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  • オタク的、あるいは哲学的な十篇

    2023年末に何か達成感を得る為の。

最近の記事

映画『ルックバック』、未来ではなく過去によって

同作者の『チェンソーマン』を愛読しているのもあり映画『ルックバック』を観た。元の読み切りにも興味はあり、読んでから観る選択肢もあったが、原作と比較して差異がどうこうというのは如何にも安牌というか、「何事か」を言うには良いが真に劇的な体験からは程遠く思えた。まぁそんな事情はよくて映画をいきなり観に行ったという話。 観終わった初めの印象は「孤独」であった。それは確かにif世界(解釈は色々できるがこう呼んでおこう)でも最終的に二人が出会う訳だが、(特に京本は)それまで非常に長い間

    • 需要と供給の一致する部分が価値として実現するのであって、供給側からすれば労働価値説で需要側からすれば限界効用価値説になる。我々は対価なき生産にも対価なき消費にも価値を認めない。それだけの話ではないか?

      • 蓮實重彥『表層批評宣言』

        最近「表層」への興味に関連してこの本を読んでいる。 著者は聞いたところでは「映画は画面に映っているものが全て」「表層の向こう側を読み取らない」といった風で、思想性・テーマ性など俗な意味での「文学性」を否定する批評家という印象だった。 しかし『表層批評宣言』を読む限りではそうでもなく、「社会と個人」だの「近代的自我」だのの主題には軽蔑を隠さないものの、ただ表層の分析をするには終始しない姿勢も読み取れる。「批評」における言葉の不自由を暴こうとしたり、「作品」を表層と遭遇する事

        • アンディ・ウォーホルと表層を愛すること

          マルセル・デュシャンが小便器を『泉』なる作品として提示して以降、アートにとって「美」が本質的だという見方は永久に失われてしまった。 そこに反ブルジョワ的なダダイズムの潮流を見出すにせよ、ただ選ぶことを芸術表現として宣言するデュシャンの思想を読み取るにせよ、『泉』はアートが感性というより理性の領域に移った象徴的事件と解されている。見た目ではなく内容、言いたいことを理解するのが「鑑賞」の実態となった。 ただ現実はどうだろうか。どんな現代アートの巨匠にしても、写実主義だとか印

        映画『ルックバック』、未来ではなく過去によって

        • 需要と供給の一致する部分が価値として実現するのであって、供給側からすれば労働価値説で需要側からすれば限界効用価値説になる。我々は対価なき生産にも対価なき消費にも価値を認めない。それだけの話ではないか?

        • 蓮實重彥『表層批評宣言』

        • アンディ・ウォーホルと表層を愛すること

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        • オタク的、あるいは哲学的な十篇
          10本

        記事

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む⑥

          概念的な分析を求めていたのでこの辺りは個人的におまけの部分だが、折角なので全編やっておく。 第四章応用編なので気になった話題を扱うに留める。 フィクション装置の一つとしての身体的アイデンティティの入れ替わり。古典的なフィクションにおいては演劇の役者などがこれを実践しているが、デジタルゲームは受容者が同時に行為者となることを可能にした。「異なる主体への心的かつ行動的な同一化」(p.218)がここでは起きている。 メタフィクション・ゲームの話でも触れた、ゲームをプレイし、選択

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む⑥

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む⑤

          『鳴潮』で忙しく先週は飛ばしてしまった。 第三章第五節 フィクション的モデル化について。前回述べたようにそれはフィクションを理解&体験すること、没入により「フィクションの中へと導き入れ」(p.172)られることを意味する。没入は手段であり、モデル化、「フィクション世界」へ触れることこそが目的だ。 フィクション的モデル化はどういうものか、つまりフィクション理解がどうなされるのか。これまで見てきたようにフィクション性とは語用論的、つまり使い方の問題以外ではありえないのだが、

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む⑤

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む④

          「メイク゠ビリーブ」について触れられており、簡単に知りたい身からするとお得。正確な理解かは知らないが。 第三章第三節 この節は「フィクションとは何か」という観点にはあまり関わらない気がするが、心理学的には非常に重要な事実を指摘している。それは自他分離の後天性、そして睡眠時の筋脱力(REM atoniaと言うらしい)だ。 この節のタイトルは「フィクション能力の個体発生—―ミメーシス的自己刺激について」で、その通りに個体発生、つまり進化的にではなく個体の成長の過程でどうフィ

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む④

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む③

          ここで「遊戯的偽装」の素性が明らかになる。 第三章第一節 この章はドイツの作家ヒルデスハイマーによる『マーボット。ある伝記』の話から始まる。この著作は同氏のモーツァルトの伝記に続いて出版され、ゲーテを始めとする多くの著名人との交流を豊富な引用で描き出していた。批評家からも高く評価された「伝記」だったが、実のところこれは全くのフィクションで、アンドリュー・マーボットとはどこにもいない架空の人物だったのだ。 ヒルデスハイマーは多くの読者が騙されたことに驚き、いくつかのフィク

