねに流れている空間とでもいうのかな。

資本主義はこの先どのくらい機能するのかな? わたしは資本主義社会でしか生きていないから想像しにくいけれど、学生時代からずっと、もし「お金」の存在がない社会になったら、人はもっと解放されるんじゃないかな、みたいな発想があった。

当時、本当にいちばん考えたかったのは、「労働ってなんだろう?」ってことで(まだちゃんと労働したことなかったのにw)、本来の労働ってお金を得るためじゃないよねきっと、という安易な気持ちを担当教授に話したら、ハンナ・アレントの『人間の条件』をおすすめされて読みはじめたりしたんだけれど、ちょっとわたしには難しすぎて、ドロップしちゃったんだな。それでハンナさんから離れて、シモーヌ・ヴェイユさんに行きついた。

でも今読んだら、何か発見がある内容なんじゃないかという気もする。もう中身すっかり忘れちゃったんだよ(例によってまた…)。分厚いのだ。

もし労働の対価が「信用」とか「クリエイティビティ」という価値の表現体であるなら、お金じゃなくてもよいよね、とは今も思う。地域通貨みたいな交換システムはどうやらあまりうまく機能しないみたいだから、だとするとどういうのが可能なんだろう?

ボランティアしたい意欲と、金稼ぎたい意欲が、結果的に同じ価値になるといいのかな。やりたいことの結果として資本が伴わなくても、生きていける社会。そこで得られるものが、社会的な価値としては同じようなものになったら、みんな楽しく生きていけるかも。

「所有」という概念にも、そろそろ変化があってよさそう。ということは新しい資本主義のかたちを考えなきゃなのか、あるいは資本主義とは別のシステムがいいのか、ぜんぜんわからないけれど、とにかく資本を増やしたり所有することが安心や豊かさにダイレクトにつながる感覚はもう薄れつつあるよね(そんなことない?)

所有しないでも生活がまわれば、所有する必然性はわりと簡単に消えていく気もする。お金や家や車を持っていなくても、暮らしていける。それでも自分のやりたいことを実現していける社会のほうが、持つか持たないかに自己実現性が左右されてしまう社会より、しあわせ度は高い。→公共圏みたいなこと? でもまだイメージがつかみきれない。

仮に、全員が全員いま手にしている所有を資本も含め手放して、労働も作り出されるモノも現在と同じように機能している状況になったら、みんなが適材適所をみつけて生きていけるようになるんじゃないかって妄想が、いつもどこかにある…。システムもモノももう在るんだから、資本が介在しなくてもまわるんじゃないかって。まあキレイごとで理想郷みたいな発想なのかもしれないけれど、誰が使っても、誰とシェアしても、交換しても、社会はまわっていくような気がしてしまうのは単純すぎるのかな(まあ、もっと社会は複雑化しているんだよね、きっと…)。

かつては経済も成長論が是とされて、でもそれがほぼ終わりを遂げているのはみんな気づいていて、この先はきっと脱成長論が主軸になるんだろうなと思うけれど、だからといって「分配」がいいという単純な問題でもなさそうで。となると、そのつぎの案ってなんだろう? もちろん現時点ではベイシックインカムが与えられるような社会だとだいぶ気がラクだなと思うけれど、それでいて全体主義でも社会主義でもなく、共産主義でもない在り方って、なんだろう?

じゃあ政治はどう? 今回のコロナさんで、民主主義をちゃんと機能させるってどんなだったっけ!?みたいな状況が浮き彫りになって、今まさにそれを確認しているさなかにいるのかもしれないけれど、民主主義の輪郭がぼやけたからといって、全体主義に戻りたくないのは確実。でも、今すごく揺らいでるから、もういちど「こうあってほしい、こう機能してほしい民主主義」を確認して認識を共有し直したい。政治も不勉強すぎてわからんけれど、本当に信頼に値する先鋭たちが、先のことを見据えながら、もうちょっと柔軟にオープンに、決断できる(議論が見える)社会だといいな。

そしてその先鋭に選ばれた人たちは(ま、今のところそれは政治家なんだけど)、もっと人間個体ベースの視座でヴィジョンを提案&共有できるといい。どの政策が、できるだけ多くの人にとって豊かさを提供できるか、より成熟した社会の一員としての暮らしの助けになるか、数値としての経済ではなく社会そのもののクオリティを高められるか、という視点での判断が第1のイニシアティブであってほしい(もちろん生命体としての地球=つまりは環境や生物多様性も視野にいれるのは言うまでもなく)。目先の損得ではない視点で。

あとは、個々人の物語が大切である社会かな。

定量化、効率化では測り切れない価値の大切さをもう一度とり戻したほうがしあわせになれそうだ…という予感はわりと多くの人がすでに持っている気がする。だから大学でもリベラルアーツの復興が求められていたりするんだよね、きっと?=物語、哲学、文学、芸術——つまりは文化ってことになるのかな。

そこから自分の方向性をみつけらるような社会。何が自分にとって、他者にとっての豊かさであるかの方向性を見定めながら暮らす社会。定量化と効率化では測れない価値を、そのまま価値とできる社会。

そのためには、自分の好きなものを自信をもって選べるようになる教育が必要。ひとつの物差しではなく、自分の物差しで人生を設計していける教育。どういう生き方が自分にとってハッピーかを見つける能力を身につけられる教育でもある。帰属集団によって判断されることのない価値の存在を共有できている必要もあるのかもしれない。

身体感覚や、心が動く感覚に素直にしたがっていいという前提がある社会でもあってほしい。つまりは、わたし(あなた)はいつまでも規定されずに未知数であるということを、担保できる社会であるということ。

と…つらつら書きまくってみると、自分の内なる声との対話みたいだけれど、なりたい社会が見えてくると、人生のかじ取りのディレクションも定まってくるのかなと思って。じゃあ、つぎ何する? どんなことが自分にできるんだろう?

まだまだ妄想は出てきそうだけれど、妄想から1歩踏み出して具体化への道を探りたい。みんなで探れば、わりと落としどころも見えてくるんじゃないかなという希望も込めて。ぜんぜん不勉強すぎるから、もっと具体的にスマートにこれからのビジョンを考えている人たちがきっとたくさんいるんだろうな。ぜひ教えてください! 

みんなで考えたいな。この先のなりたい社会。

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