ブルーアーカイブの「大人」

最近推し(椎名唯華)のブルーアーカイブ配信を楽しく見ているが、少々気になるのが「こういう思考/行動が子供」などのコメントが時々見られる点だ。初期ならとにかく最終編を経て尚こういう見解が出るのは少し残念に思われる。

自分もかつて触り始めた当初は「大人と子供」「先生と生徒」の射程を測り兼ねるところではあった。文化的な文脈で言えばブルーアーカイブは学園物の美少女ゲームをはっきり引き継いでおり、プレイヤー層のスライド(加齢)に合わせて主人公をヒロインと同じ生徒ではなく、大人の先生に再配置したものに見える。
しかし現代において「大人」は崩壊した概念だ。日本における旧来の大人とは家父長制的、パターナリズム的な抑圧者であり、経済・思想の両面から性別役割分業が解体するに従いその権威には根拠が無くなってしまった。今や「大黒柱」でも何でもなくなった奴が何を偉そうに、という話。するとブルーアーカイブにおける「大人」とは、ヒロインを恣にするプレイヤーの欲望を補強する概念に過ぎないのだろうか?
だがそうではなかった。

責任を負う者について、話したことがありましたね。
あの時の私には分かりませんでしたが……。今なら理解できます。
大人としての責任と義務。そして、その延長線上にあった、あなたの選択。
それが意味する心延えも。

最終編3章第11話

我々もまた「大人」が真に何を意味するか、この最終編で理解することになる。

4章内のPHT決戦において、可能性世界のようなものの中の「先生」はシロコヘ「責任は私が取るから」の一事、ただそれだけを伝えるために死をも越え、悪意そのものかのような「色彩」をその身に引き受け、プレイヤーの世界線へ至る。これは「命を懸ける」よりも一層重大な覚悟だ。文字通り死んでも、責任を抛つことは決して許されないのだから。
そう、ブルーアーカイブの「大人」とは覚悟ある者、それも無限の責任を負う覚悟ある者なのだ。連邦生徒会長が先生の選択から読み取った「心延え」とはまさにそれであったのだろう。

逆に子供、生徒とは究極的にはどこかで責任を投げ出せる立場にある。日本的に「甘えられる」と言ってもいいかもしれない。これはただ意志の違いであり、どんな能力や思考の差でもない。ただ果てしない覚悟だけが「大人」の立場を規定するのだ。

まぁメタ的な力(課金)も登場するが、それは別に決定的な要素ではないし、生徒の戦闘能力に比べて劇的でもない。それでも災厄と悪意に立ち向かい、生徒を庇護しようとする全ての選択が「大人」であり「先生」であることを証明し続ける。

これはプレイヤーにとっても悪い話ではない。「同じ状況、同じ選択」の言葉通りただ選択が覚悟を証明するならば、たとえどんな人間でも、特に取り柄の無い(という自己評価の)人間でも選択だけは可能だからだ。これはその根源的な要素たる選択肢によって、美少女ゲームの文脈を再び思い起こさせるものでもある。
ただ実際のところ、最終編の選択はあまりに気高く、我々の通常の心構えを超越している。

それは自己犠牲ともまた異なる。
責任というものには恐らく2種類あり、端的に言えば過去への責任と未来への責任だ。過去の結果は変えることができないから、それに責任を取るというのは結局「私が悪かった」などと認めることに帰結する。一方の未来はこれからの行動に懸かっているから、それへの責任は不断の行動によってこそ示される。
自己犠牲とはこの観点からすると、未来への責任の放棄に他ならない。特に英雄的な散り際など見せたときには、もう自己実現へ完全に振り切っていると言っても過言ではない。確かにその辺の大人がそうするのは勝手かもしれないが、「先生」はそうであってはならないのだ。たとえ何があっても生徒の未来を祝福しなければならない、死を、世界を、形なき悪をすら越えても。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?