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む③

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む②

          今更だが、この手の本の例に漏れず訳者解説が研究史や本文内容の優れた解説になっているのに気づいた。先に読んだ方が良い後書きというものも実は世の中には存在する。 第二章(続)アリストテレスを参照しつつ「模倣による表象」をフィクションの心理機構として考える。(p.91-)これは再実例化、偽装のどちらとも違うミメーシス的事象(ミメーシスは要するに模倣)として先に挙げられていたものでもある。(p.72) 表象とはつまり心の中のイメージだが、重要なのはそれが単一の能力であることだ。「

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む②

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む①

          元々はケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』を読むつもりだったのだが、(電子書籍がないので)書店でいざ目にするとかなり読み辛そうで、隣にあるこの本にしてしまった。「原著主義」には縁がない、と言うか学生の頃に散々いきなり原著読むの怠すぎ体験をしているので、より新しい総説的な本が出ているならそれを読むに越したことなどない。 まぁ読んてみるとこれもまた晦渋な表現が気になる本だったが。フランス語の抽象概念には話者にだけ分かる豊饒な含意でもあるのか? 第一章フィクションに対す

          シェフェール『なぜフィクションか』を読む①

          「最弱テイマー」あるいは外的物語と内的物語について

          いわゆる「なろう系」※作品ではタイトルで話が大体説明されていることがよくある。 ここで扱いたい2024年冬アニメ『最弱テイマーはゴミ拾いの旅を始めました。』も一見その手の作品で、更に言えばすぐ強い魔物と出会って「最弱」でもなくなるんだろうなという程度は簡単に想像される。結果的には『勇者パーティーを追放されたビーストテイマー、最強種の猫耳少女と出会う』(2022秋)など※※と近いノリではないか、と。 だが実際にはそうではないし、更に言えばそうした外面的な筋書きでない部分にこそ魅

          「最弱テイマー」あるいは外的物語と内的物語について

          「理解する」とはどういうことか 認知心理学的、ピアジェ的な回答

          自分のことを理解するのは難しい。「自分」というものが心身の連続性や体性感覚から構築されている、と私は理解しているがあまりピンと来る説明ではないだろう。自分そのものについて考えるとすぐにループに陥り、方針すらも見失ってしまう。 理解そのものにもまた似た困難がある。「理解」とは何か、どういうことが起きると「理解した」と感じるのか。 一例として「音が高い・低い」という表現がある。これはとても直感的な言い方に見えるが、よく考えると不思議で、何しろ「高い・低い」とは基本目に見える物に

          「理解する」とはどういうことか 認知心理学的、ピアジェ的な回答

          ブルーアーカイブの「大人」

          最近推し(椎名唯華)のブルーアーカイブ配信を楽しく見ているが、少々気になるのが「こういう思考/行動が子供」などのコメントが時々見られる点だ。初期ならとにかく最終編を経て尚こういう見解が出るのは少し残念に思われる。 自分もかつて触り始めた当初は「大人と子供」「先生と生徒」の射程を測り兼ねるところではあった。文化的な文脈で言えばブルーアーカイブは学園物の美少女ゲームをはっきり引き継いでおり、プレイヤー層のスライド(加齢)に合わせて主人公をヒロインと同じ生徒ではなく、大人の先生に

          ブルーアーカイブの「大人」

          自己紹介としての「批評性」批判

          「語る」オタク達を脅かし続ける一つの呪いがある――「批評性」という呪いが。 それは一体どこからやってきたのか? オタク文化を云々する批評家は意外に昔からいるが、やはり最大の伝道師というと東浩紀ではないかと思う。 Twitterも無いような頃のインターネットにおいて氏は最大の嫌われ者となると同時に、また数多の後継者を生み出した。 何か「実のある」語りをしようとしたオタクが社会反映論に終始してしまうのは、その語り口、あるいは文学的アプローチの摸倣に見えてならない。 東はこの直

          自己紹介としての「批評性」批判

          日経平均株価の最高値更新を巡るテキスト

          投信を多少持っているので日経平均の数字には関心がある。その日経平均が22日に史上最高値を更新したというニュースを見たが、個人的には国内の株高に前々から不信感があった。 GDPで言えば大して成長していないこの国の株高に意味はあるのか? 「異次元緩和」で大量に貨幣が供給されたことによる数値上の上昇に過ぎないのではないか。(貨幣数量説的な思考) 供給された貨幣が株式市場に流れ込み投資家の資産が額面上増えているだけならば、世間で「実感がない」とされているのも道理ではある。 今回の

          日経平均株価の最高値更新を巡るテキスト

          『メメントモリ』との1ヶ月、または放置ゲームが「正解」なのかどうかについて

          ソーシャルゲームには2つの車輪がある。インゲーム、つまり曲がりなりにもそれを「ゲーム」たらしめているゲーム性における性能。そしてアウトゲーム、ゲーム性の外側で展開されるストーリー上の魅力。この二つがキャラ(または各種アイテム)の価値を生み出し、課金へと導く。 (『原神』のような3DRPGではストーリーもインゲーム上で展開されることが多くなるので、インゲーム・アウトゲームという対比はもしかすると無用かもしれない。) だがここには歪みがある。ゲーム性が「性能」という価値を作り出

          『メメントモリ』との1ヶ月、または放置ゲームが「正解」なのかどうかについて