シェフェール『なぜフィクションか』を読む⑤

『鳴潮』で忙しく先週は飛ばしてしまった。

第三章

第五節

フィクション的モデル化について。前回述べたようにそれはフィクションを理解&体験すること、没入により「フィクションの中へと導き入れ」(p.172)られることを意味する。没入は手段であり、モデル化、「フィクション世界」へ触れることこそが目的だ。

フィクション的モデル化はどういうものか、つまりフィクション理解がどうなされるのか。これまで見てきたようにフィクション性とは語用論的、つまり使い方の問題以外ではありえないのだが、20世紀に提出された定義は意味論的であるが故に不備を抱えていた。
ここの「意味論」とは世界の何を指すか、という問題であり、古典(⇔認知)言語学の枠組みで議論されている。形式意味論と呼ばれるらしい。プロトタイプ理論を始めとする認知の主観的側面を取り零していて、実態を理解するためには注意する必要がある。

フィクション的言説はこの観点からすると「現実の」何かを指す訳ではないから、そこを定義に使えそうな気がしてくる。フレーゲは意味を持つが外示は持たない、「ゼロ外示」としてフィクションを定義した。
しかしこれは(特に古典的には)意味というものが成立しなさそうにも見える。数学的に言えば対象が存在しないモデルではあらゆる命題が真になるということか。(基礎論でしかこういう話を知らないが形式意味論でも「モデル」だとかを扱えるのだろうか?)

「カルナップ流の検証主義的厳密主義」は実際にそう解釈したが、これだとフィクション的言説と勘違い・嘘さえ区別できなくなる。
グッドマン等はゼロ外示でありつつ「隠喩的に」何かを指示する、と解釈する。しかしこれはフィクションに限らない「美的」な態度だ。(というのはバーネット・ニューマンの簡潔な画面からも「何か」を汲み取るようなことを指すのだろう。)
可能世界理論による定義は指示の対象を拡大し、現実以外の「可能世界」を外示に認める。

可能世界理論の不備として3点、「フィクション世界が可能世界を律している論理に従わないこと」(形容矛盾が実在できるなど)、「フィクション世界は不十分な世界」であること(書かれていない設定など)、「意味論的に同質ではない」こと(黒澤羅生門を挙げており、矛盾した言説を含みうるということか)が述べられている。ただ個人的には可能世界がそこまで厳密なのか、現実と相同にしても現実もまた不確定ではないか、と思えるが。

さてフィクションを意味論的に定義すべきでないこと、ノンフィクションとの区別が語用論的であることを認めると、フィクションもまた「現実の中で」意味を持っているということになる。それがミメーシス的なモデル化という形態だ。(結局、意味内容では区別されないのだから、理解の仕方自体を考える必要があるということか。)

まずモデル化の分類で、「法則研究モデル」とミメーシス的モデルに分けられる。
法則研究モデルは第二章でデジタルな、または数学的モデルとして提示されていた。これに対しミメーシス的モデルはそれが表象しているものの再実例化であり、例によってしか成り立たないという。(事例理論的な解釈。)
例えば「1」は完全に抽象的なのに対して「りんご」などは具体的なイメージと結びついている、ということか。ただこれは「円」が図像的にも方程式(x²+y²=r²)でも理解される、といったことから疑わしく、ラネカー的なスキーマ化の一貫した関係、つまり具体的表象の抽象化によってあらゆる抽象概念までもが獲得されると考えたくなる。

更にミメーシス的モデルは「ミメーシス゠相同的モデル」と「フィクション的モデル」に分けられると言い、後者は「全体的かつ局所的な相同性の制約ではなく、それよりもずっと弱い、全体的類比の制約」(p.185)と述べるが意味不明だ。シェフェールはここで思い出したように、これまで使ってきた「相同」と「類比」の違いを説明する。
つまり相同的とは表象に諸々の特徴があるからモデルもそれを持つ、という因果関係である。例えばノンフィクションの登場人物は、現実の当人が持つ性質を全て持っていなければならない。(「局所的な」とは別に空間的な含意はなく下位的な個々の特徴を指しているように見える。)だが現実を題材にしたフィクションでは、モデルには好きな特徴を詰め込むことができる。いやフィクション自体がそうなのだ。「フィクション的モデルは、事実上常に現実世界のモデルなのである。」(p.188)理解の仕方という意味で、フィクション世界は現実の変種としてしか理解され得ない。

推論について。フィクションから現実への推論は誤った信(それは現実における不利益を生む)に繋がるため遮断される一方で、現実からフィクションへの推論は基本的に遮断されず、読解に必要でもある。後者ではフィクション世界と衝突する場合にのみ遮断が起きる。シェフェールは「某氏はベイカー街B221に住んている」「ベイカー街221Bは銀行である」が現実で成り立つとき「某氏は銀行に住んでいる」と結論する推論を示し、この某氏がシャーロック・ホームズに置き換わると推論が無効になること(後者はフィクション世界についての命題ではないから)を観察している。
ただ個人的には「シャーロック・ホームズがフィクションの人物だからフィクション世界で解釈する」というのはこれまでの語用論的議論に沿わない気もする。「シャーロック・ホームズはベイカー街B221に住んている」「ベイカー街221Bは銀行である」と提示されたならば、この2命題は共にフィクション世界へ言及すると解釈されるべきではないか?

最後に再び没入とモデル化の観点から、または内容と形式の観点から、両者が不可分であることを指摘する。それは「フィクション世界は表象としてのみ存在するという事実」(p.197)の帰結だ。
ただこれはやはりカント的な問題意識と通じるところであり、現実でも「物自体」に触れられる訳ではなく、現象によってのみそれは認識される(気がする)。つまりフィクションとは「フィクション自体」が存在するとは信じられておらず、それ故にメディアごとに固有の形式の表象が単一の「実在」へと解釈されない、という存在論的前提があるだろう。


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