㋐呪縛解放㋻ ルシファーの鎖 仮❻
風が冷たさを帯びてきて木々は寒くはないのだろうか。
葉は目を凝らせてみれば一枚とて同じものはない。
それらは単に身を覆い守る衣という役割にとどまらず、木々の心をも寒さから守っていたのであろう。
風が冷たさを帯びてきて彼女は寒くはないのだろうか。
愛するものがこの世界から去って、彼の体温が自身の心をも寒さから守っていたことに気づく。
彼女は彼の身体を削ぎ落していく。
優しく、これまでの日々を思い返すように、
時に強引に、これまでの諍いを清算するように、
涙をながし、新しく前に進めるように。
そして、彼女は彼を口に含む。
一つたりとも残さないように、大切に、大切に飲み込んでいく。
彼女と彼は一つになったのだ。
彼女の命は彼によって繋がれた。
彼は彼女に喰われることでまた輪廻の環へと戻っていくのだった。
あなたが人の命を奪わないのは命を奪いたくないと思う個体だから?
もしくは、命を奪いたいと思う「闇」を乗り越えた個体だから?
それとも「命を奪うのは悪い」というルールを徹底的に叩き込まれた個体だから?
あなたは朝、布団から這い出て朝食を食べる。
何故?
何故朝に起きないといけない?
何故朝食を食べなければならない?
あなたは登校、もしくは出社する。
何故?
何故学校や仕事に行かなければならない?
昼食を食べる。いつもと同じ道を通り、いつもと同じ家に帰宅する。
夕食を食べ眠りにつく。
何故?
あなたがそれらをするのはそういう個体だから?
それともそのように徹底的に叩き込まれた個体だから?
「そういうものだから」、と何の疑問もなくそれらをしている個体がもし、別の国、別の時代、別の人々の中で生まれて、
「神の名により異教徒を狩る」ことが正しいと徹底的に叩き込まれていたら…。
その個体は「そういうものだから」、と命を奪ってしまうのだろうか。
しかし実際のところ、そうではない個体などほとんど存在していないのかもしれない。
もし世界がそうだったとすれば、多数決の原理というものは…。
かつて何者かが地球を中心として宇宙が回っていることを主張した。
主張の正否は関係なく、時代・民族・国の政治や思想、価値観、利益とマッチすれば主張は採択される。
そして地球が太陽を中心に回っている、という主張者を罪人としたのだ。
自分たちの権威や利益、つまりは、存在を保持するための行為であることには目を向けず、「頭がおかしい」、「人々を誑かして状況を混乱させる」という、単純化・自動化をしたのだった。
彼らはそれらが単純化・自動化からの帰結であると自覚することができない。
存在の保持に、権威や利益、これまで叩き込まれたものを使用していると気付いてしまうことは自らの存在の否定・危機であるからだ。
現在、何者かが地球を中心として宇宙が回っていることを主張したとしたら、どうだろう?
人々は存在を保持するため、その主張者を「頭がおかしい」、「人々を誑かして状況を混乱させる」と、単純化・自動化をしないだろうか。
たとえ間違っていても、その人なりの調査で見つけた答えであることは確かだろう?
間違った答えすら見つけ出せない者が権威や利益、これまで叩き込まれたものを使用して主張者を攻撃するのであれば、主張同士の正否の位置が変わっただけで、人々は何も変わっていなかったといえる。
存在を保持するのに何かに縋らなくてはならない、
そして縋っていることに気がつけないで他者を攻撃する、
そのような醜さをイデオロギーをとっかえひっかえして隠し続けてきた。
それだけが人の歴史だとしたら・・・。
父も母もいて、
家族も友人も大きなトラブルもなく、
仲が良くて、
毎日が輝いていて、
だけど、それが当たり前になって、
その輝きに気がつけなくなって、
けれど失って。
本当は日々が輝いていたこと、つまり、
ずっと幸せだった、そんなことに気がつく。
もしそのように生きれていたとしたら、
私は人間とは何かを深く考える個体になっていたであろうか?
私が深く考えるのは、そういう個体だから?
それとも、そうしなくては存在を保持できなかったから?
「私」とはなんだろう?
「あなた」とはなんだろう?
