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「呪縛解放 仮➓」裏側へと繋がる門「感覚という鎖」
あの少女のことを、もうほとんどの人々が覚えていないだろう。
彼女の物語を私の世界に取り込み、新しい形で提示することによって「裏側へと繋がる門」を構築する。
「つまりですね、言うなればこれから普通ではないことをなさるわけです」
「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんというか、いつもとはちっとばかし違って見えるてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」
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少女は終戦の翌年に生まれた。
何の因果か2年後の彼女の誕生日に父は戦争時に患った肺病で亡くなった。
少女の誕生日と父の命日は同じ日であった、ということ。
彼女の母は東京に出稼ぎに行っており、少女は祖父母の元で成長した。
彼女の祖母はいつもこう言っていた。
「上を見たらきりがない。下を見て暮らせば自分に満足できる」。
しかし、下を見て暮らすにはいささか彼女は賢すぎた。
そして感性が鋭すぎた。
さらには時代もそぐわなかった。
余談になるが戦後、米国は日本に対する占領統治の中で様々な改革を行った。その内の一つ、「学制改革」。
人々は現代の教育制度、つまりは「小学校→中学校→高校」の「6・3・3教育制度」を「当たり前」だと考える。しかし、それは学制改革によって敷かれた制度であるのだ。戦前は「飛び級」や社会人からの高等学校への入学、また地域コミュニティが機能していたために学問ができなくとも逃げ場がある、というように個人の能力にある程度沿った教育体制が敷かれていたのである。
彼女はその戦後の教育が敷かれ始めた過渡期の世代でもあった。彼女を導く立場にある大人たちも、何もわからなくなっていたのだ。
少女は「良い人」になりたかった。
きっと、父も母もいない中で彼女が生き残る手段として「良い人」である必要性を無意識に感じ取ったのだろう。
しかし、少女には「良い人」がどのような人かわからなかった。
その基準になる人は彼女の目の前にはいなかったから。
だから、「新年の抱負」という作文でその気持ちをありのままに書いた。
「良い人というのは本当は私にはよくわからないのだけれど、とにかく良い人になりたい」
これは少女自身も気付いていなかっただろう無意識のSOSであったのだと思う。
(でかい人が居ればいいな。そんな人のおくさんになりたい。抱っこされているような生活。私のすねた言葉も、ひねくれも、わがままも、全部すっぽり、包みこんでくれるような人。そうしたら、子供のまんまでいるの。どうせ演技だろうけど。)
先生はみんなの作文を刷って回した。
彼女の作文は先生によって書き換えられていた。
「私は良い人になりたい。良いという意味を今後広めてゆきたい」
少女は真っ赤になって思った。
(私はこんなに偉い人間ではないのです。わたしは単純にわからないから、わからないと書いたのです。)
その先生はよく生徒の作文を真っ赤に直して返した。
少女はそのたびに自分を恥ずかしく思った。
それから少女は多くの本を読むようになった。異常なまでに。
恥ずかしくない人間になろうとしたのかもしれない。
しかし恥ずかしくない人間というのは彼女の周りにはいなかった(そもそも、そんな人間などいるのだろうか)。
彼女には「基準」がなく、目指すものを見いだせず、ただ勉強をすることによって恥ずかしくなくなろうとした。
けれど進めば進むほど彼女の心は擦り切れていった。
彼女の魂はそれを拒んでいて、それ以上勉強はできない状態になっていた。
しかし、勉強をしないことは彼女に強い自己嫌悪を覚えさせた。
勉強をしないことは「恥ずかしい人間」になってしまうことだったのだ。
彼女の不幸な点は感性があまりにも鋭かった故に自身を直視することができてしまったこと。
彼女の中にある心の矛盾、つまり勉強することは自らを守る壁を構築していること(演技をしていること)と気付いていながらもそれをやめられない。
そしてそれを大人たちが自分に押し付けたことだと気づいていながらも、現状を壊すことができない。
私は何も知らなかったんだ。大人が卑怯なんだ。だまされたのと同じだ。過去。人のお情で、私の身体は、積もってできているの?だからって。だまされたんだ。だまされたんだ。おまんじゅうだよ。腹がすいているんだろう。食べなさい。何も知らないから食べる。さっきのは私のだよ。生意気言ったらいけないよ。食べちゃったおまんじゅうが返せるもんか。どうして普通の人にとって当たり前のことが私にとってそうじゃないの?自分の身体を見る。苦々しさ。どうして私だけが自分の身体を負担に感じなくちゃならないの。
素直に恩を感じていたらいいのでしょう。私は生意気で意地っ張りすぎます。
自分の醜さから目を背けることができなかった。
これも時代が新しく日本人に植え付けた「個人の自由」、という呪いにかかっていたといえるだろうか。
彼女は月を憎んだ。
自分で燃えているのではなく、反射して光っているから。
