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呪縛解放④ 「有る」と「無い」の鎖

△存在の有無が不明とされているもの

あなたは「神」や「幽霊」、「宇宙人」、「オーラ」や「気」、「魂」、といった、いわゆる「存在の有無が不明とされているもの」についてどのような見解をお持ちでしょうか?

どのような根拠を元にそれらの有無を判断していますか?

見たことがないから?
もしくはあるから?
テレビで見た論者が馬鹿っぽかったから?
知り合いから聞いた話が説得力があったから?
なんとなく有る気がするから?
みんな信じていないから?

もしかしたら、有るか無いかなんて関係なくて、

それが金になるから、
それで経済が回るなら、
それを信じて幸せになれるなら、

それならそれでいいではないか、

そのように思う方もいるでしょう。

人の存在意義は「答えまでの過程」ですので、あなたがどのような見解をお持ちだとしても、それは答えへの種の一つであります。
全ての見解は許されます。

そのような哲学的な解釈はさておき、

あなたは科学的に「存在の有無が不明とされているもの」がどのように捉えられるかご存じですか?

つまり、科学が事象を証明する過程をご存じですか?

△科学の証明過程の一例

例えばAがBとじゃんけんをしました。
Aは5回連続で勝利しました。
あなたはこの結果を偶然ではない、つまり「Aはじゃんけんに強い」、という仮説を立てます。この仮説を立証するためにあなたの設定した仮説と対立する仮説(帰無仮説)を設定する必要があります。つまり、「AとBの間にじゃんけんの実力差はない」、という仮説になります。
ここであなたは有意水準を設定します。これは帰無仮説を棄却するための水準です。ここでは5%に設定したとします。
このとき、じゃんけんで5連勝する確率は約3%であり、AとBの間にじゃんけんの実力差はない、という仮説は棄却され「Aはじゃんけんに強い」という仮説が採択されます。

しかし、この過程に問題があるのは分かりきっていますよね。
じゃんけんの確率は試行回数を繰り返すほど均一になっていきます。
5回で判断するのは早計すぎる。
そもそも八百長の可能性はないのか?
AがBのじゃんけんのくせを知っていたのでは?
その指摘は正にその通りで、故に更に試行回数を増やしたり、余計な要素の排除、有意水準を更に低く設定する、といったことが必要となるでしょう。

その上でまた研究を重ねるのです。

これが科学により事象の有無を証明する過程です。

△日本人と科学

科学的に事象を明らかにしていくプロセスからは下記のことが分かります

・科学とは反対の意見がなくては成り立たない。
・測定者の良心に依存する部分も大きい(有意水準をいくつに設定するか、試行回数をどこまで増やすか、結果に満足せず更なる追加調査を行うか)。
・仮説が採択されたからといってそれが正しいとは限らない。
・科学は測定することによって結論を導き出す。
・故に測定困難なものに関して科学は有るとも無いとも結論づけられない(悪魔の証明) 。 

それでは最初の質問に戻りましょう。

あなたは「神」や「幽霊」、「宇宙人」、「オーラ」や「気」、「魂」、といった、いわゆる「存在の有無が不明とされているもの」についてどのような見解をお持ちでしょうか?

どのような根拠を元にそれらの有無を判断していますか?

少なくとも科学的にはそれらが有るとも無いとも現時点で判断することはできません。

だって、測定できないのだから。

また、日本国内ではそういったものを研究しようとすれば頭が変になったとされて研究費がおりないのだから、そもそも研究すらできません。

故に日本の「存在の有無が不明とされているもの」に対する科学的検知の段階は、

「わからないすら言えないレベル」


ということになります。

わからないという段階にすら立てていないのに一体何を根拠に盲信して他者を攻撃したり、頑なに信じず他者を攻撃しているのでしょうか?

科学が西洋から輸入されてから約200年ほど経ちましたが、いまだこの国では科学的思考は根付いていないということです。

△境地

日本教とホメオスタシス、

もしくは、救世主の素養であり、且つ日本民族共通の精神疾患(回避性パーソナリティ障害)の病理でもある恐怖遺伝子、

これらの作用によりそもそも日本人の大多数には科学的思考を求めることは無理であると考えます。承認欲求の道具か暇つぶしとしてしか科学を取り扱うことができないのです。

しかし、それは必ずしも悪いことではないのです。

非合理主義、言い換えれば「境地」に辿り着ける素養でもあるのだから。

「有る」だとか「無い」だとか、
 もしくは「あり得る」だとか

「納得できる」だとか、
「わからない」だとか、

そんな次元など到底及ばないような
「説得力」としか表現しようのないような、

そんな景色に至れる素養を日本人は持っているのですから。

あなたの認識がそれを諦めないのであれば。
あなたがあなたの身体や脳、感覚器官の可能性を信じ続けられるのであれば。

△最後に

美しさとはなんでしょうか?

それは多面性への理解です。

あなたは今、境地に至る感覚依存の判断闇を照らし暴き出す科学的思考の二つの判断基準を認識しました。

多面性への理解を始めたと言えるでしょう。

人間の感覚は本当は5つではありません。
また、その5つすら、ろくに活用できていません。
それでは理解できない面が沢山「有る」のかもしれませんよ。
そして、「無い」のかもしれないのです。

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