何者かが問うた。
「世界や人々の在り方について高い理想を持ち、百年後や千年後を想い行動できる、そのような人材を育てるにはどうすればよいだろうか?」
別の何者かが答える。
「心に欠落を与えるのです。欠落のある者に高い理想を与えれば喜々として飛びつきます。心の穴を正義や理想、未来で埋めようとするのです。それらで自己の存在を保とうとするのです。」
「それで?具体的にはどのように欠落を与える?」
「一番簡易的なのは幼少期でしょう。両親を剥奪するのです。母親が理想的です。」
もしあなたが今とは違う世界に生まれてきたとして、
その世界は「生まれた子どもから両親を剥奪するのが普通」、と徹底的に教育される世界だとしたら。
人々は適齢期になると子どもを手放すことが普通で、それができないものは異常とされる世界だとしたら…。
あなたはあなたの子どもをそうしていただろうか?
もし、そうだとしたら、あなたの愛は、あなたが受けてきた愛は、社会から徹底的に叩き込まれたもの?
あなたはどこに?
あなたと社会との境は?
それともあなたはもうすでに存在していなくて、社会という生き物の細胞になってしまったのかもしれない。
ところで社会とはなんだろう?
もしあなたが真実のあなたに出会いたくて、深い深い内省の旅に出かけたとする。
そこであなたが、あなたの中の「闇」に出会ってしまったとしたら、
目の逸らしようのない「欲」、
気に入らないものを叩きのめしたい、
縛り付けるものを消し去ってしまいたい、
愛するものを縛り付けて思い通りにしたい、
壊したい
殺したい
一つになりたい
喰べてしまいたい・・・。
あなたがそれを直視してしまったら、
あなたはあなたの存在を保持できるだろうか?
少なくとも人々にそれができないと判断した者たちは社会を構築した。
人々が自らの弱さから目を背けても存在できるように。
そのためのツールが社会の始まりだとしたら、
あなたはあなたの「弱さ」とどう向き合う?
人はそれぞれに気質の器を持っている。
器に合った水を注げば人は活き活きと育つであろう。
けれど間違った水を注ぎ続ければ人は自分の存在に価値を見出せなくなってしまうだろう。
しかし社会ではそれらを弱さとして是正されることを要求する。
深く考える気質の者に「勇気をもって戦え」、と強制するのは間違った水を注いでいると言える。
好奇心旺盛で後先考えられない者に「深く考えろ」、と強制するのも同様。
気質を無視して間違った水を灌がれるから苦しい。
けれど社会からの要求とは別に、本当に気質とは異なる器が欲しいと、つまり、勇気を持ちたいと、深く考えたいと、優しくなりたいと願うのなら、どうすればよいだろう?
今持っている器を満たすのだ。
自らの器を痛いほど理解し、その気質に嫌になるほど合った水を注ぎ続けるのだ。
そして、満たされたとも、飽きたとも、嫌になったとも、
また、幸せともいえる心持ちに辿り着けたとき、本来の気質を手放し、別の気質への歩みを始めることができるのだ。
それから気がつく。
辿り着いた場所の先にも、
隣にも
後ろにも
上にも、下にも、
まだ世界があることに。
「私(吾)」はその何処へでも行けることに。
「私(我)」も何処へでも行ける個体であったことに。
それが万物の霊長たる「ニンゲン」、であったことに。
A、自己存続の保持に社会を利用し、利用していることにも気がつかないでいる。だから、自分の社会感と合わない存在は自己存在の危機として認識され、攻撃対象となる。攻撃対象としているのはあくまで自己保存のためなのにあくまで理由は「相手がおかしいから」。
そのような人々で構成される社会。
B、自己保存に社会を利用せず、例え「闇」があったとしても自らの内面をきちんと直視する。そして、自らの気質を理解し、気質に合った水を注ぎ、満たし、他の気質への理解に歩みを始める。
人々は「私」はどこにでも行ける、と思っている。
そして、万物の霊長であることを自覚している。
そのような人々で構成される社会。
あなたはAとB、どちらが生きやすい社会だと思いますか?
社会は絶対に必要だと思います。
社会の中で何かを構築することが魂の修行であると思うからです。
社会という存在そのものを否定したいのではなく、私はBの社会に生きたい(行きたい)のです。
そのためにはまず社会とは何か、
現在の社会がどのような問題をはらんでいるのかを書く必要があるのです。
社会が嫌いなはずないでしょう?
だって故郷なのだから。
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