まるで自分のようだと。
彼女は綺麗な良い人、恥ずかしくない人間になりたかった。
お正月に考えたこと、というテーマの作文が宿題となった。
彼女はお正月にこう考えていた。
明日こそは、明日こそは、明日は絶対にやってこなかったのです。真剣に生きたいと思いました。賢くなりたいと考えました。いろいろなことを知るために勉強したいと思いました。でも私には何一つとしてできなかったのです。
十分にできていました。
しかし、「演技」をしてできたことを彼女は「できた」と思えなかったのです。
もしかしたら、どうにかなろうとすることが間違った、ウヌボレと気づいた時、私は死のうと思いました。けれど死ねませんでした。
そのようなSOSを作文に書くことはもう彼女にはできませんでした。わずかな、しかし大きな自尊心として彼女はこう書いた。
「カーテンの中のブルウの花の中に入ってしまいたいと思いました」
けれど、それをキザ(嘘)だと考えて、彼女は別のことを書いた。
「何も考えない。お正月になると何か考えるという事は、ばかげた習慣である」
それは無記名でいい作文だった。
何日か後、クリスチャンの先生が生徒全員の前でその作文について話し始めた。
「一粒の悪いパン種は、パン全体を悪くしますね」
「もうひねくれちゃっているっていうかこわいですね。どんな悪い事をした囚人でさえも、泣いて悔い改めようとするものです」
その教師の話は長々と続いた。
その中で少女は「四十を過ぎた後家」であり、
「英雄気どりでいる馬鹿者」であり、
「結婚したらすぐ頬をぶたれて離婚されてしまう娘」であり、
「少女一人のために級が悪くなる」のであった。
話が終わり先生は教室を後にする。
少女はふらふらと立ち上がり教師を呼び止めた。
「どうかしましたか?」
教師は少女がその作文を書いたとは全く考えていなかった。
少女は引きつりながら弱々しく笑い言った。
「あれ私が書きました…。それだけです。」
それから教室にフラフラと戻っていった。
それから…。
それから……。
少女はある頃から物語を自身で創るようになっていった。
学校から帰るとそれを紙に書き記していった。
その物語を創ることがわずかのところで少女の命を繋ぎとめるようになった。
その物語はイザナギという男を主人公としたものであった。
輪廻転生を繰り返す男が苦しみながらもそれぞれの時代を生き抜いていく物語。
少女はイザナミ。
強く激しい怒りという炎を身に宿し、それに焼かれてしまったのだった。
どこかの次元のとある精神分析学の権威がグレートマザーと呼んだモノ。
その負の作用である「渦」に飲み込まれてしまっていたのだ。
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物語を進めるうちに少女は自身がその物語を創っているのではないことに気がついた。
男が少女に自らの物語を降ろして紙に書かせていたのだ。
それに気がついたとき少女はその男に恋をした…。
しかしその男と少女が出会う事は永遠にないと物語を通して少女は知っていた。
遠い昔のどこかの次元で怒りに焼かれたイザナミは黄泉の国、つまり物質の世界に降り立った。
そこで人々に知恵を与え社会を構築させた。
その時からイザナギ(陽)とイザナミ(陰)は異なる世界を生きることとなった。
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イザナギがイザナミに物語を書かせているが、物語を伝えているイザナギも上の次元のイザナミの描く物語の一部なのだ。
マトリョーシカみたいなものだ
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創世のアクエリオン
だから両者が同じ世界に存在して出会うことはない。
出会うことがあるとすればそれは「オワリ」であろう。
相反することで世界はハジマリ、
合一することで世界はオワル
「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」
「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。一つの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。逆もある」
「重要なのは、動き回る善と悪とのバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾きすぎると、現実のモラルを維持することが難しくなる。
そう、均衡そのものが善なのだ」
つまりは、
戦争は平和である
自由は屈従である
無知は力である
全てのものに魂が宿りあなたを見守っているという感覚、「アニミズム」。「表」
世界のあらゆる物質はデミウルゴスが創造したものであり、それらのすべてがあなたを監視している。「裏」
ビック・ブラザーはあなたを見ている
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光があるところには影がなくてはならないし、影のあるところには光がなくてはならない。光のない影はなく、また影のない光はない。
私の言っていることが理解できないでしょう?
