シェフェール『なぜフィクションか』を読む①

元々はケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』を読むつもりだったのだが、(電子書籍がないので)書店でいざ目にするとかなり読み辛そうで、隣にあるこの本にしてしまった。「原著主義」には縁がない、と言うか学生の頃に散々いきなり原著読むの怠すぎ体験をしているので、より新しい総説的な本が出ているならそれを読むに越したことなどない。

まぁ読んてみるとこれもまた晦渋な表現が気になる本だったが。フランス語の抽象概念には話者にだけ分かる豊饒な含意でもあるのか?

第一章

フィクションに対する批判が実のところ、プラトン以降特に代わり映えしないという話。

個人的な問題意識によるところもあろうが、それ以上に言うことは無い印象だった。
ついでに書いておくと、その問題意識とは物語実在論的な立場からの倫理、つまりキャラクターが実在すると信ずる場合に何を「すべき」で何を「してはならない」か、ということだ。これは一見荒唐無稽かもしれないが、境界的な存在のVTuberがいたり、チューリングテストの妥当性を脅かすAIがいたりする現代にとって、決して無関係ではない。
私は自由主義者以前に常識的な市民として迷信めいた表現規制には反対だが、それはそうとして物語におけるステレオタイプの再生産が「良いこと」なのか、といった話には関心がある。「良い作品」も「悪い作品」もあって良い、ただその区別が無意味だとも私は思っていないのかもしれない。

第二章

まず重要なのは「見せかけ」と「再実例化」の区別だろう。(p.68)
物事の模倣において、「見せかけ」の模倣は「猿真似」などと揶揄されるが、ではそうではない「ちゃんとした」模倣とは何か。
それは「構造を内面化する」(p.110)、つまりどのような機構でそれが起こっているか、行為で言えばどのような情報処理がされているかを理解し、そのモデルを獲得することだ。すると見た例とは別のパターンを生成する、つまり再実例化することができる。

(模倣の前に書かれている類似についての話もそうだが、「構造の内面化」はピアジェ的な言い方で、この辺り構造主義の息吹が垣間見える。)

またVRが現実を置き換えてしまう、的なフィクション批判について、偽装を模倣から区別する必要を指摘する。
本気の模倣、つまり再実例化では生み出されるもの(ミメーム)は手本と同じ類のものだが、偽装では異なる。例えば剣術を再実例化するならば実際に相手を斬ることを意図する(少なくともそのような技術を目指す)が、偽装ではそのように見せることだけが意図される。「模倣=再実例化では模倣するものと模倣されるものが同一の存在論的クラスに属し、偽装にあっては異なるクラスに属する」(p.87)。意図によって分けられるというのは少し不思議かもしれないが、殺人罪と過失致死罪のように、または多くの人が意図せず偽の情報を伝えることを「嘘」と呼ばないように、意図によって分けられる物事は日常的に見られる。

偽装において「再実例化」はむしろ邪魔であり、「見せかけ」こそが重要となる。そのため誇張しすぎた物真似のように、特徴を敢えて強調することも多い。これを超正常刺激に準えて「超正常ミメーム」と言っている。(p.87)

(続く…)

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