シェフェール『なぜフィクションか』を読む②

今更だが、この手の本の例に漏れず訳者解説が研究史や本文内容の優れた解説になっているのに気づいた。先に読んだ方が良い後書きというものも実は世の中には存在する。

第二章(続)

アリストテレスを参照しつつ「模倣による表象」をフィクションの心理機構として考える。(p.91-)これは再実例化、偽装のどちらとも違うミメーシス的事象(ミメーシスは要するに模倣)として先に挙げられていたものでもある。(p.72)

表象とはつまり心の中のイメージだが、重要なのはそれが単一の能力であることだ。「表象の様相はひとつしか存在しない。」(p.96)例えば隣の部屋にある時計をイメージすることと、小説に登場する架空の時計をイメージすることに、何ら異なる心理学的作用は働いていないのである。それらは等しく時計についての視覚野における図像の再現、またより高次のエングラムの再発火であり、それ以上のことは文脈の付加的情報でしかない。(これは恐らく物語実在論の淵源でもある。)
フィクション特有の表象機構のようなものを考えたくなるのは結局、「フィクション的に真」などと言いたくなる古めかしい真理条件的意味論の類縁でしかないのだろう。認知心理的にはそうした厳格な意味論はあまりにも実情から乖離している。

模倣による表象は相似性による表象と言い換えて良い、つまり「似たものを思い浮かべること」と言えると思うが、興味深いのは「文化を越えて一般化しやすい」(p.102)という指摘だ。確かにピクトグラムの普及などその実例ではあるが、いかに世界の象形文字が多様であるか、ジェスチャーの意味合いが異なるか、といったことを考えると個人的にはあまり信用できない。これも構造主義者に特有の普遍性信念なのかもしれない。

この章で最後の重要概念が遊戯的な模倣だ。子犬が敵意のない攻撃、噛みつきなどで遊んでいるとき、そこには本気の行為でないと告げる「メタコミュニケーション的」信号が常に伴う。「このようなメタコミュニケーションの存在は、あらゆる遊戯的偽装が偽装として知らされる必要があることを示している。」(p.111)
ごっこ遊びは遊戯的偽装による社会的学習として考えられ、人間においてはこれが生涯続くことで多様な社会環境へ適応できているという指摘は面白い。「人間以外の種の成体は遊戯的偽装の遊びに耽ることがほとんどない」(p.112)のを幼形成熟で説明している。

さてこうして模倣、または偽装について分析が進んできた訳だが、偽装は主体的な行為であり、創作者には妥当するが受容者には特に述べることがない。そこで偽装そのものではなく偽装から導かれるもの、フィクション世界が問題となる。こうして次章、「フィクション」と題された本丸へと続く。


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