説明しなければわからない、というのは説明してもわからないということだ
私は心の中で言う。
「人の目には敗北者に見えても、その人達は本当の勝利者なんだ。あなた達のように生きてどこが偉いの。あなた達は、人間でさえないじゃありませんか。平凡に生きるのが一番いいだなんて、そんなの口実だわ」
「あなた方は、人から教えられて、架空の鬼を恐れている子供と同じです。その人の思想のために、その人が世の中から捨てられるとしたら、それは世の中の方が間違っているんだわ。あなた方は、自分の小さなからの中にとじこもって、その中でぬくぬくと暖まっていようとする。そしてそのからがこわれるのを極度に恐れているんだ。思い切ってそんなの壊してしまえばいいじゃない。破壊のあとには建設がある。あなた方は何もすることがなくて、ウロウロしているんじゃないか。
「あなた達は、人間でさえないじゃありませんか。」
「破壊のあとには建設がある。」
これが裏側に落ちた人間が見る景色。
「のっぺらぼう」、という御伽噺があるでしょう?
あれもそういった「裏側の世界」に落ちた人の見る景色を描いたものです。
「裏側」にはUFOも妖怪も、幽霊も、天使も悪魔も、神もいます。
そして、月が二つあることもあり得るのです。
精神が壊れた人間の見る妄想と片付けられますが違うのです。
そもそもの現実や社会というものが脳と感覚器官に制限をかけた状態であり、例えば目に見える周波数帯(可視スペクトル)は400T㎐~800THz程度。
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多くの観客でにぎわうホールにいても隣の人間の話す内容を聞き取ることができるでしょう?(カクテルパーティー効果)
そうやって人間は自動的に必要な情報と不必要な情報を別けることで、
「見たいものしか見ない」、
「聞きたいものしか聞かない」、
「知りたいことしか知ろうとしない」、
それ以外は「そういうこともあるのだろう」、
とするのです。
裏側とはその機能が外れた世界。
現実の世界や真実の世界のことです。
そこに長く滞在するとコワレテしまう。
けれど厄介なことに世界の本質はそこに身を置かなければ見えない。
そして、表の世界では決して繋がれない〇が存在している。
落ちてしまうにしても、自ら向かったにしても、「表」へ戻ってこなければならない。
そこには「まごころ」が必要となる。
「一人だけど孤独じゃない」、そんな感覚のことである。
あなたは何をしに裏へ向かう?
あなたには戻ってくるための「まごころ」がありますか?
「表」と「裏」が「均衡」していることが「善」であるのなら、「裏」を軽視して無いものであるかのように扱えば世界は崩れてしまうのです。
それこそが「激しく」、「強い」ものである「悪」か?
それから………。
教室の隅っこに立って、「あたし」と、言っている内に、涙があふれ出てきました。お友達は何も言わずに、ギュッと私の手を握ってくれました。暖かい手でした。私は初めてその人の前で泣きました。ワアワア泣きました。どこかに体が吹き飛んでしまえばいいと思いました。
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「誰もいない教室で、君は天吾くんの手を強く握った。十歳のときにそうするには、あらん限りの勇気を振り絞らなくてはならなかったはずだ」
「もっとも歓迎すべき解決方法は、君たちがどこかで出会い、手に手を取ってこの世界を出ていくことだ」
……
「1984年においては、私と天吾君の歩む道がクロスすることさえなかった。そういうこと?」
「そのとおりだ。君たち二人はまったく関りをもたぬまま、お互いのことを考えながら、おそらくはそれぞれ孤独に年老いていっただろう」
「1984年」は1948年当時の未来予想として書かれた。
1948年は少女が誕生日に父を亡くし、母が東京へ出稼ぎにむかった年。
彼女が孤独になった年(「表」)。その世界の先で彼女は……。
しかし、1Q84(「裏」)においては違う。
その世界を抜けた場所なら少女と男は手を繋ぎ、きっと笑っているだろう。
あなたは何をしに裏へ向かう?
あなたには戻ってくるための「まごころ」がありますか?
これは「裏側へと繋がる門」。
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
みぞれは舞わない
みぞれは まっすぐに落ちる
ちっぽけな水滴と
大きな雪の塊は
争っているように早い
ボタッと落ちて
スーッと消える
だから
みぞれはなんだか悲しい
雪には余裕があるのに
みぞれにはない
なんだかあの人に似ている
だから
みぞれの音は寂しい
みぞれは花びらのようにきれいなのに
みぞれはなんだか哀しくおかしい
道化師のようにみぞれは消える
みぞれの暖かさの内には誰も入ってゆけない
だからみぞれの暖かさを
誰も知らない
このような記事を書かずにいられなかった自分の醜さをどうか許してほしい。
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