映画『ルックバック』、未来ではなく過去によって

同作者の『チェンソーマン』を愛読しているのもあり映画『ルックバック』を観た。元の読み切りにも興味はあり、読んでから観る選択肢もあったが、原作と比較して差異がどうこうというのは如何にも安牌というか、「何事か」を言うには良いが真に劇的な体験からは程遠く思えた。まぁそんな事情はよくて映画をいきなり観に行ったという話。

観終わった初めの印象は「孤独」であった。それは確かにif世界(解釈は色々できるがこう呼んでおこう)でも最終的に二人が出会う訳だが、(特に京本は)それまで非常に長い間を孤独な研鑽に注いでいる。どこへ行ってもクリエイターは孤独だと、そんな感想で私は悶々としていた。

他人の評など探ると藤野と京本を「作者と読者」だとか、「凡人と天才」だとかの対立軸に置く立場が見られる。
前者は割と理解できる視点ではある。「ファン」であった京本との出会いから始まり、京本の机にあった「読者アンケート」に至るまで、確かに京本は重要な場面で藤野にとっての読者として、創作活動を励ましてきた。ただクリエイターの原動力というものについての作品と理解するのは、この映画独自の内容を捉えたものと言えるだろうか。何しろその読者はいなくなってしまうのがこの物語の結末なのだ。それでもどこかの未だ見ぬ読者のために描く、それはやはり孤独ではないだろうか。

後者は序盤において明確に打ち出される関係で、何よりスケッチブックの数の対比ではっきり可視化されているものの、物語を通じて一貫する軸ではないのではないか。そう捉える端緒は京本が藤野のファンだったという事実だが、その後の藤野の言動こそ決定的だったように思う。もう漫画は描かないのか? 藤野はステップアップのため、構想はもう頭にある、など見栄を張っているとしか思えないようなことを捲し立てる。性格的に実はそんなことありませんでした、今から必死でどうにかします、となりそうなところ、話はスムーズに共同製作に進み(一年掛かりとは言え)するっと入賞してしまう。藤野もまたストーリーを考えたりネームを切ったりの点では天才的だったということだ。我武者羅に漫画を描き続ける日々において、二人は最早対等なクリエイター同士だった。

これが真に重要なところだ。私が漫画を描かなければ、京本は死ななかった。それでも何故漫画を描くのか? それはつまり、二人で漫画を描きまくったこの日々はここにしかないからではないのか。
確かにif世界でも二人で漫画を描くという結末ではある。しかし再会の場面における熱量の差を見よ。if世界の二人に背中へサインを貰ったり、吹雪の中コンビニへ当落を見に行ったり、寝ても醒めても漫画を描き続ける共同生活をしたり、そんな体験があるだろうか。その圧倒的熱は、ここにしかないのだ。

より良い未来のために頑張ろうだとか、そんなテーマ性で終わる物語は多い。要するに未来の希望を根拠に今の行いを肯定している。現象維持の行いだけではなく、「ある程度の幸福を保証するプラン」をも破壊して「より良い未来」を追い求めようとする物語も珍しくない。
しかし本作は『ルックバック』と題されている。if世界からの漫画を見たとき、藤野の脳裏に蘇ったのは二人で漫画を描きまくった青春の日々であった。それを振り返ったとき、藤野の漫画を描くという行いはどうしようもなく肯定されたのだ。だから『ルックバック』なのだと私は思った。未来に何の希望も無くなったとしても、過去は君を肯定している。そういう話なのだと。

🌙

京アニ襲撃事件が背景にあるのは明らかだし、「ルックバック」に多様な意味合いが含まれているのも確かだろう。しかし私が体験したもの、受けた印象に最も迫れる言葉というのはこういう話だと思う。あるいはそれを「テクスト的現実」と呼ぶのかもしれない。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?