アンディ・ウォーホルと表層を愛すること

マルセル・デュシャンが小便器を『泉』なる作品として提示して以降、アートにとって「美」が本質的だという見方は永久に失われてしまった。

そこに反ブルジョワ的なダダイズムの潮流を見出すにせよ、ただ選ぶことを芸術表現として宣言するデュシャンの思想を読み取るにせよ、『泉』はアートが感性というより理性の領域に移った象徴的事件と解されている。見た目ではなく内容、言いたいことを理解するのが「鑑賞」の実態となった。

 ただ現実はどうだろうか。どんな現代アートの巨匠にしても、写実主義だとか印象派だとかそれ以前の作家より人気を博しているようには見えない。これは単に人々の教養が足りない所為だろうか? いやしかし、現代アートの中には自作に「何の意味もなかった」「あれには全く何の理由もなかった」と述べた作家もいる。それがアンディ・ウォーホルだ。

ウォーホルの最も有名であろう作品、マリリン・モンローの肖像画は実際の写真をシルクスクリーンで転写して制作されている。確かに独特の虚ろな笑顔からはマリリンの数奇な人生だとか、アメリカの消費社会だとかを読み取ることは可能だろう。だが第一に、一瞬見ただけでも印象に残るテクスチャとしての卓越性、つまりは純粋に優れた表層こそがこの作品を代表作にまで押し上げたのではないか。

ウォーホルが「アートは深くも深刻である必要もないことを証明した」と美術史家カーク・ヴァネドーは述べたという。文学が「意味」を追い求めるのを止め、テクスチャへ愛情を注ぐようになったことを思い出せば、アートについても我々は「ハイカルチャー」の額面に臆することなく、自信を持って表層を愛して良いように思われる。(無論、知識を付けてコンセプチュアルな作品を楽しめるのならばそれも良い。)

参考

  • 宮下規久朗『ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡』光文社、2010年

  • 佐々木健一『美学への招待 増補版』中央公論新社、2019年


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?