『メメントモリ』との1ヶ月、または放置ゲームが「正解」なのかどうかについて

ソーシャルゲームには2つの車輪がある。インゲーム、つまり曲がりなりにもそれを「ゲーム」たらしめているゲーム性における性能。そしてアウトゲーム、ゲーム性の外側で展開されるストーリー上の魅力。この二つがキャラ(または各種アイテム)の価値を生み出し、課金へと導く。
(『原神』のような3DRPGではストーリーもインゲーム上で展開されることが多くなるので、インゲーム・アウトゲームという対比はもしかすると無用かもしれない。)

だがここには歪みがある。ゲーム性が「性能」という価値を作り出す環境として求められている限り、それが面白い必要は全く無いということだ。
一度その価値が生み出されるや否や、体験の主眼はゲームプレイから急速に剥離し、ガチャという瞬間に局限する。結果としてゲームの為にガチャを引くのではなく、ガチャの為に修行僧の如く起伏の無いゲームプレイをただ積み重ねるという体験が発生する。「虚無」と呼ばれる事態がこうして現出する。

(否、永遠に「味のする」コンテンツがある――PvPというものが。そう思われるかもしれないが、実のところそのゲーム体験はバランス調整により絶えず変化しているし、古典的ボードゲームのような一見「完成」されているゲームですら競争力を保つためには新要素が欠かせない。何のアップデートもしなくなった『雀魂』がどれほど色褪せて見えるだろうか。)

この真理に辿り着いたものはこう要求する、「オート/スキップを実装せよ」と。少なくともインゲームの体験を絶えず更新する意欲がない場合そうすべきである。無なゲームプレイを要求する理由はとにかく「やること」を何か提供し、いわゆる可処分時間を占有する為に他ならない。しかしそんなものに「ゲーム」を名乗る資格は無いのだ。

そんな訳で『メメントモリ』となる。マーケティングで言う「認知」としては帰省したとき猛烈にCMをやっていた点が大きいが、「関心」としては放置型のゲームシステムだったのが決定的と言える。
上述のような問題意識に立てば、ソーシャルゲームにおいて潔くインゲームを完全自動化するのは「正解」に思えてならない。そこで実際どんなものかを触ってみることにした。

ソーシャルゲームを始めた人間はまずwikiを見なければならない。この手のゲームには多かれ少なかれ「取り返しのつかない要素」があるからだ。ゲームプレイの最適化は陳腐化への近道でもあるが、大損もまたやる気を削ぐ要因となる。
有志というか個人サイトのような趣のあるwikiによれば、少額のプレイには限界があるらしいが何年先なんだよと見なかったことにしつつ、2人の最強キャラがいるらしいこと、まず引いた中で一番好みだったナターシャの育成が大変らしいことなどを知る初日。

2日目、早くもLv.100という天井が見え始める。レベルを上げるということは自動獲得のリソースで賄えるが、レベル上限を上げるのはガチャを引くことでしか実現されない。
以前『ギター少女』というゲームを少し触ったことがあり、これは指数関数的にリソースが増加する一方で対数的に表示されるので、結局時間に対し線形にゲームが進行するものだった。一般的な例としては『クッキークリッカー』だろうか。放置というとその手のインフレと和解したゲームの印象があり、ガチャによって進行がアンロックされるという構造がやや意外であった。

またwikiの火力主義について「ヒーラーは要らないのか…?」という気持ちだったが、レベル的に格上と戦い続ける都合上、耐えるのではなく1巡目(アクティブスキルの初回発動がある2ターン)で相手アタッカーを落とす戦術が支配的らしいことが見えてくる。
そして育成していく中、2キャラ目のLv.80を越えようとして赤い玉(潜在宝珠)の不足に気づく。ゴールドや経験値ではない真のボトルネック、赤玉がこうして登場する。(後に経験値も必要になるようだが。)

メメントモリのゲーム進行はプレイ時間が赤玉に変換され、献身性がガチャ=レベル上限に変換されることで成り立つ。
献身性とは便宜上の呼び方だが、つまりデイリーを地道にこなすようなマメさか、または課金(有償石)でガチャを回す羽振りの良さを言っている。前者は継続率に、後者はユーザー単価に繋がる訳なので、結局収益モデルとしては通常のソーシャルゲームに等しい。むしろ赤玉による「time to win」が加わっているのではないか、という疑問さえ生まれる。
そう、放置と言っても本当にプレイされないのでは破綻する。やはりアウトゲーム上の何か「やること」が必要なのだ。

またメメントモリは先に触れたようなインフレと和解したゲームではない。するとつまり、ゲーム進行は徐々に鈍化せざるを得ないということになる。
ただただデイリーをこなし続け、時折育成が進むとステージが進行する。さながら砂漠の旅のようであり、どうにか点在するオアシスで凌ぎつつ、石を抱えて遥かなる黄金郷を目指す。11章クリア、運命ガチャの開放を目指して。
…しかし辿り着いてみるとどうだろうか。貯蓄のみならず達成パックをも費やしてみて、ナターシャのレベル上限は僅かに20増えたに過ぎない。膨大な副産物により赤玉には当分困らないだろうが、やはり過酷だ。まさに焼け石に水である。

とはいえLv.180でネームドの武具が開放されたり、月替わりでコルディの凸(=レベル上限)が進んだり、毎日というレベルで見なければ定期的に進展が享受できるのは利益率が良い。最近は運命ガチャに全ツして副産物の手紙(ランダムなキャラが手に入る)で広く凸が進むのを待つのが丁度良い寄り道具合に思えている。
そう、最適でない寄り道こそが重要だ。ジン゠フリークスも「道草を楽しめ」と言っていた。課金圧そのもので出来ているような育成システムに抗うならば、最適化などむしろ邪道と言わなければならない。

色々(記事を読んだり推しが始めたり)あってブルアカが本業らしくなってきたのもあり、最近は副業ポジションとして上手く収まってきた印象がある。やはり無は無らしくスキップされるべきてあろう。(またどうしてもやりたいときは編成の試行錯誤で無理攻略を楽しんだりもできる。)「正解なのか」…少なくともサブのゲームとしてはそうだというのが今の結論だ。

最後に普通の感想も述べておくと、気合が入っているだけあって音楽が印象に残る。ミミの『12じの鐘がなる』など、気付くと誰かしらの曲(ラメント)が脳内ループしていることが多い。
そう多くのキャラのストーリーを読んだ訳ではないが、キャラ付けの印象としてはまぁテンプレ気味だろうか。いやテンプレでないキャラ付けを頑張っているソーシャルゲームなど、ガンジス川の砂の一粒のようなものだが。ただマーリンからの呼び方にちゃんと動機があるのなどは悪くない。


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