蓮實重彥『表層批評宣言』

最近「表層」への興味に関連してこの本を読んでいる。

著者は聞いたところでは「映画は画面に映っているものが全て」「表層の向こう側を読み取らない」といった風で、思想性・テーマ性など俗な意味での「文学性」を否定する批評家という印象だった。

しかし『表層批評宣言』を読む限りではそうでもなく、「社会と個人」だの「近代的自我」だのの主題には軽蔑を隠さないものの、ただ表層の分析をするには終始しない姿勢も読み取れる。「批評」における言葉の不自由を暴こうとしたり、「作品」を表層と遭遇する事件として捉える姿勢からは、確かにそこに語るべきもの(特に体験)があるという意思が見える。

最初の「言葉の夢と「批評」」がその不自由に関する章で、不自由とは未知を既知の枠へと嵌め込むような言語(あるいは知)の分節化する力を指している。とはいえ我々の認知能力は分節化と不可分であり、それ故に自由であることは「夢」なのだろう。
またこの章は現代から見るとはっきりフランス現代思想(構造主義)的であり、序章で「倒錯」として提示されている不自由を敢えて模倣してその限界を露呈させようとする姿勢が、はっきりと脱構築に同質であることも分かる。読みにくいと言われるのも分かるがネイティブよりは大分マシではないか?

「表層の回帰と「作品」」は私にとって本題と言える章だが、まず過剰とも言える執拗さで「書物の歴史」から「紙」が排除されてきたことを指摘する。更に「生まれたことによってまぎれもない死への可能性をはらんだ生なましい存在」としての人間も、その有限性が虚構化されることで不在のものとされてきた。前章の「言葉」と併せ、この三つの不在が不自由の根源にある。「書き、読まれつつある瞬間にここにあるが故に、「制度」によって不可視の圏域へと貶められ、遭遇の機会と場所とを奪われてある「人間」と「紙」と「言葉」とが、「作品」と呼ばれるものにほかならない。」
この三者の事件としての遭遇、その瞬間に作品があり、批評がある。それは恐らく私の作品体験と呼びたいもの、鑑賞の瞬間にこそ瞬くあの何かと同じはずだ。

この後に具体的な例として大岡昇平『萌野』が示されているのが良い。(世の中には恐ろしいことに具体例の無い論述というものもある。)
大まかに言えばこれは「萌野(もや)」という保守的文人の作者(大岡)が拒否感を示す名前が結局は孫に付けられてしまう話で、「萌野」は作者という制度的存在を掻い潜って生まれることで『萌野』もまた事件たり得ているという。バルトの「作者の死」を思わせる。

それにしても何故「表層」なのか。それは先の三者が分離されるや否やそれ自身でないことを代弁し出す、つまり「「人間」が精神を、「言葉」が思想を、「紙」が賛否をもっともらしい顔で代弁してしまう」からだ。
精神とは典型的には「作者の気持ち」で、全く明らかなことだがそれは書かれていないのだから正解はない。確定している=有限なはずなのにそれを忘れて無限の可能性を人は読み込んでしまう。
思想は最も分かりやすく、例えば商品の現れる作品の悉くに資本主義批判を読み取ることはあまりにも簡単だ。それが(一見)肯定的であれば「無批判な享受を諷刺している」とでも言えば良く、また否定的であれば「資本主義そのものの問題点を暗示している」だの何だの好き放題書くことができる。
賛否が(紙については長々と語っていた割に)最も不明瞭だが、直後の民主主義批判への言及を踏まえると、発行部数に「評判」を読み取るような行為が投票制の相似形として賛否と言われているのかもしれない。

また(前後するが)表層の有限性の虚構化について、反映と隠蔽という2つの原理を指摘する。つまり「偽りの表層というか、その上にかぶされた薄い皮膜の上に反映するのが「社会」で、「表層」に穿たれた隙間の奥に隠蔽されているのが「個人」だ」という具合に容易く無限な意味合いが偽造されてしまう。こんな鋭利な指摘があって尚、素朴な社会反映論や作家論が世に氾濫しているのは一体どういう訳だろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?